九月二十四日(土)夜 バー・クレセント

 静かな音楽と、ほのかな煙草の煙が香る。


 白井麻人しらいあさとは、隣にいる女が放った言葉を、何度か頭の中で繰り返してみた。


 女――麗華は目を細めて弱々しく微笑んだ。


「聞こえた?」

「ええ」

「予想通りの反応だわ。でも、あなたらしい」

 麗華は、ゆったりとした抑揚で同じ言葉を再びつぶやいた。

「……」

「あの時……昔の男との一件、うまく心の整理ができたのも、白井さんが話を聞いてくれたおかげだもの。感謝している。本当よ?」

「僕は、別に」

「店のお客さんに悩み相談みたいなことして申し訳なかったと思っているわ。そもそも、あの時……あなたは無理やりに連れてこられただけだったのにね。えっと……確か、あの若々しくてオシャレな眼鏡をかけた美少年に」

「……あの、彼は……」

「ふふ、わかってるわよ。ああ見えても三十過ぎているのよね?今も一緒にお仕事しているの?」

「ええ。フジさんとは、相変わらずの関係でして」

 白井は眠たげな顔の美麗な男――藤石を思い浮かべた。仕事熱心で、白井にも案件を回してくれるのだから、恩人には違いないのだが、どうもいつも面倒事に巻き込まれてしまう。

 この麗華との一件もそうだった。


 ――もう……あまり思い出したくないな。


 白井は妙な疲れを感じた。

 そこへ、麗華が小さく息を吐くと、ポツリとつぶやいた。

「実はね……私、お店辞めたんだ。もう一度、自分の夢に賭けてみようと思って」

 急な話の展開についていけなくなる。白井は、麗華の酩酊ぶりが心配になったが、意外にも眼差しだけはしっかりとしていた。

「麗華さんの夢……ですか」

「私、学校の先生を目指していたの。中学と高校の教員免許は持っているのよ」

「それは、また」

 聡明な女性だとは思っていた。しかし、それでも麗華の告白は意外なものだった。

 目の前の女が宙を見つめる。

「学校の先生はね、採用試験に合格しないと正式に雇ってもらえないのよ。高校の社会の先生なんて、それこそ倍率高かったわ。だから非常勤講師とかこなしながら、頑張っていたんだけど、生活できなきゃ仕方ないから、手っ取り早く稼げる夜の仕事でアルバイトしていたの」

 ゆっくりと寂しげな眼差しが白井に向けられた。

「……バイトのつもりが、いつの間にか、そっちが本業になっちゃったけどね」

白井は何も答えずにただ小さく相槌を返したが、麗華がどうしてこのような話をした

のかわからないでいた。

 麗華は構わず話を続けた。

「さすがに普通の学校の先生は無理だと思うけど、頑張って貯めたお金で、留学してみたいって思うようになったの。なんて、もう四十歳のおばさんが女子大生みたいなこと言っていても、おかしいでしょうけど」

 この話はおしまい、とばかりに麗華はグラスを一気に煽ると、ゆっくりと白井の顔をのぞきこんだ。

「そういえば、今日はどうしてこんなところにいたの?お仕事?」

「はあ」

 白井は、仕事の依頼者の社長に誘われて、軽く飲みに来たことを麗華に話した。ところが、その社長に急用が入り、三十分足らずで解散したところで、麗華と偶然出会ったのだった。

「麗華さんは、一人で飲みに来たんですか」

「そうよ。ここの雰囲気が好きなの」

 カウンターの金髪のバーテンが、ちらりとこちらを見た気がした。なぜか白井は気まずくなって、ジントニックを追加注文した。

「……確かに、落ち着いた良い雰囲気ですね」

「でもね、色々な人が来るのよ」

 麗華が楽しそうに店内を見渡した。

「年齢不詳、性別不詳な人たちが集まるの。入店規制は未成年だけ、ある意味、平等で良心的なお店でしょう?私の知り合いのニューハーフさんも、ホラ来てる」

 麗華が小さく手を振ると、髪を結い上げた女性がこちらに手を振ってきた。どう見ても女だ。わずかに興味を込めた視線を白井に送りつつ、小さく会釈をする。

「はあ、確かに色々ですね」

「今度、ウサちゃんとも来てみたら良いわ。彼も元気?また飲み歩いているわよね、きっと」

「はあ、ウサさんも相変わらずです。麗華さんが店を辞めたこと知ったら、ショックでしょうね」

「そうかしら。すぐ立ち直りそうよ、彼なら」

 麗華が声を上げて笑った。白井も小さく笑みを浮かべた。

「実は、今日は高校時代の同窓会があるんです。僕は、仕事の打ち合わせで欠席したんですが……」

 時計はすでに八時半を過ぎていた。もう終わってしまっているだろう。

「三十歳くらいだと同窓会も楽しそうね。私くらいの年齢だと、昔の友達と再会するのは何となく怖いわ。二十年以上、もっと経つんだもの。年取ったなあって思われるのよ、きっと」

「そんなことないでしょう」

「お世辞はいらないのよ」

「はあ……すみません。僕は、今の麗華さんしか知らないものですから」

「もう、本当にあなたは」


 麗華は柔らかく笑みを浮かべた。

 そして、瞬きの間にその顔がゆっくり近づくと、唇をわずかにかすめそうになる。

 反射的に、白井はそれから逃れようとした。


「……」

「……ふふ、あなたらしいわ。二回目はないのね?」

「……」

「……あの日、悩みを聞いてもらった後、地下の階段でキスしたこと、怒ってる?」

「……いえ」


 ゆっくりと、麗華の顔から笑みが消えていった。


「やっぱり、始まりそうにないわね。私たち」

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