九月二十四日(土)夜 居酒屋いざいざ

 丹波真太の前で、男子校時代の級友二人が腹を抱えて笑っている。その笑い声は、賑わう居酒屋の店内においても桁外れに響き、隣の席の客がこちらを見てくるほどだった。

「こら、タンヤオ。お前ね、そういう話は早く言えよ。そうしたら、もっと友達を連れてきたのに」

 真太を高校時代と同じあだ名で呼んだのは、加藤達雄(愛称はキャタツ)だ。体育会系で、高校時代は野球部で活躍していた。さほど頭は良くなかったはずなのに、なぜか一流ハウスメーカーに就職していることが、今でも真太は納得がいかない。次々と大きな取引を成功させ、おそらく同級生では一番の出世頭だろう。

「今度はモーション付きで、それを再現してくれ。俺が友達集めておくから」

 もう一人の友人、藤石宏海(愛称はフジ)がなおも笑いながらそう言った。この男は身長が低いくせに、眉目秀麗なおかげでやたらと他校の女子からもてた。しかし、その優しくない性格のため、たいてい女に逃げられることを真太は知っている。そんな非道な人間が司法書士とかいう法律資格の仕事をしているというのだから、世の中わからない。

 真太は友人たちに、妻の花恵との喧嘩の経緯を話したことを心から後悔した。

結局、花恵が出て行った後、真太は自分のために用意された誕生日の夕食は冷蔵庫に片付け、憂さ晴らしをするために二人を飲みに誘ったのだが、これでは逆効果だ。真太は二人を睨みつける。

「お前ら、友達が傷ついているというのに、その言い方はないだろうよ」

 しかし、返ってきたのはまたしても爆笑だった。

「傷ついているって、五百パーセントお前が悪いじゃねえかよ。女ってのは、そういう気分じゃない時の方が圧倒的に多いんだから、いい加減に学習しろ」

「嫁さんは、渾身の勇気で訴えたんだぞ?むしろ讃えてやれよ」

 キャタツとフジは並べられた料理を口にしながら適当に言う。真太はひたすら枝豆をつまみながら応戦した。

「お前ら独身野郎にはわからないんだ。愛を誓い合った嫁にこけにされたおれの気持ちなんか……」

「いやいや、わかるぞ」

 キャタツが急に真顔になって答える。

「ステージは違っても、女に気持ち悪いと言われるのは耐えられねえよ。何ていうか、こう……人格否定だもんな」

 フジも腕を組んで天井を見つめながら言った。

「……俺は女に気持ち悪いと言われたことないからわからんね。独身だけど」

 再び笑いが起こる。こうして微妙に話が食い違い、相手のペースに持っていかれる。高校時代からいつもこうだ。真太は俗に言う『いじられキャラ』だったことを思い出した。  


 ――あの頃と同じ目に遭うわけにはいかない。


 真太はビールのおかわりを頼むと、押し殺した声で言った。

「お前らに、相談しようと思ったおれが間違っていたよ」

 その瞬間、目頭がじんわり熱くなる。真太は、自分のその衝動に驚きつつ、慌ててお手拭で顔を覆った。

 友人たちから笑いが消えた。しばらくして、キャタツが深いため息をつく。

「悪かったよ。ちゃんと話を聞くって」

 フジも頬杖をついてこちらを見た。

「それだけ深刻ならそう言えってば。嫁さん、出て行っちゃったのか?」

 ゆっくりと真太はお手拭を顔から引き剥がすと、小さくうなずいた。級友たちは顔を見合わせると、真太のために唐揚げを取り分けた。

「そんな落ち込むなよ。すぐに帰ってくるって。土日の連休に実家に帰るくらい普通だろ?共働きだっけか?」

「うん」

「それなら月曜までには戻ってくるさ。お前も謝る用意くらいしとけよ」

 さらに、眠そうな目をしたフジが真太を見つめる。

「案外、嫁さんも今頃お前と同じようにどこかで憂さ晴らししてるかもな。この程度のケンカ、別に珍しくもないだろうよ」

 小鉢のモツ煮をつつきながら、真太はつぶやいた。

「それで、おれはどうしたら良いんだ?キャタツならどうする?」

「謝ればいいんじゃねえか?ゴメンね、言い過ぎたよって」

「でも、それだと根本的な問題解決にならないよ」

「根本的解決を望むなら、藤石先生の出番だな」

 意地悪そうな顔をしながらキャタツが言うと、フジは、しばらく考え込むような顔でうつむいた(腹が立つほどカッコ良かった)。

「まあ……口づけなしの夫婦生活を送れば万事解決だろう」

「はあ?」

「我慢の連続。結婚ってそういうものなんだろう?」

 キャタツも腕を組んで、フジに同調するようにうなずいた。

「どうせ、子どもが出来ちまえば、亭主なんか相手にされないんだろうからな。それに、見境なくガツガツするほどオレたちも若くもないし。もう三十二かあ」

 子どもと聞いて、真太は頭の片隅に不安が生じた。

「子ども……」

「おう。キスしなくても子どもは作れるぜ?心配すんな」

「キャタツくんは相変わらず直球で優しいなあ。野球でもそれしか投げられなかったものな」

「はは、フジ。てめぇ……外に出やがれ!」

 真太は深いため息をついた。さすがに級友二人も、ちっとも笑わない真太が心配になったのか、小声でささやいた。

「タンヤオ、本当に何が問題なんだ?」

「お前……そんなにキス魔だったっけ?」

 真太はビールを煽ると、ぼそりとつぶやいた。

「感じないんだよ」

「へ」

「キスから始めないと……こう、盛り上がらないんだ。おれが」

「――」


 次の瞬間、テーブルがひっくり返るほどの笑いが沸き起こり、再び店内中の視線を集めた。 


 キャタツが腹を抱えて悶絶している。

「何を乙女チックなこと言ってんだよ!そんなのは、気合と妄想で上手くやれっての!」

 対してフジは、静かにこう言った。

「……お前、枕元にコンニャクでも置いておけ」

 

 割れんばかりの嘲笑に、真太は腹が立つよりも、底なしの虚脱感に見舞われた。

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