九月二十七日(火)夜 居酒屋いざいざ
友人二人の箸が止まった。
「タンヤオ、もう一度言ってくれ」
キャタツが動揺している。フジは相変わらず眠そうな顔だったが、箸から軟骨揚げが落下しているのに気付いていない。
真太は深いため息を吐いて、早口で言った。
「嫁が、浮気していた」
「それは、理解した」
「女と」
「……」
重い空気が流れる。キャタツが、いびつな笑いを浮かべた。
「さすがに、三日連続で呼び出された時は、イラついたが、お前の話はどんどんスケールアップしていくよな。わざとか?」
「そ、そんなわけないだろう!」
「こいつにそんな独創性があるもんか。嫁さん、なかなかやるなあ。で、結局どういう展開になっているんだ?」
フジが気を取り直したように、軟骨揚げを食べ始めるのを見つつ、真太は、深いため息をついた。
「花恵のヤツも騙されていたんだ。アイツ、大泣きして、相手の女に思いっきり平手打ちかましたんだ。それで結局、また友達の家に寝泊まりしている」
すると、フジが眉をしかめながら言った。
「それは、つまり嫁さんは、その女にマジだったってことか?」
「え?どうなんだろう……」
「男だと思っていたのが、女だった。だからショックでビンタしたんだろう?結果はどうあれ、浮気心があったから、騙されたことになるわけで……少なからず、気持ちはお前以外の人間に傾いていたんだろうよ」
フジが容赦なく胸をえぐることを口にした。すると、キャタツが笑いながら言った。
「でも、女で良かったじゃん。要は、ちょっといたずらされただけなんだよ。嫁さんだって、別に大したことしてないんだろう?どこで、浮気だってわかったんだ?」
そう聞かれて、真太は答えに窮した。ただ、夜道を歩いていただけだ。しかし、妻の態度は明らかにおかしかったし、相手の女もやたらと馴れ馴れしかったのだ。
たどたどしく説明すると、友人たちは疲れた顔をした。
「何にもしてねえのかよ」
「相手の人間も完全にからかってただけじゃんか」
二人はつまらなそうに刺身を食べ始めた。
「そ、そうだよな。女同士だったら浮気にはならないよな」
「お前がそれで良いなら、良いんじゃねえか?ああ、オレは少しドキドキしていたのによ」
「キャタツはそういう趣味があったのか。まあ、いい。そもそも、そんなに男に見えたのか?間違われた相手も気の毒だな」
フジに言われて、真太は昨晩の女の風貌を思い出してみた。
髪の毛は明るい色のショートカットで、服装もパーカーとジーンズだった。男というより、少年といった方が近いか。
ただ――。
「巨乳だった」
「……」
「シャツを下からまくっただけで、全部は見えなかったけど、それでもわかるんだ。谷間は偽造できるが、下乳はそうはいかない。あれは、間違いない」
友人たちが息を飲む。そして、ほぼ同時に言葉を発した。
「詳しく聞こう」
「お聞かせ願おう」
「そんなこと言われても……アイツは、近くのバーで働いていて、花恵を家まで送り届ける途中だったらしいんだ。しかも、おれが迎えに来るのを店で待っているように言ってくれたらしい」
「よし、その店を教えろ」
明らかにキャタツの態度が変わった。フジはそんな友人を冷やかに見ながら腕組みをした。
「聞けば聞くほど、よくわからんね。そのバーテンちゃんは、親切にお前の嫁さんを送ったにも関わらず、勝手に勘違いされた上にビンタまでされて、さぞ迷惑だったろうな」
「フジの言うとおりかもしれないよ」
真太はため息を吐いた。
「おれは、てっきり同級生の白井くんだと思ったんだ。花恵の夢に出てきたらしいから」
すると、キャタツが声を上げて笑った。
「良くも悪くも、タンヤオは単純だよな。夢に登場しただけで浮気相手にされちゃ、ほとんどの人間が寝れなくなるっての」
フジが大きくうなずく。
「まあ、窮地に追い込まれた亭主ってのは、みんな疑り深くなるんじゃないのか?そういや、俺の仕事仲間にも、同じ名字のヤツがいるよ。そいつも色々と誤解されては珍事に巻き込まれているね。白井って名前の人間は、今年は運が悪いんだな」
その時、真太のスマートホンが鳴った。
見覚えのない番号だったが、通話ボタンを押した。
「もしもし」
相手は女の声だった。花恵の友人だろうか。しかし、次々と繰り出される言葉に、真太は身体が泡立ち始めた。
「お前――」
真太の様子に、同級生の二人も怪訝な顔をする。電話を切った真太は、財布から一万円札を出すと、テーブルに置いた。
「悪い。おれ、用事ができた」
「おいおい、急だな」
キャタツが、少し不満そうな声を出す。すると、フジが頬杖をつきながら言った。
「……民法七七〇条……だっけ」
「な、何だよ、フジ。いきなり……」
「一項一号条文より、性交渉を伴う不倫は、当然に離婚事由にあたる。が、同性同士の不倫は立証が難しい上に、民法の貞操義務違反にも触れないと思われる」
いきなり専門用語を並べられて困惑する真太をよそに、フジは話を続けた。
「ただし一項五号条文より、婚姻生活を送るのに著しく困難な事由にあたる場合、問題に発展するかもしれない。言っておくが、変な面倒事になっても、俺は離婚トラブルの仕事をしないからな。して欲しかったら、見返りを充分に用意しておけよ」
柔らかい笑みを浮かべながら、フジは一万円札を突っ返してきた。
どこか湿った空気は、何となく雨が降る予感をさせた。しかし、空には昨日と同じく明るい月が出ている。真太は、昨晩と同じ場所を、ほぼ同じ時刻に駆け抜けた。公園通りの歩道橋を渡り、遊歩道に差し掛かると、ベンチに誰かが座っているのが目に入った。
ブラウスとタイトなミニスカート、そしてロング丈のコートを合わせた少女だ。
街灯に照らされた、明るく長い髪の毛をかき上げる。昨夜の少年らしさがどこにもないその顔に、真太は少し動揺する。
「ごめんね、呼び出して」
女にしては、少し低い声かもしれない。しかし、語調は完全に女だった。もちろん、演じているのかもしれないが。
「何の用だ?何で、おれの番号を知っているんだよ」
「そんな、怖い顔しないでよ。番号は、奥さんのスマホを預かっていた時に、さんざん着信があったからね。もしものためにメモしておいた」
真太の表情が強張ったままなのを見て、少女は立ち上がりながらため息を吐いた。
「アタシはジュン。奥さん、泣かせちゃって悪かったよ。……さっきも言ったとおり、謝ろうと思っただけだってば」
そして、ゆっくりと暗い小道を歩き出した。両側のうっそうとした茂みに囲まれ、唯一の弱々しい街灯がジュンを照らす。その身体はスラリとしながらも、ところどころ引き締まっているように見えるのは、何かスポーツでもやっていたのだろうか。花恵より背が高い。ヒールの高い靴を履けば、真太にも追い付きそうだった。
それが、妙な敗北感となって真太を襲う。
「ふざけるな、おれは帰る。二度と花恵にも近づくなよ」
真太の中で怒りが込み上げてきた時、ジュンの顔が一瞬で真顔に戻った。
「破綻しているくせに綺麗ごとばかり……反吐が出るね」
「な、何?」
「愛だの、絆だの、夫婦で勝手にやってれば良いのに、どうして周りを巻き込むの?」
真太は、自分たち夫婦の問題をジュンが知っていることに気づいた。どうやら、花恵が口を滑らせたのだろう。
――おれが、先に友達に話したからか。
「でもね、巻き込む相手は選ばないとね」
そう言いながら、ジュンはうなだれる真太の目の前に立ち、いきなり両手を掴むと、そのまま自分の胸元に押し付けた。
「え?」
何が起きたのか、わからない。ただ、真太の手の平は、今まで知らなかった感触を味わっている。
「ち、ちょっと!」
慌てて両手を振り払うと、ジュンは、真太の身体に腕を回し、上目使いで見つめてきた。
そして、唇に柔らかな温みが落ちた。
――。
肩は強張ったままなのに、足の力が抜けていく。
「フェアじゃないものね。奥さんだけなんて……ズルいよね」
真太は、妻の花恵が何をされたのか知った時、わずかに離れた唇が小さく動く。
「花恵さん、感じていたよ。こういうのが、きっと好きなんだ」
ジュンは、押し殺した声で、切なそうに言った。
触れるか触れないかの微妙な距離感と甘い香り、真太は目が回り出した。ジュンの瞳が楽しそうに笑う。
「いい感じ。ねえ、一緒に練習してみない?」
言い終わるより先に、いきなりジュンが真太を突き飛ばした。
不意を突かれ、石段に足が取られると、そのまま茂みの方へと倒れ込んでしまった。
「ここはね……誰も通らないんだ」
細い指先が、真太のベルトを引っ張った。
「……は、え?」
ジュンは長いコートを脱ぐと、それを頭から羽織りながら真太の横に膝をついた。
片手で自身のブラウスのボタンを外し、もう一方の手で真太のズボンのチャックを下した。
「ちょ、ちょっと!」
「この状況……人が来たら分が悪いのはそっちよ?会社辞めたくないでしょ」
その勝ち誇った目が、一瞬だけ柔らかく笑った。
「アタシのキス、相当良かったみたいね」
次の瞬間、今まで感じたことのない、大きな温もりと柔らかさに先端が挟まれた。
憐れなほどに、自分の身体が――ヨロコンデイル。
上目使いでジュンが笑った。
「アタシね……愛だの絆だの綺麗事を言ってるヤツが」
細い指先が真太の太ももの後ろを上に撫で上げた。
「心も身体も疼く瞬間を見るのが大好きなの」
滑らかな動きに翻弄されながら、真太は必死に声を押さえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます