第25話 さよなら
ちょうどと言うべきか、拒絶反応の原因についてはしっかり聞き終えた。
結果、どうすることも出来ないんだけど。
ボクが歩みを止めると、室名札を見上げて更衣室にたどり着いたことを確認した
何か言いたげに口を開きかけ、けれどもやっぱり気後れするのかキュッと唇を結び、なんとか決心が付いたのか薄いキャラメル色に透ける瞳で真っ直ぐにボクを見据えてきた。
――本当に、気後れするほど綺麗な顔をしてるな。
今みたいに、ほんの少し陰の差す表情なんて背筋がゾクッとしてしまうほどだ。
美しさの中にわずかな悲しみを滲ませて、だからといって決して媚びてるわけじゃなく、揺るぎない決意と共に、
「私は、おちんちんを握れるようにならないといけないの」
その小さく薄い花びらみたいな唇を開いた。
底が知れないほどの清廉さを湛えた瞳に吸い込まれそうな感覚に陥りながらボクは、
「………………え、なんて??」
と、アホの子みたいに間の抜けた声で聞き返すことしか出来なかった。
いやいや……、え?
あれ、何か大事な単語を聞き間違えた? それとも聞き逃した?
……おちんちん、握る、みたいに聞こえたんだけど?
「さっき話した産み分け法、詳しくは言えないけれど……」
いやいやいや、そこは詳しく言おうよ?
詳しく言ってくれないとわけがわからないよ?
おちんちん握るってどういうことだよ??
「産み分け法の技能は、……その、……契りの最中に、おちんちんを握る必要があるの」
薄い唇をむにゅむにゅ動かしながら決まりの悪い様子で口籠もる。
……うん、ぜんぜんわからない。
数行前に、美しさの中にわずかな悲しみを滲ませて、とか、ちょっぴりポエミーなこと感じてたのめっちゃ恥ずかしいんだけど……。
ただ、それはそうと、契りってのは、つまりそういう意味のアレのことだよね?
なんだよその言い方、戦国時代なの? しかも契りの最中だなんて、要するに男女のアレの真っ最中って意味で言ってるんだよね?
危なかった。やっぱり詳しく言い始めなくて本当に良かった。あんなもじもじむにゅむにゅされながら詳しく説明されてたら、とんだ羞恥プレイみたいになるところだった……。
ぜんぜんわからないんだけど、わからないなりにまとめるとつまり、惣引が継承しないといけない伝統技能の産み分け法は、男女のアレの真っ最中に男性器を握ってナニゴトか特殊なことを施す技法ってことで合ってるんだよね? まとめればまとめるほど不安にしかならない。
ええ……、大丈夫なのそれ?
本当に本当なのかな……?
えっちぃ漫画の導入部分とかじゃないよね……?
「だから私は、産み分け法を継承するために何がどうあっても男性に対する拒絶反応を治さないといけないの。これ以上問題を起こして御母様の顔に泥を塗るわけにも、受け継がれてきた伝統技能を分家筋に渡すわけにも、御父様からの信頼を裏切るわけにはいかないの」
なんとか気持ちを引き締め直したのか、むにゅむにゅしてた唇を引き結ぶ。
その父親に対する盲信が全ての元凶で、その元凶から遠ざけるために策を講じたのであろう母親の思惑がちっとも伝わってない。まあ、盲信してるんだから伝わるわけないよな……。
「……お願いがあるの」
神妙な面持ちでボクを真っ直ぐに見据えて消え入りそうな声を絞り出す。
昨日からほんとにお願いばっかりだな。
今度はなんだよ? あ、ここまで聞いた話は他言無用とかって口止めかな?
大丈夫。その点については安心していいよ。こんな、どこをどう切り抜いても胡散臭げな話なんて誰にも話したりしないよ。
「あなたの、おちんちんが必要なの」
「なに言ってんの!?」
ちょっぴり予想はしてたけどフルスピードのド直球かよっ!! しかも大暴投だし!!
「もちろん、いきなりおちんちんからだと少し緊張するから、最初は馴染むまで手とかで少しずつ優しく慣らしながら――」
「いやちょっと待って! 生々しいからっ!! 必要って、ど、どど、どういう意味っ!?」
「だから、あなたのおちんちんで練習させてほしいの」
二球続けての直球っ!! さっきよりも頭部すれすれの危険球っ!! 危ないっ!!
「いやだから必要だとか、練習って、何する気で言ってんのって聞いてるんだよっ!?」
「……え? 付いてるんでしょ? おちんちん」
「つ、付いてるわっ!! いや、付いてるなら良いじゃんって顔すんなよ!? それに、おちんちんって何度も言うなっ!!」
いや、だいたいわかる、わかるよ?
拒絶反応を克服するために、その、触る練習するために必要ってことでしょ? 要するに、触れても平気になるためのリハビリがしたいって意味でしょ?
ちゃんとわかってる。わかってるけど、言い方っ!!
説明も言葉も足らなすぎて、その言い方だとどんなに頑張っても誤解と勘違いしか生まないから!
「だったら、どう言えばいいのかしら? ……あなたのおちんちん試させて?」
声を荒げるボクに向かって完全に当惑しきった顔で小首をかしげて見せるけど、三球目に至ってはもう当てに来てるし!! さっさと退場しろよこのヘボピッチャー!
まさかとは思うけど、わざと言ってるんじゃない、よね……?
もしかして、ここまで長々と並べてきた話も全部デタラメで、じつはボクの貞操を虎視眈々と狙ってる真性の痴女って可能性もあるんじゃないの?
「ボクのおち――、きっ、局部が必要だの、試させろだのって変態みたいなお願いが聞けるわけないだろっ!? そんな本当かどうかもわからない話でっ!!」
言いようのない危機感に不格好な警戒の姿勢を取りながら声を荒げる。
すると、今の今まで理解に苦しむことばっかり口走っていた惣引は、一瞬だけまん丸に目を見開いて、みるみるうちに表情を曇らせて力無く俯いてしまった。
なんだよそれ、今さらそんな殊勝な態度に切り替えたって騙されないからな?
警戒したままそんな風に考えた時には、もう手遅れだった。
――無自覚にボクはやらかしてしまっていた。
窓から差し込む、ずいぶんと傾いた夕日に染め上げられる俯いたままの惣引の頬を、きらりと光を受けた大粒の雫がひと筋、またひと筋と、はらはら舞うみたいに音もなくこぼれ落ちる。
ええ……、なんだよそれ……。
まったく理解が追いつかない。
今の今まで何度もおちんちんおちんちんって連呼してたかと思えば、不意打ちにも程があるあまりにも突然の涙。
全ての思考を停止に追い込む最高の変化球だった。ぜんぜん反応すら出来ないまま頭部直撃で病院送りのノックアウトだ。
ほんとになんなのコイツ……、情緒不安定過ぎじゃない……?
「お、おちん、ちん……、グスッ、うっ……、おち、うぅっ……、おちん、ち、グスッ……」
止めどなくこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、おちんちんって言おうとしながら子供みたいに泣き続ける。とんだ地獄絵図だよ……。
それでも、どんなに声を詰まらせながらおちんちんって連呼していたとしても、女の子の涙ほどことさらずるいものはない。ボクの見た目がどんなものであれ、こうなってしまってはもう男に残された選択なんて皆無だろう。
皺になることさえ頓着せずにスカートをぎゅっと強く握りしめて、溢れる感情の波をなんとか落ち着けようとしているんだろうけど、零れ続ける涙の粒は増えるばかりで一向に止まる気配もない。
何か言わなければ。
この状況を打破できる何かを。
焦燥ばかりが空回り心臓が早鐘を打つ。
浮かんできた言葉は喉に引っかかり、引っかかった途端にどこかに消え失せ、陸に打ちあげられた魚のように口をパクパクと動かすことしかできない。
「……そ、そんなに、必要なの? その……、おちんちん……」
やっとの思いで捻り出した、カスカスに掠れきったボクの言葉は、口にする端から後悔が押し寄せてくるほどの史上稀に見る最低なものだった
ほんと、泣きたいのはこっちの方なんだけど……。
けれど、そんな最低極まりなくとも声をかけたことによって惣引はピクリと反応を示し、俯いたままふるふると首を振って返してきた。同時に、スカートを目一杯に握りしめていた両手から波が引くように力が抜けていくのがはっきりとわかった。
「ううん、いい。もう、いいわ」
薄ら寒く感じるほど、淀みのない口調だった。
ゆっくりと顔を上げた惣引の涙ははたと止まっていた。
代わりにその濡れた瞳には、この世の全てを否定するみたいな、言いようのない不穏当な色が帯びているように見えた。
いい、はずがないだろう。
いい、と本当に思っている人がしていていい表情じゃない。
確かにボクの声のかけ方は褒められたものじゃなかったのは認めるけど、おちんちんが必要とか言い出したのはそっちが先じゃないか。どうしてボクの方が的外れなことを言い放って場の空気を悪くしたみたいになってるの?
「けど、いいって――」
「だってあなた、はじめから私の話、信じていないでしょう?」
隠す気なんてさらさらない落胆の色を孕ませ、そこにほんの少しだけ険のこもった言い草で、惣引はボクを遮ってぴしゃりと言い放った。
ふいに後頭部をガツンと殴られたみたいに、目の前が真っ暗になって足下が揺らぐ。
――最初から見抜いていたんだ。
惣引はずっと真剣に話してくれていた。あんな真剣な顔して嘘を並べられるとしたら稀代の詐欺師くらいのものだろう。
それなのに、ボクは眉唾物だと決め付けて、本当なのかな? って何度も何度も疑って信じようとしていなかった。
ボクは誰よりもわかっていたはずなんだ。
どうしても、どんなに説明してもわかってもらえない、信じてもらえない苦しさ、悲しさ、虚しさ。
どう進むべきなのか、はたまた戻るべきなのかさえもわからなくなって立ち止まってしまい、立ち止まったことで襲われてしまう途方もない焦燥感。
それは、ボクこそがこれまで生きてきて一番わかっているはずだったのに。
言葉を失ってただ立ち尽くすことしか出来ないボクの様子を肯定と受け取ったのだろう、惣引は赤く腫らした目を伏せて、
「さよなら」
と、たった一言そう零した。
そして、頑なにその瞳にボクを映さないよう視線を足下に落としたまま、勢いを付けて柔らかな髪をひるがえすと、初めからそこにボクなんていなかったみたいにスタスタと去って行ってしまった。
遠くなっていく惣引の背中に、引き留める言葉さえ浮かばず空を掴もうと伸ばした手はことごとく空振る。
こんな手遅れになるまで気が付かなかったのは自分のせいでしかないのに、ただただ胸を締め付けられる思いで呆然と見送ることしか出来なかった。
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