九月二十六日(月)夜 バー・クレセント

 カウンターの向こうから、その人がこちらを見ている。花恵は、少し緊張しながら、バイオレット・フィズを口にした。

「あ……飲みやすいかも」

「それは、良かった」

 ジュンは小さく笑みを浮かべた。グラスを持つ手が華奢で、つい見つめてしまう。

「まさか、本当にいらっしゃるとは思いませんでした。サービスしなくちゃいけないですね」

 花恵は思わず下を向いてしまった。その言葉の意味を、違う方向でとらえてしまった自分に恥ずかしくなる。


 ――どうして、来ちゃったんだろう。


 仕事が終わって、友人のカニの部屋に戻るつもりだったのに、この店に立ち寄ってしまった。昨夜、目の前のバーテンダーに何をされたのか、もうわかっているはずなのに。


 どうしようもなく、惹かれる。


「ようやく夜は涼しくなってきたとはいえ、まだ日中は暑いですよね」

 当たり障りのない、普通の会話をジュンは繰り返す。昨夜の態度とはまるで違う。自分は、ただの客にしか過ぎないことを、一語一語、確認するようだ。

 花恵は少し焦った。

「……ねえ、昨日のこと」

「少し、失礼します」

 ジュンは別の客のオーダーに応えるため、花恵の前から離れて行った。月曜日のせいか、店内の客もまばらだったが、カウンターに座る常連は多かった。やはり、会話を楽しむのがバーの本来の姿なのだろう。どの客も社交的に思えた。気のせいか、別の客との会話の方が盛り上がっているようで、花恵は少しジュンにやきもきした。どうして、こんな気持ちになるのかわからない。


 全部、自分をからかっているだけだと頭ではわかっている。

 いや、わかろうとしている。

 それでも、この空間の音楽、香り、談笑――すべてが花恵を上等な女に仕立て上げてくれる。ジュンがあらゆる『特別』を提供してくれているのは事実なのだ。


 ――。


 真太との出会いが、合コンの延長の食事会だったのを思い出してため息をついた。

 互いに結婚を視野に入れていたのはすぐにわかった。だから、劇的なシチュエーションも求めなかった。安定した生活、誠実な人柄、それで十分だった。


 胸の奥が、焼けた針で突いたように、小さく痛む。

 これは、何だ。

 それがわかるまで、帰れない。


「もう一杯、いかがですか?それとも、別のものにいたしましょうか」

 ジュンが戻ってくると、花恵は意を決し、しかし、小さくつぶやくように言った。

「説明して欲しい」

「……え?」

「昨日のこと。あれは、何なの」

 返答がない。氷を砕く音だけがする。

 顔を上げると、ジュンが笑っていた。

「あれ、とは?」

「ふざけないで」

「ふざけていません。昨晩も――今も」

「――」

「お客様には心を込めて接客しております。昨日の私に不手際があったのなら、教えてくださいませんか。後学のために」

 まったく別の意味で解釈された。わざとなのかもしれないが、『ふざけていない』という言葉に、心と顔が熱くなるのがわかった。そんな勘違いに動揺する花恵を見て、一層、ジュンは楽しそうに微笑んだ。

「今日は、どちらにお帰りなんですか?」

 その質問は意地悪だった。昨晩から、花恵たち夫婦の間で何の進展もないことをわかっていながら聞いてきたに違いない。


 その時、スマートホンのバイブ音が鳴った。

 液晶の表示は、友人からのメッセージだった。


『旦那さんから連絡行ってない?迎えに行きたいってさ。もう、許してあげなよ。すごく心配してたよ』


 ――。


 わずかに心が揺れる。

 

 その直後だった。


 今度は、まさにその夫の真太から電話がかかってきた。


「えっ」


 花恵は、慌てて留守番電話にしようとしたが、操作を誤り、勢い余って通話ボタンを押してしまった。

 液晶画面が通話秒数のカウントを始める。

 花恵は急いで店の出入り口まで向かうと、声を潜めながら電話口に声をかけた。

「……はい」

 こちらの応答に、電話の向こうから夫の上ずった声が聞こえる。

 走りながらなのか、息も切れ切れで何度も名前を呼ばれた。

 花恵は夫をなだめるように、努めて静かな口調で答えた。

「今、外なのよ。ちょっと落ち着いてよ」

 どこだ、迎えに行くから、夫は早口で叫ぶように言った。

 その慌てぶりに花恵は心から情けなく感じた。これでも三歳上の男なのか。

 花恵は投げやりに言い捨てた。

「バー・クレセント」

 二十分で着く、そう言って夫は一方的に電話を切った。同時に、花恵も大きくため息をついた。


 ジュンとの話が済んでいない。


 夫が現れるまで二十分のリミット、花恵は心の底から苦々しく思った。

 そして、無償に飲みたくなった。


 席に戻り、ジュンにオーダーを入れようとした時、すでにその姿はなかった。別のバーテンダーと交代している。

「あ、あれ」

 花恵に気づいた恰幅の良いバーテンダーは、申し訳なさそうな顔をした。そして、程なくすると、着替えを済ませたジュンがバックルームから出てくるのが見えた。

 花恵はスマートホンをバッグに投げ入れ、ジュンを呼び止めた。

「今日……もう仕事終わりなの?」

「ええ。自分はバイトなので」

 またしても、態度が少しぶっきらぼうになっている。

 しかし、花恵を見つめる目が、どこかおかしい。


 視線を外してくれない。


「お迎えが来るようですね。良かった」

 ジュンは小さな会釈をしつつ、花恵の隣をすり抜けると、店の外に出て行ってしまった。


 花恵は慌てて会計を済ませ、その後を追いかけた。


 からかっているだけだ。

 絶対にそうだ。

 若い男が、新婚の疲れた女をもてあそんで、面白がっているだけだ。


 それでも、花恵はどうしようもなくジュンに惹かれた。

 この感覚、もしかしたら――。


 店の看板の横で、突然、腕をつかまれた。


「待っててあげないの?」


 ――。


 口元には小さな笑みを浮かべ、腕にわずかな力を込めつつ、ジュンが花恵の顔を覗き込んだ。

 ゆっくりと細められる眼差し、胸がしめつけられる。

「……私、あなたとの話が済んでないもの」

 花恵は声色を強めてみせた。

 自分の心を見透かされないように、毅然とした女を必死に演じる。

「そう」

 ジュンはそのまま花恵の腕を引くと、繁華街を歩き出した。


 振りほどこうにも、その力には勝てそうにない。

 ――でも。

 振りほどこうとして、本当に手を離されたら――。


 花恵はジュンの横顔を見つめた。


 ――私、おかしい。

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