第5話 キラキラ
「ご、ごめんなさい……」
慌てた様子で女子生徒が、倒れた拍子のまま手をついていたボクの胸を押して立ち上がろうとする。
さらりと、まるで絹糸のようななめらかな黒髪が流れ落ちてきてボクの頬をくすぐる。
はあぁ~……、やっぱりすっごいイイ匂いがする……。
打ち付けた後頭部の痛みと相まり、女子生徒の髪の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、って、いやダメだダメだ、堪えろ。これじゃあ匂いフェチの変態みたいじゃないか!
なんとか意識を持ち直そうと目を見開くと、ボクに覆い被さったまま大きく瞬きを繰り返している女子生徒と視線がぶつかった。
うわ、今さら当たり前だけど、なんか、すごく近い……。
心配するように眉尻を下げ、なにか合点がいかないみたいにわずかに首をかしげるその角度でさえも、全てが計算され尽くしてるみたいな完璧な美しさを醸し出していた。
「え、っと、……あなた、下着は?」
なんとも言いにくそうに言葉を詰まらせながら、女子生徒はボクの胸をまさぐるように手を這わせ、長いまつげを震わせて問い掛けてきた。
……は? 下着?
え、ちゃんと、履いてる、よ?
いや、毎日きちんと履いてるかどうか意識なんてしてないけど、たぶん、普通に、履いてる、はず、だよ……?
改めて問われるとなぜだかめちゃめちゃ不安になってくるんだけど……。いやいや、履いてるよ。履いてるに決まってる! 自信を持て!
けれど、ボクの思案をよそに、女子生徒はしきりにボクの胸をわしゃわしゃとまさぐり続けながら「え……? え……?」と困惑の色を深めている。
うん? ……あれ?
ちょっと待って? 下着って、もしかして、胸部に装着する、いわゆるブラジャーってやつのことを言ってるの?
おいおい、おかしなことを言ってもらっては困るなぁ。
男のボクが胸部に下着を装着する理由がどこにあるっていうんだよ?
保護するべき膨らみも形状を整える必要だって一切ないんだぞ?
いくらこんな見た目だからってブラジャーなんて付けてたら真性の変態じゃないか。まだ匂いフェチの方がいくらか可愛げがあるよ?
「え、……あなた、……え、え??」
あいかわらず繰り返す瞬きの数に応じて疑問符を頭上に点灯させながら、覆い被さった姿勢のまま、ギギギ……ッと、錆び付いた古い機械みたいに首だけを動かし、ボクの下半身に視線を移す。
当然ながら、ボクは男子の制服だからスラックスだ。
「……え、……お、男? え、どっ、どうして、え??」
視覚情報としてその大きな目に映るボクの姿が、いわゆる普通の男性のものと一致しないせいで脳内が混乱してるんだろう。
うん、まあ、もっともな反応だよね。特別に珍しくもなければ面白い反応でもない。何度も言ってるけどこの見た目だから、もう慣れっこなんだ。むしろ飽き飽きさえしてる。
「あっ、わかったわ。……男装してる、じつは女の子、とか?」
「……違うけど?」
「だったら……、あっ、もしかして、成長の過程で女の子に変化してる途中、なのかしら?」
「いや、なにそれ?」
「え、っと、だったら…………、あっ! 走り幅跳び、いいえ、高飛びだったかしら? それに憧れて男として学校に通うために――」
「やめろっ! それ以上はいけないっ!」
そんなイケメンがパラダイスして花盛りになってそうな展開が現実にあるわけないだろ!?
「じ、じゃあ……、えぇ、っと…………、あっ! 水をかぶると女に――」
「よせっ! 各所から怒られるぞっ! てゆうか、さっさと目の前の現実を受け入れろよ!?」
ボクは伝説の秘境で修行なんてしたことはないし、まずそもそも海外に行ったことがない。
「ち、ちょっと待って、だったら……」
眉間にくっきり皺を寄せて女子生徒が思考を巡らせる。
いやもういいよ? 大喜利会場じゃないよここ?
それはそうといつまで覆い被さったままでいるんだよ。こんなところをタイミング悪く誰かに見られたりしたら――
「
ガラリと保健室の引き戸が開かれ白衣を着た女性、まあ普通に考えて養護教諭が戻ってきた。
と同時に、ボクと女子生徒の有り様を見て絵に描いたように絶句する。
タイミング悪く誰かに見られたりしたら、安っぽいドタバタコメディみたいな展開になっちゃうだろって言い切らないうちに、どうやら図らずもその展開が濃厚になってきた。
「――あ、あなたたちっ、な、なに? や、って、って、え??」
白衣の養護教諭は状況を掴みきれずに歯切れ悪く途切れ途切れに言葉を刻む。
目の前で男子生徒と女子生徒が床で覆い被さっている構図なのだ。
本来であればヒステリックな声を上げて引っ剥がしにかかるべきところだろうけど、なにぶんボクの見た目がほぼ女の子なせいでぱっと見は女子生徒同士に見えてしまってるのだろう。
女の子同士なら床で覆い被さっていても良いってことはないだろうけど。
「せ、先生! これは、ちょっとしたToラブるで……」
「いや発音っ! あと字面も気をつけてっ!?」
「それにこの子、おっぱいどこかに落としたみたいでっ!!」
「えっ!? おっぱいって落っことしたりするの!?」
よくて垂れ下がるくらいだと思ってたのに新事実発覚だ! って、そんなわけあるはずない。
みっともないほどオタオタしてる養護教諭の混乱に拍車をかけるようなこと言わないで!?
「……おっぱい、え、どこ、おっぱい? おっぱい??」
ボクの胸にあるはずのないものを探し求めて、まるでうなされてるみたいにおっぱいおっぱい呟きながら女子生徒は懸命にまさぐり続ける。
だからあるわけないだろボクに!
そんなにまさぐりたいなら自分のでも触ってろよ!
ああ、ほらっ、おっぱいおっぱいなんて恥ずかしげもなく連呼するから、大きく開いたブラウスの襟元を意識しちゃって、さっきからチラチラ覗いてる膨らみの始まりが気になって仕方ないだろ! こ、これは不可抗力なんだからねっ!?
「いや、だからっ! ボクは男だっ!!」
まさぐり続ける女子生徒の腕を掴み一喝してやる。
なにを取り乱してるのか知らないけど、まずは落ち着かせることが先決だろう。
「――おと、こ?」
ボクを見下ろしたまま、びくんと身体をこわばらせる。
それまで底なし沼に嵌まってもがき苦しむみたいに大暴れしてた女子生徒がピタリと動きを止めた。
ふぅ。ようやくおとなしくなってくれた。
……ただ、なんだか明らかに様子がおかしい。
細い顎をちいさく震わせながら背中を丸め、ぴくっ、ぴくっと、身体を小刻みにヒクつかせている。
んん? なにそれ? どういう反応なのそれ?
あ、アレかな? いわゆる男性アレルギーってやつなのかな?
詳しくは知らないけど、触れられるとじんましんが出るとか、なんかそういうやつ。
だとしたらいつまでもボクの上に乗っかってないでさっさと退いたほうがいいよ。
こんな見た目だけどボクはれっきとした男なんだよ。
「……お、お、男?」
そうだよ、何度も言ってるでしょ。
俯いた拍子に長い髪が流れ落ちて女子生徒の表情を隠してしまう。
訊ねるというよりは、まるで自分に問いかけてるみたいな呟き方だった。
――そして、その時はあまりにも不意に訪れた。
「お、お、お――」
辛うじて聞き取れるかどうかほどの絞り出すような声がボクの耳に届いた次の瞬間、その露わになりかけている胸元を一度大きく仰け反らせて、
「お、おええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――ッ!!」
声とも音とも判別しかねる擬音といえばいいのだろうか、声になりきらない呻きと共に、盛大にキラキラを吐き出してきた。
ボクの顔に向かって。
キラキラを――
こんな例え方じゃわからない人もいるのかな?
いわゆるリバース、なんて言われ方もするやつ。
ああ、もう、濁してないではっきり言うよ。
つまるところ、あれだけ綺麗だの美しいだのと形容し続けていた整った顔を、これでもかと言わんばかりに苦悶一色に歪ませて、その女子生徒は、ボクの顔にゲボ吐いてきたんだ。
※※※
これがわざわざ冒頭で含みを持たせて言ってた『高校に入学した矢先に口にするのも躊躇われるひっどい目に遭った』って話なんだ。
どう? なかなかだと思わない?
翌日からが週末で本当に良かったよ。土日の二日間ともうなされ続けて寝込んだもん。あの、なんとも例えようのない酸っぱ――
……うん、止めておこう。
こんなこと具体的に説明しても誰も幸せにならない。
とにかくこれが、この先ひっどい目に遭い続けることになるボクの運命の分岐点だったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます