第6話 田舎者
私の名前は
節と書いて、ミサヲ、と読む。
この春から高校進学を機に、住み慣れた田舎からこの都会へと一人で越してきた。
御母様の伝で分家筋の家で居候をすることになり、いくら伝とはいえ初対面の私を快く受け入れてくれた、居候先のはつゑ御婆様にはどれだけ感謝してもきっと足りないと思う。
それなのに、入学初日からいきなりやらかしてしまった。
引っ越しのごたごたが片付いたのが入学式の前日の夜になり、そのせいでこれから暮らすことになるこの街の様子も何一つ知る暇さえなかった。
高校受験の時に一度訪れてはいたけれど、その時は極度の緊張から街の様子に気を配っていられる余裕なんてなかった。
つまり、まったく右も左もわからないまま入学式の朝を迎えることになってしまった。
あれだけ事前に練習していたネクタイの結び方も、不慣れなせいで慌ただしくなってしまった朝の準備に追い立てられて、うまく結べていたのかどうか気にかける余裕さえなかった。
それでもキラキラの快晴に出迎えられるみたいに、とても気分良くはつゑ御婆様にいってきますと挨拶して家を飛び出し、大通りに面した歩道まで出て来て愕然とした。
――人間が多い。
予想はしていたつもりだったけど、行き交う人々の多さにただただ言葉を失ってしまった。
私の暮らしていた田舎は誇張でも何でもなく、人間よりもイノシシの方が多いと言われるような集落だった。
時折見かけていた、縦横無尽に田んぼを駆けずり回るイノシシたちは微笑ましいと感じていたけれど、押し寄せる波のような勢いでさも当然と言わんばかりに、無表情な上に無言で行き交う人々の勢いはイノシシの比ではなかった。
そんなイノシシを彷彿とさせる人の波に巻き込まれないよう、事前にはつゑ御婆様が用意しておいてくれた手書きの地図を頼りに、慎重に慎重を重ねてそろりそろりと学校にたどり着いた頃には、ぐったりと疲れ果ててすでに体力の限界だった。
講堂に入ったものの極度の緊張と、ここでもとにかく多い生徒の数に完全に人酔いしてしまい、入学式の開始を待たずに養護教諭に抱えられて保健室のベッドに寝かされてしまった。
「苦しかったでしょう? あなたこれ、ネクタイ締めすぎよ」
養護教諭の
そこでやっと、ほぅっと息を吐くことが出来て、同時にどっと疲れが押し寄せてきた。
「まだ式の途中だから講堂に戻るけどゆっくり休んでなさいね」
岡林先生が言い終わらないうちに、私は気を失うみたいに眠りに落ちていた。
それからどれくらい眠っていただろう。
そよそよと吹き込んできた風で目が覚め、ゆるゆると身体を起こす。
窓の外を眺めると、当然ながらまったく知らない景色。
入学式は終わってしまったのだろうか?
初日からこんな調子で、私は大丈夫なのだろうか?
こんな様で、わざわざ都会にまでやって来た目的を成し遂げることができるのだろうか?
……気持ちがどんよりと落ち込んでくる。
けれど、私には悠長にしょげ返っている暇なんてないのだ。
私は惣引家の長子。
こんなところで二の足を踏むなんて許されないのだ。
やるしかない。それしかない。
頑張れ節、頑張れ! 私は今までよくやってきた! 私はできるや――
っ! ……誰かいる。
たとえ心が折れていてもっ! と自分への叱咤を続けようとしていると、ふいに人の気配を感じた。いいところだったのに。
岡林先生が戻ってきたのかと思って視線を移すと、保健室の入り口にまったく知らない人が立ち尽くしてこっちを見ていた。
一瞬きょとんとして見つめ合ってしまったが、すぐに我に返りブラウスの胸元を手で押さえかけ、立ち尽くしているのが女の子だと思い至りホッと胸をなで下ろした。
「先生なら出掛けてるわよ」
私と同じで体調が優れなくて保健室にやって来たのだろうか? だとしたら、すっかり眠り込んでたっぷりと休んだ私はベッドを譲らないと。
――それにしても、なんて可愛らしい子なんだろう。
小柄で見るからに華奢な体付き。都会にはこんな目を見張るほどの可愛い子が普通にいるのだと目の当たりにし思わず息を飲んだ。
本当にすごい。驚きしかない。
しかも、ちょっぴり幼さを残す童顔に子猫みたいな黒目がちのクリクリした目で、瞬きもしないでまっすぐにこちらをみつめてきてなんだかドキドキしてしまう。
「あ、ごめんなさい。すぐに退くわね」
改めて我に返り、ベッドを譲ろうと慌てて立ち上がって、そこであえなく立ち暗みを起こしてしまった。
――ああ、まただ。
すぐに慌ててしまう悪い癖を治さないと、なんて考えながらもふらふらと覚束ない足取りでバランスを崩し、立ち尽くしたままの女子生徒に倒れ掛かってしまった。
そこからはもう、驚きの連続だった。
あまりの驚きのせいで具体的に何が起こったのかさえ細かくはよく覚えていない。
キーワードとして印象に残っているのが、下着を着けていない、男装した、おっぱいを落とした子、だった。
そして、女子生徒が大声で「ボクは男だ!」なんて声高に叫んだせいで、反射的に一気に込み上げてきてしまい、うかつにも吐いてしまった。
不可抗力とはいえ、よりにもよって、あれだけドキドキを覚えた可愛らしい顔に向かって。
いつの間にか戻ってきていた岡林先生の切り裂くような悲鳴よりも鮮明に、私が汚してしまった女子生徒の顔が差し込む日差しを反射してキラキラと輝き、まるで悟りを開いた仏像みたいに穏やかな表情に見えたことは辛うじて覚えている。
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