九月二十七日(火)昼間 イタリアン・ポロ
白井麻人は、食後のコーヒーを二つ頼むと、目の前の麗華に用向きを聞いた。
「……食事が目的じゃないと思うんですけど。何かあったんですか」
「私は食事が目的だったのよ。でも、確かに別の用件もあるにはあるわ」
麗華は店員に皿を下げさせ、バッグから何やら資料を取り出した。
白井はそれをぼんやり眺めながら、午前中のやり取りを思い出す。
珍しく、麗華から事務所に電話があった。
近くに行く用事があるから、時間があれば昼食でもどうかと誘われたのだ。確かに、昼食の時間くらいは余裕があったが、白井は幾分か悩んだ。
このコンスタントな逢引に戸惑う自分と、疲れる自分がいる。
麗華が嫌いだとか苦手だとかいう感情はないが、そうかといって好意を寄せているという確固たる自信もない。ただ、自分のような人間に、あえて関わろうとする相手を、不快にさせまいと必死になる。
だから疲れる。何かがすり減らされる。
結局、白井は麗華が何か他の相談事があるのではないかと解釈した。かつて、彼女の悲しい過去について話を聞いた時に、いつでも話し相手になると言ってしまったのは、まぎれもない自分なのだ。その言葉に後悔はしていないが、少し自意識過剰だったようには思う。白井は、そんなことを考えながら、午後の仕事先にも近い場所で麗華と待ち合わせることにしたのだった。
「珍しいと思うでしょうけど」
麗華はコーヒーを一口飲むと、書類をテーブルに並べた。
「これは、お仕事の依頼なのよ」
「はあ。珍しいですね」
「前に働いていた店の子、リナちゃんって覚えているかしらね」
「……ええ」
一晩、酒の席で一緒だっただけだが、やたらと積極的で騒々しかった印象はある。
「あの子が再婚するのよ。それで、新築のお家を建てたらしいの」
「はあ」
「私、よくわからないけれど、あなたの仕事って、そういう時の法的な手続きをするんでしょう?」
「はあ。まあ、そうですね」
「リナちゃんが、どうしてもあなたにお願いしたいって、業者さんたちに言ったらしいのよ。だから、書類一式を私が預かってきたわ」
そこには、確かに新築の建物の図面や確認証明があった。白井は、困惑しつつも、麗華に尋ねる。
「……あの、どうして僕なんでしょうか」
「あの子も、あなたに恩を感じているのよ、きっと」
「リナさんにこそ、何かしてあげた覚えがないんですが」
「お仕事を回す代わりに、また飲みに来てほしいだけかもね。そんなに深く考えなくて良いわよ。それとも、受けるのは難しいのかしら?」
確かに、貴重な仕事の依頼を断る理由はない。書類の不備もなく、あとは白井が作成する書面に印鑑をもらうだけのようだ。
「わかりました……」
白井は書類の入ったファイルを受け取ると、時計を見た。もうそろそろ、午後の仕事現場に向かわなくてはならない。
「忙しい時に、無理を言ってごめんなさいね」
麗華は申し訳なさそうに笑った。その顔が、少し白井の胸を締め付ける。
――。
「どうして、リナさんご本人ではなく、麗華さんが書類を預かって来たんですか?」
しかし、白井の問いかけに麗華は肩をすくめて微笑むだけだった。
何となく、その答えを聞くのが怖くなった。
「そろそろ、時間なので」
白井は、小さく会釈をして席を立った。
伝票を手に、レジカウンターに向かうと、若い女性店員が釣銭の準備をしていた。
すると、急に、麗華に向かって小さく頭を下げた。
「あの、河合先生ですか?」
長い髪を一つ結びにした女性店員は、嬉しそうに微笑んでいる。
それに対し、麗華は首をかしげた。
「えっと……」
「小塚です。覚えてないですか?神谷高校で先生に日本史の授業を教わったんですよ」
麗華が困惑した表情を浮かべる。徐々に、女性店員の顔からも、笑みが消えていった。
「そっか、忘れちゃったか。仕方ないですよね、他の生徒もたくさんいたし」
「あ、待って。もう少しで思い出せそうなのよ」
「良いんです、気にしないで。お相手の方も、待ってらっしゃるし」
女性店員は白井をちらりと見た。それは、どこか品定めをするようなものに感じたのは気のせいだろうか。
「先生、相変わらず綺麗でビックリしました。あれから結構経つのに」
「そんなことないわ。もうおばさんよ」
麗華が慌てて会計を済まそうとするのを見て、白井も横から紙幣を置いた。女性店員はなおも麗華と白井を交互に見つめる。
「先生……結婚したの?」
その言葉に、麗華が異常なまでに反応し、慌てて否定した。女性店員はがっかりしたような、からかうような複雑な表情を浮かべながら、
「すみません、これどうぞ」
そう言って白井に店のクーポン券を手渡した。
これはこれで妙な心地になったが、それ以上に誤解された麗華が気の毒になった。
――。
何となくこれ以上考えるのが面倒になり、白井は先に店を出た。麗華が後からついてくると、そっと白井の腕に触れた。
「ごめんなさいね」
「はあ。いえ、何も」
「私、非常勤講師だったから、担任はやっていなかったのよ。だから、それほど生徒たちの顔を覚えているわけじゃないの……それにしても」
麗華は手を離して、白井の隣に並んで歩く。
「結婚していても、おかしくない年齢だから、そう思われても仕方ないけど」
独り言のように、麗華はつぶやいた。白井は何も言わず、黙って駅前通りを進む。
「結婚って、重要なのかしら」
「え?」
白井は思わず聞き返してしまった。
麗華の口から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。目の前にいるのは、かつて不倫相手との間に子どもを授かり、不幸なことに流産させてしまった女性だ。麗華が夜の仕事を辞め、教員に復帰しようと決めたのも、安定した就職の先に、結婚を望んでいるからだと思っていた。次は、幸せになって欲しいと心から願っていただけに、白井は少し動揺した。
麗華は小さく笑みを浮かべて、軽やかに言った。
「重要よね。人生が固定されるんだもの」
「……」
「そばにいるだけじゃ、固定できないのよ。でも、固定されることで幸せになるのって、何だか窮屈よ」
白井は、ふいに宇佐見から聞いた話を思い出した。
同級生の円山花恵が、新婚生活に影を落としているという話――。
麗華が首をかしげてきた。
「……どうかしたの?」
「はあ。こちらにも、似たような話がありまして」
「……あなたにも、そんな話が?」
「はあ。僕には直接関係はないですけど」
麗華の瞳が、わずかに揺らいだ。そして、先を促すように、瞬きを繰り返す。白井も、麗華の意見が聞きたくなった。
「高校時代の同級生が、新婚一年で旦那さんと大喧嘩して、家を出たらしいんです。どうやら予想以上に深刻で、離婚の危機とか……」
話の途中から、麗華が笑い出した。
「そんな喧嘩、たいしたことじゃないわ。離婚なんて、簡単にできるものじゃないのよ。まだ新婚さんならなおさら、一時の感情なんかより、結婚した時の気持ちが勝っているはずだもの。それに、失うものの多さを前にしたら、きっと冷静になって、お互いにゴメンねってするのよ」
その言葉が白井には少し重たく感じた。
麗華は、かつての恋人との間で、そういったやり取りに翻弄されてきたのだろう。
麗華自身は、天秤にかけられても、常に軽い存在だったのだ。
ビル風が吹き付ける。麗華は片手で髪の毛を気にしながら、白井を見つめた。
「あなたなら、聞き役に最適だものね」
「いや、そんなことは」
「きっと、お友達もあなたには全部話してくれるわ。私がそうだったように」
――。
白井は、その当時の記憶を振り払うように、少しだけ歩みを速めた。
信号待ちの交差点で、麗華が微笑んだ。
「ふふ、でも流石に人妻さんと一対一で会うのはやめておいた方がいいわね」
その意見はもっともだったが、白井は少し落ち着かなかった。
まるで、警告のように――。
白井は咳払いをすると、どうにか言葉を返した。
「……そもそも、話を聞いてあげる機会がないんです。僕は連絡先も知らないですし」
「どういうこと?」
「ウサさんから聞いただけなんですよ。どちらかというと、彼が相談に乗っているはずなんです。どうして、僕に放り投げようとしているのか、本当にわからなくて……」
「ふふ。ウサちゃんなんかに相談したら、その晩のうちに、間違いが起きそうね」
楽しそうに麗華が笑う。彼女も、宇佐見の人となりをよくわかっていた。白井はため息を吐く。
「……そうなんです。さすがに、弁護士とはいえ、それは越権なので……」
「お友達同士、食事でもしながら話を聞いてあげれば良いのよ。独身の寂しい話を聞いたら、彼女も結婚生活の良さがもう一度わかるんじゃないかしら」
いたずらっぽく笑う麗華を見て、白井もつい笑みが浮かぶ。
麗華の華奢な手が、白井の前髪に伸びて、そっと顔をのぞかせた。
「あなたは、一人が良いのね」
それは、問いなのか、確認なのか――白井は一瞬言葉を失った。
構わず麗華が続ける。
「私も、心のどこかでそう願ってるのよ。恋愛だの、結婚だの、そんなものに悩むあなたを見たくないって」
何も答えない白井を置いて、麗華は地下鉄の階段を下りていった。
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