九月二十四日(土)夜 イタリアン・ポロ
丹波花恵は、高校時代の親友が待つイタリア料理の店に到着した。電話で、夫と喧嘩したことを伝えると、友人のカニ――蟹江理沙は愚痴を聞くと快く言ってくれたのだ。
実は、今日は花恵の高校の同窓会があった。
しかし、朝からあまり体調が良くなかったことと、夫の誕生日が重なっていたこともあり、結局欠席してしまった。そもそも、高校時代の友達は多くない。仲良くしてくれる人間は、そんな集まりがなくても頻繁に会っている。今から会う親友もその一人だ。
イタリアン・ポロは、学生の時によく利用したレストランで、高校や大学の友人と会う時は今でも使っている。ドアを開けると、四人掛けの席で、友人が手を振っているのがすぐに目に飛び込んだ。
「カニちゃん」
「ハナマル、旦那さんとケンカしたって?大丈夫なの?」
そう言うわりには、カニの目は楽しそうに笑っていた。
――。
よく見ると、同じテーブルに男がいる。座ってはいるが、長身なのはよくわかった。振り返った顔はまるで外国人のような風貌。その特徴に、花恵は懐かしさが蘇った。
「ウサちゃん?そうだよね?」
異国顔の男――宇佐見一正が、色っぽくウインクを飛ばしてきた。
「やあ、ハナマルちゃん。十年ぶりくらい?綺麗になったねえ」
この軽妙な感じ、何も変わっていない。
「いやいや、二人ともすっかりレディになって、オレは嬉しいよ。とりあえず、再会を祝して乾杯しよう!」
店員が、スパークリングワインを運んでくると、宇佐見がグラスを花恵に差し出した。 乾杯、とグラスをぶつけ合いながらも、花恵は気になって仕方がない。
「本当、久しぶりだね。でも、どうしてウサちゃんがここに?」
「アタシが誘ったの。同窓会は二次会がなくてさ、みんな好き勝手に解散したんだけど、アンタから連絡が来たからビックリしちゃって。結構、深刻そうだからこの人にも相談に乗ってもらおうと思ったわけ」
「その気持ちは嬉しいけど……」
花恵の悩みは誰にでも話せるような内容ではない。ましてや、十年近く会っていなかった男友達に聞かせるのはどうだろう。
すると、カニがオリーブをつまみながら言った。
「アンタ、知らなかったんだっけ。ウサは弁護士なんだよ」
「え!」
「離婚って聞いたからさ、アタシはウサを呼んだわけよ。弁護士の出番でしょ?」
カニが顔を覗き込んでくる。花恵は目をしばたかせた。
「私、離婚なんて言ってた?」
「言ったわよ。電話越しで『カニちゃん、私もう無理。離婚するかもしれない』って泣いてたの、覚えてない?」
言ったような気がする。しかし、あれは一時の怒りがそうさせただけだ。冷静に考えれば離婚するような大した問題では――。
いや、大問題なのかもしれない。
夫に、気持ち悪いと言い放ってしまったのだから。
深いため息をついた花恵に、カニがドリンクのメニュー表を渡す。
「ま、飲みながら話をしようよ。こいつなら大丈夫、秘密を守る義務があるからね」
すると、チーズをかじっていた宇佐見がおもむろに口を開いた。
「ハナマルちゃんは結婚して何年?」
「え?い、一年くらいかな」
「お子さんは、まだでしょ?」
「うん」
「旦那さん、仕事の帰りは遅いの?」
「まあ、遅い時もあるけど……」
「仕事は順調ってことかな」
「そうだと思う。特に悩んでる感じでもないし」
「休みの日は一緒に出掛けたりしてる?」
「遠出はしないけど、近所に買い物くらいは……」
宇佐見はメニュー表を広げながら、笑みを浮かべた。
「さては、倦怠期だなあ?ちゃんと、キスしてる?」
花恵は、言葉に詰まってしまった。キス、という単語に身体が固まる。
宇佐見は店員にピザを注文すると、カニに向き直った。
「新婚夫婦のありがちなマンネリ問題じゃないの?どうやら、オレの出番はなさそうだよ。あとはカニちゃんが話を聞いてやってよ。今日は思い出話に花を咲かせよう!」
カニも声を上げて笑った。
「ちょっと、ちょっと。そういう妬けるような悩みなわけ?生活に甘さが足りなくなったら補えば良いだけよ。セクシーな下着にすれば解決じゃないの」
「あ、それならやっぱりオレの出番だね。チョイスは任せ……」
宇佐見の語尾が小さくなった。笑っていたカニも眉をひそめる。
花恵は、いつの間にか涙をこぼし、膝に敷いたナプキンには染みができていた。
「ハナマル」
「ゴメン、何でもないの」
その声は上ずり、ただ事ではないことを相手に伝えるには十分だった。カニが小声でささやく。
「こっちこそ、ゴメンね。アンタのこと昔と同じノリでいじくってたわ。やっぱり、深刻……なんだよね?本当に、ゴメン」
花恵は首を横に振り、必死に涙をこらえた。
異国顔の同級生が、困ったような笑みを浮かべた。
「オレも悪かったね。ハナマルちゃん」
「いいの。大丈夫」
「喧嘩しただけなら、謝っちゃえば良いんだよ。どっちが悪いとかじゃなくてさ、素直になった方が勝ちよ。夫婦ってのは、それだけで解決できる問題がほとんどだと思うし」
二人の級友の言葉はもっともだ。あまりに感情的になり過ぎた。二十九にもなって、大人げない。花恵は自然と、夫に対して申し訳ないという気持ちが沸き起こった。
重苦しい空気を振り払うかのように、カニがあからさまに話題を変えた。
「そういえばさ、白井くんはどうして今日来なかったんだろう?ウサは卒業後も彼と仲良くやってるんでしょ?」
宇佐見はグラスを手にしながら片方の眉を持ち上げた。
「アサトのこと?確か今日は急に仕事だって言ってたかなあ」
「そっか。久しぶりに会いたかったのに」
「まあ、同窓会に喜んで参加する人間じゃないよ。暗い雰囲気が場を汚すという自覚があるのかねえ」
「アンタ、ひどいこと言うのね」
カニが呆れたように笑った。花恵も白井の風貌を思い出し、懐かしさとおかしさで笑ってしまった。それを見て、宇佐見がどこか安堵したように話をする。
「アサトは相変わらず前髪が長くて細くて猫背で色白で、やたら低い声で喋るから怪しさ満点だよ。ただ、本当にお人好しで優しいところも変わらないよ。今日もドタキャンは申し訳ないからって、会費をオレに預けたくらいだからね。今回の記念品を手渡す時に、二人のことも話しておくよ」
宇佐見が記念品のボールペンを見せてくれた。小さく当時の担任の似顔絵ロゴが入っており、なかなか豪華なものだった。
花恵は、白井が高校時代と変わらず優しい人間であることを聞いて少し安心した。最初は、近寄りがたい雰囲気で何となく避けていたが、たまたま席が隣同士になり、まともに会話するようになったら、高校生とは思えないほど落ち着いた人物だと知ったのだ。すでに卒業間近だったが、丁寧に勉強を教えてくれたことは今でも覚えている。
「ウサと白井くんが今でも友人なんて、信じられないわ。でも、はしゃいで暴走したアンタを冷静に止めることができたのは、彼だけだったわね」
カニがピザを取り皿に分けながらしみじみ語ると、つい、花恵も宇佐見に皮肉を言いたくなった。
「それにしても、ウサちゃんは相変わらず破天荒なの?もう二十九歳だから落ち着いた大人の男性になってると思ってた」
「何言ってんの。オレの大人っぷりを知らないね?何なら、今晩見せてあげようか?ああ、下着選びが先かな」
花恵とカニはその後も宇佐見をからかいながら、思い出話に花を咲かせた。
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