九月二十六日(月)夜 ポプラ公園
昨晩と同じように細い道を抜けて、歩道橋を渡り、近くの公園に花恵は連れて来られた。
夜風が二人の髪をそっと揺らす。
遊歩道を進みながら、ジュンが突然口を開いた。
「ねえ……どうして、関わろうとするの?」
あまりに突飛な言葉に、花恵は少し混乱した。
「な、何言ってるのよ。先に手を出したのは、そっちじゃないの」
ジュンが驚いたような目で花恵を見つめた。
「手を出す?オレが、お姉さんに?」
そして、小さく吹き出したかと思えば、声を立てて笑った。
「何もしてないじゃない。誰との過ちを勘違いしているの?」
「き、キスをされたわ」
花恵は震える声で、必死に言葉をぶつけた。
「……目元に軽くだったけど……あなたは、私に」
涙が落ちそうになるのをこらえ、ジュンを見つめる。
笑いをこらえているような相手の仕草に、花恵は顔が熱くなった。
「ふざけないでよ!年上の不幸な女をからかって、何が楽しいの?」
「それでも、そのふざけたヤツの店に、懲りずに来たのは誰なのかな」
ジュンは花恵の頬を伝う涙を指で拭った。
「話を聞いて欲しかったんでしょう?違うの?」
「聞いてくれたというの?私なんかより、別のお客さんと楽しそうに話をしていたわ」
「あのね、ホストじゃないんだから、そういうワガママは困るな。個人的に聞いてほしいなら、最初からそう言えば良いのに」
楽しそうに笑って、ジュンは遊歩道の真ん中で花恵を抱き寄せた。
――。
足が石畳に吸い込まれそうになる。
「もったいない……何も知らないで結婚しちゃったの?」
甘い香り。
「こんなに、気持ち良いこと」
ゆっくりと、折りたたむように、唇に柔らかな温みが落ちてきた。
頭の中が一瞬だけ白くなった後、花恵の身体からすべての力が抜ける。
すかさず、背中と腰に優しく手が添えられ、開いたままの花恵の瞳には、遊歩道のぼやけた街灯と、ジュンの伏せたまつ毛が見えた。背中にあてがわれた手の平が、花恵の曲線に沿って下りていく。
身体の一点が、熱くなる。
自分が何をされているのか、頭ではわかっているのに、どうしようもない快感が間違いなくそこにはあった。
「花恵さん」
空気を含むように、唇を触れたまま、ジュンがつぶやく。
「……続けて……いいかな」
言葉とは逆に、なぜか唇が少しずつ離されていく。
失われる温もりと快感に、花恵は奇妙な名残惜しさを感じた。
わけのわからない息苦しさ、花恵がわずかに口を開いた時、ジュンが少し笑ったような気がした。
再び、甘美な温みが唇を覆うと、滑らかな舌先が、花恵の唇をなぞった。
「んっ」
自分の感じ入った声に、猛烈な恥ずかしさが襲う。我に返った花恵が逃れるより先に、相手の方からはあっさりと身体が離された。
そして、荒い呼吸を繰り返す花恵に、ジュンが小さくささやいた。
「愛されているね。やっぱり」
「え?」
ジュンが、暗い遊歩道を見つめる。
暗がりに――影が揺れる。
その正体に花恵は硬直した。
「真ちゃん……」
夫の真太が、肩で息をしながら、街灯の下で突っ立っている。
――嘘、見られた?
背筋が凍りつく。
息をするのも忘れた花恵に、ジュンがため息まじりにささやいた。
「平気だよ。見えちゃいない」
夫が、息も切れ切れ、ゆっくりと近づいてくる。
「花恵……なんで、待ってないんだよ。迎えに、行くって言ったのに……」
激しく咳き込んだ真太は、大きく深呼吸すると、地を這うような声で言った。
「店の人が、従業員が送っているかもしれないって言ったんだ。ちょうど、歩道橋を渡っていくお前が見えて、追いかけたんだ」
真太は、睨むようにジュンに向き直った。
「お、お前が白井くんってヤツか?」
あまりの勘違いに、花恵は思わず声を上げる。
「何言ってんの?ちょ、ちょっとやめてよ。どうして白井くんが出てくるのよ」
「夢に見るくらいなんだ。それくらい、そいつに思い入れがあるってことだろうよ」
すると、ジュンが少し花恵から距離を置きながら言った。
「あれ?花恵さん、すでにその白井くんとかいう人と……良い感じにデキていたんだ」
その顔は、寂しげに見えたが、一瞬で楽しそうなものに変わった。花恵はそれに言いようもない悔しさが湧いてきた。
「出来てないってば!その人はただの同級生で、ここ十年間、会ってもいないのよ!」
「そうだろうね。良い感じにデキていたら、あんなモノ欲しそうな顔はしないはずだよね」
ジュンは花恵の頭を優しく撫でた。甘い香りが、再びあの唇の感触を思い出させ、花恵は言葉を失ってしまった。妻の明らかな異変に気づいた真太は、ジュンに詰め寄った。
「おれの女房から離れろ」
「近づいてきたのは、あなたの奥様だけど」
「ふざけるな。そんなわけあるか」
「花恵さん、旦那さん怒ってるけど、どうするの?」
真太が、こちらを強い眼差しで見つめる。それが徐々に、悲しさを増していった。今にも崩れ落ちそうな夫に、花恵は息を飲んだ。
「……本当、しょうがない二人」
ジュンは、真太の表情をうかがうように言った。
「旦那さん、心配しないで平気だよ。たぶん」
「何?」
「私はね」
ジュンのどこかから、少し高い声がした。
「一応は女なんだ。証拠も見ておく?」
ゆったりとしたパーカーの前を開くと、ジュンはシャツをたくしあげた。
そこには、ふっくらとした胸が半分だけ下からのぞいた。
「――え?」
ジュンは苦笑いを浮かべながら言った。
「生まれつき声は低めでね。バイトの時は男のふりしてる。というか、まあ……自分的にはどっちでもないんだけど。理解されないから、適当に振る舞っているよ。どう?安心した?」
ジュンが横目で花恵を見た。
その顔は、さっきと何一つ変わっていないのに、二つの乳房によって、完全に女にしか思えなくなった。
オンナノコ。
次の瞬間、花恵はジュンに思いっきり平手打ちをした。
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