第19話 最悪
「もういいだろ! 拒絶反応? だっけ? 完全に出かけてただろ!」
「いいえ、出てないわ、出てない。……飲み込んだもの」
「出てんじゃん!? 聞きたくなかった!!」
「待って、出てはいないわ。本当よ。だって、本来なら触れられた瞬間に出ていたとしてもおかしくないんだから」
「なんでちょっと自慢げなの!? ってことは、あのまま握ってたらゲボぶっかけて来てたってことだろ!?」
「そんな風に、人が限界ギリギリまで努力して我慢してるのを悪く言うのは感心しないわ」
「いや、限界ギリギリって言ってるじゃん! なんで他人事みたいな言い方なの!?」
「限界を超えた先にたどり着ける場所があるって言うでしょう?」
「それでたどり着いたの生徒指導室だっただろ!? なんでちょっとアスリートの名言っぽく言ったの!?」
「大丈夫よ、そんな直立姿勢で吐いたことなんて、1回くらいしかないわ」
「あるんじゃん!? どこが大丈夫なんだよ!」
「たったの1回よ。まだあわてるような回数じゃないわ」
「いや、あわてろよ!? 1回でも出したらそこで試合終了だよっ!」
「私、ここ一番でのディフェンスには定評があるのよ」
「口を手で押さえて我慢するのをディフェンスとは言わないよ!? ただの力技だよそれ!?」
あまりにも無益な果ての見えない問答を続けながらジリジリと
獲物を追い込む野生動物はきっとこんな動きなんだろう。ただし、追い込む側が触ってもらうためというわけのわからない状況なのだけど。
「さあ、ここからが本当の勝負、伸るか反るかの大一番よ」
「嫌だよ!? もう完全に我慢出来るかどうかのチキンレースになってんじゃん!?」
「男に二言はないんでしょう? ぐずぐず言わないで。男らしくないわね」
――また言った。性懲りもなく。
瀬尾くんに向かって『男らしくない』は禁句だって、ちゃんとわかったうえで言ってるんだ。
「う、
「かのちーっ、瀬尾くんにカメラを向けて一瞬だけ動きを止めてちょうだいっ!」
二人が揃ってあたしに向き直る。
だから、かのちー呼びはやめて。
アンタとあたしは、そんな関係じゃないでしょう。
念のために言っておくけど、カメラを向けられてぎこちなくなるのなんて今時アンタくらいのものだから。
そもそもどうしてあたしが瀬尾くんの嫌がってることに肩入れしないといけないのよ。
「ほらっ、かのちー! こっちから狙って!」
――本来だったらそんなヘマはするはずがない。
どんな状況下にあろうとも、頭のどこかで常に意識はしていて、咄嗟にかばうくらいには愛着を持っているのだから。
ぼんやりしていたわけじゃない。男子更衣室なんて未知の領域で、瀬尾くんを前に繰り広げられるおかしなやり取りと居心地の悪い緊張感で舞い上がっていたのかもしれない。
そんな、様々な不確定すぎる要素が複雑に絡み合って……、なんて、なにも小難しく考える必要なんてないんだろう。ただ単に、うっかりしていたんだ。
腕を引っ張られた拍子にストラップで肩にかけていたカメラが大きく揺れて――
ガチャンッ。
と、不穏な金属質の尖った音が更衣室内に響いた。
あたしのカメラがロッカーにぶつかった音だ。
その音を皮切りに、あれだけ騒がしかった室内が水を打ったように静まり返る。
――何分? ううん、何秒経った? ぜんぜんわからない。
叩き付けられたみたいな静寂が、あたしの両肩にただただ重く重くのしかかる。
「い、いい加減にしてっ!」
静寂を払い除けたい一心、ただそれだけだった。
なのに、口を衝いて零れ出た言葉と発せられた声量に自分でハッとしてしまう。
「……か、かのちー」
「ねえ、瀬尾くんは嫌がってるよね? 見たらわかるでしょ?」
何事か続けようとした惣引節をぴしゃりと遮る。
嫌だ。何も言わせない。何も聞きたくない。
それだけを考えながら自分が紡いだ言葉に熱がこもるのを感じる。
あれ? あたしは何を言っているんだろう? 何を言おうとしてるんだろう?
おそらく、この場で一番の混乱に見舞われているあたしの思いとは裏腹に、ひとたび熱を孕んで口から飛び出してしまった言葉はもはや飲み込むことなど出来ない。それどころか堰を切ったように後から後から溢れ出してくる。
嫌がる瀬尾くんに対してとにかくしつこい。
女扱いされることを瀬尾くんが何より嫌っていることは見ていればわかるだろう。
一目瞭然のはずだ、そんなことは。
それなのにこの女は、瀬尾くんの気持ちを鑑みることもなく自分の欲求を満たすためだけに、ずけずけと土足で踏み荒らしているじゃないか。
しかも瀬尾くんに触れてもらうだなんて頭の悪い作戦を提案したのが、まるであたしであるかのような物言いで片棒を担がせようとまでして。
拒絶反応だか男性不信だか知らないけど、そんな眉唾物な言い分をどこまで素直に信じろって言うのよ?
――バカにしないで。
無理筋だ。信じられるわけがない。
面白半分でこんな可愛らしい見た目の瀬尾くんのことをからかっているんじゃないの?
それとも全部初めから計算ずくで、自分の優れた容姿に突拍子もない発言と行動を重ねて、ギャップを演出しながら色目を使っているんじゃないの?
ああ……、体の内側が燃えるように熱い。
あたしは今、頭で考えているの?
今こうして頭の中を目まぐるしく駆け巡っている、どこをどう触れてもささくれ立っている気持ちは、言葉として口からこぼれ落ちてしまっているの?
どこまでを意味を成す言葉にしたんだっけ? 最初の一言だけ? それとも全部? ぜんぜんわからない。
でも、既視感って言うんだっけ? なぜだかお腹の底の方でぞわぞわするこの感覚はよく知っている。
「ふざけないでよ? なんなのアンタ? なにがしたいの? ねえ?」
あたしの畳みかける熱を帯びた言葉にあてられたのか、叩き付けられるがまま微動だにせず立ち尽くしている。
立ち尽くしている、のだと思う。きっと。
予想だにしないほどの勢いで口を衝いて零れ続ける言葉に、あたし自身が平静を失ってしまい、叩き付けているはずの惣引節の姿を直視できない。
ああ、知っている。よく知っている。この感じは、アレだ。
「――二度とあたしに話しかけないで」
他の誰でもなく、あたしのせいでこんな重苦しい雰囲気を作り出したくせに、この空気の重さに耐えきれず一秒でも早くここから立ち去りたい。そして辛抱堪らずに、お決まりの捨て台詞を口にしてしまう。
ダメだダメだと思いながらも口を閉じられない。
何のことはない、よく知っている。妹たちと飽きるほど繰り返してしまう姉妹喧嘩だ。
あたしには一個下と二個下の妹がいる。歳の近さもあり、まあごく当たり前に喧嘩もしょっちゅうしてしまう。
その妹たちに対して覚える感覚と似ているんだ。
ちっとも話を聞かないところとか、一方的でわがままなところとか、ハラハラさせられる危なっかしさとか。
そのせいで、ダメだとわかっていながら、お腹の底で自分に嫌悪感を覚えつつ、いつも振り回されるあたしは我慢の限界のたびに口汚く罵って妹たちを黙らせるんだ。
ああ、もう最悪……。
カメラをそっとさする。
見なくてもわかる。やたらと不穏な金属音を響かせはしたけどあの程度で壊れてしまうほどチャチな作りであるはずがない。
カメラを手に入れてすぐの頃に、あたしよりもずっと興味津々でちょっかいを出してきた妹たちのせいで机にぶつけた時にも言ってしまっていた。
二度と話しかけないで!
なんて大人げない捨て台詞だろう。
なんて子供っぽい振る舞いだろう。
妹たち相手だったら、一週間くらいお互いに口も聞かず目も合わせずやり過ごしていれば、そのうちどちらからともなく喧嘩中だったことをうっかり忘れて話しかけてしまい、そのままうやむやになったりすることがほとんどだ。
けれどこの女は妹じゃない。
どんなに接している感覚が似ていようと、赤の他人なのだ。
だから、もう引き返せない。
一度紡いでしまった言葉はなかったことにはならないのだ。
両肩から腕がもぎ取れてしまいそうなほど空気が重くのしかかる。
そんな空気の重さ以上に、駄々を捏ねる子供みたいに喚き散らしたあたしのことを、目の前の二人がどんな顔で見ているのかが怖くて仕方ない。
――逃げよう。
そうだ、それしかない。
怖くて怖くて、ここに居続けたら潰れてしまう。
俯けた顔を上げることなく振り返り、更衣室の引き戸を一思いに開け放ち飛び出す――
と、開けた引き戸の目の前に遮るみたいな人影があった。
「うわっ、びっくりした! 瀬尾く……ん? じゃなく、て……、え、ええ……?」
飛び出したあたしとぶつかりかけて、驚いた表情を浮かべたのは養護教諭の
あたしの方こそびっくりして言葉を失ってしまったが、あたし以上にびっくりした顔の先生は、眼前に広がる状況のおかしさにみるみる困惑の色を足し合わせていく。
それはまあ、そうだろう。
きっと清掃作業の指示を出すために職員玄関で待っていたのに、瀬尾くんも惣引節も二人揃って一向にやって来ないので更衣室まで探しに来たに違いない。
何かあったのだろうかとやって来た更衣室の引き戸が目の前でいきなり開き、中から女子生徒が飛び出してきたのだ。
しかも探していた二人の生徒も揃って室内にいる。重ねて言うが男子更衣室内に、だ。
何の説明もなくいきなり目の前に広がる状況がこれなのだ。わけがわからず絶句するくらい当たり前だろう。
「な、なんでもありませんからっ!」
だからといって、あたしが律儀に状況を説明する道理なんてない。
岡林先生の脇を巧みにすり抜けて、あたしはたった一言それだけ絞り出して更衣室を抜けだし、あとはもう振り返ることもなく足早に逃げ出した。
一刻も早くこの場から離れなければ。
そうしてしまったのは他ならぬ自分自身なのに、この重苦しい雰囲気から解放されたくて仕方なかった。
もう嫌だ。なにもかもが嫌だ。
あの女のせい、なんかじゃなく、とにかく他の誰でもなく自分自身が嫌だ。
ここから1センチでも1ミリでも遠く離れてしまえばきっと楽になれるはず。そんなことあるはずないって頭ではわかっていながら、脱兎の如く駆け出したあたしの足は止まることはなかった。
背後から岡林先生の呼び止めるような声が聞こえた気がしたけど、あたしは立ち止まらない。
立ち止まれないんだ。
止まるとたぶん、泣いてしまう。
それだけはダメだ、ダメなんだ。絶対に。
ああ、本当に最悪……。
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