第10話 ついてない
「ちょ、ちょっと待って、ほんとに待って」
私の腕を振りほどこうと
こんな千載一遇の機会をみすみす逃すわけにはいかない。
ずんずん近付く瀬尾悠理の後ろ姿はもう目と鼻の先だ。
「まっ、待って、ほんとに離してっ!」
私の手をやっとの思いで振りほどいた宇津木さんの声で、瀬尾悠理が振り返った。
ただ振り返っただけのその仕草がため息がこぼれそうなほどに可憐に映り、なぜだか射竦められたみたいに言葉を忘れて立ち尽くしてしまう。
「ん? 宇津木?」
「……せ、瀬尾くん」
私と会話していた時とは打って変わって、消え入りそうなほど弱々しく宇津木さんが呟く。
「え、……宇津木って、
なんと瀬尾悠理も私の名前を知っていた。
けれど、よくよく考えれば、私が瀬尾悠理の名前を知ることになった生徒指導室に一緒に連れて行かれたのだから当然と言えば当然だった。
「ええ、そうなの。ついさっきそこで友達になった――」
「ちがっ、違うから! お、同じクラスなのよ、ただそれだけっ!」
宇津木さんがクモの巣でも払うみたいにぶんぶん両手を振りながら『ただそれだけっ!』の部分をやけに強調して言い切る。
「じゃあ、友達と言うよりは同じことが気になってる、同志と言えばいいかしら?」
「同志でもないわよ! 勝手に決めないで!?」
「だったら、バディ、かしら?」
「より親密にしないでっ!?」
正確性を重視した相互扶助の関係を例えたいだけなのに、ことごとく宇津木さんに否定されてしまう。
うーん……、私の田舎の小学校は一学年20人くらいで、もちろん一クラスしかなくクラスメイトはみんな友達って認識だったけれど都会では違うのだろうか?
当然、中学校もその20人がそのまま繰り上がるだけだから、顔触れが変わることもなく同じ友達のまま歳を重ねていくことになる。
わたしの生まれ育った田舎ではそれが特段珍しくもない、至って普通のことなのだ。
「それでボクに何か用?」
友達かと問いかけてきたわりに、ちっとも興味なさそうに聞き流した瀬尾悠理は、手にした箒を杖代わりに両手を乗せて首をかしげる。
「ちょっと、どうしても気になることがあるから確認をさせてほしいのだけど」
言いながらまじまじと、注意深く瀬尾悠理を上から下までじっくりと見つめる。
後ろ姿でもそうだったけど、男女でデザインに差のない学校指定のジャージ姿だとまるっきり女の子だ。
……いや、やはり女の子なんじゃないのかな?
こんなどこをどう切り取っても、全部が可愛らしい男の子が存在するなんてどう考えてもおかしい。
「確認って、……なにを?」
訝しそうに眉をしかめて瀬尾悠理が私を睨め付けてくる。露骨すぎる警戒心を隠そうともしていない。
「触っても、いい?」
「は? 触る?」
承諾も待たず、怪訝な表情を浮かべたままの瀬尾悠理にふるふると震える手を伸ばす。
箒に乗せていた瀬尾悠理の手の甲を、まるで熱いかどうかを触れて確かめるみたいに、指先でちょんと一瞬だけ触れてみる。
――触れた。
間違いなく、確実に触れた。
……そして、今のところ私の拒絶反応が起こる気配はない。
「……なにしてんのよアンタ?」
宇津木さんが瞬きを繰り返しながら覗き込んでくる。
「さ、ささっ、触れたわ宇津木さんっ! これでもう間違いないわっ! やっぱりこの人、おちんちん付いてないのよっ!」
「「なに言ってんのっ!?」」
飛び退るように身体を仰け反らせて二人が口を揃える。
「やっぱりこの間の反応は何かの間違いだったんだわ!」
私の興奮とは裏腹に、二人は揃って戸惑いの指標みたいに眉を山なりにしかめる。
この驚くべき新事実をどうしてわかってくれないのだろう!?
私が触れても反応が起こらなかった。それはつまり、瀬尾悠理はやっぱり男ではないのだ。
ということは当然、――おちんちんは付いていない!
こんなに単純に導き出される解答なのに、宇津木さんは私の興奮をぜんぜん理解していない様子で、なぜだか可哀想な子を前にして言葉を失っているみたいに眼鏡を曇らせている。
違う、違う違う違う。
そんな所作は私の求めているものとは違う。こうなったら再び瀬尾悠理に触れて、改めて事の重大さを示すしかない!
「ちょ、なんだよ? 触るなよこのゲボ女っ!」
私が再び伸ばしかけた手から逃れるように瀬尾悠理は身体を引きながら、怒気をはらんだ言葉を遠慮もなしに投げつけてくる。
ビクッと伸ばしかけた手を引っ込めた瞬間――
まるで全身の血液が逆流するみたいに駆け上がってくる不快感に襲われ、反射的に顔を背けて口元を覆ってしゃがみ込んでしまう。
今にも込み上げてきそうな吐き気を口を固く閉じて必死にこらえる。
「ちょ、ちょっと待て、ここで吐くなよ!? せっかく掃除したんだぞ!?」
「え、なに? どうしたのアンタ? ……大丈夫?」
私の急変に何事かと心配してくれたのだろう、宇津木さんがそっと私の肩に手を添えてくれる。
なんとかその手を取ってよろよろと立ち上がりかけたものの、足下は自分が思っているよりずっとふらついて頼りなく、宇津木さんが慌てて支えるために抱き留めてくれた。
パパ活なんてしてるのが信じられないほど宇津木さんはとても頼りになるいい人だ。
「しっかりしなさいよ、体調悪いの?」
「……へ、平気――」
辛うじて声に出して応えたけれど、もちろん強がりだった。
しかし、宇津木さんの胸に抱き留められた私は、ふいに心が穏やかに満ち足りるみたいな、安心感にも似た懐かしい記憶が蘇ってくるのを感じた。
これは、この感覚は――
「え、……ち、ちょっと?」
支えてくれていた宇津木さんの胸に深く顔を埋め、大きく大きく息を吸い込む。
きっと、ここまでにも増して困惑しているに違いない宇津木さんの控え目な胸で、魂でも吸い出すみたいに顔を埋めたまま大きく深呼吸を繰り返す。
ああ……、これは、間違いなく――
「はああぁぁ~…………、田舎のお婆ちゃんと同じ匂いがするぅぅ~…………」
「しないわよバカッ!!」
ずっと小さかった頃にタケお婆ちゃんに抱っこされてゆらゆらまどろんでいた時の、あったかくて少しだけ埃っぽいみたいなあの匂いにとんでもなく似ていた。
いや、もはやあの匂いそのものだった。私は鼻が利くから断言出来る。
なのに、何が気に入らなかったのか渾身の力で突き飛ばされてしまった。
私を突き飛ばした宇津木さんは、「え、え? なんで? うそでしょ!?」とぼそぼそ呟きながら、制服の襟元を掴んでくんくん匂いを嗅いでしきりに確認していた。
自分じゃなかなかわからないのだろうか?
自信を持っていいわ宇津木さん、あなたのお婆ちゃんの匂いは本物だわ。私が保証してあげるわ。
そんな宇津木さんから発せられるお婆ちゃんの匂いのおかげで、私はなんとか呼吸を整えて落ち着きを取り戻すことが出来た。
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