九月二十七日(火)夜 ロイヤルガーデン緑ヶ丘 四〇一号室
結局、たった二日だけの家出となった。それでも、花恵はこの部屋に戻るのがずいぶん久しぶりに感じた。
意外にも、部屋は散らかっておらず、洗濯機に夫の脱いだ洗濯物が溜まっているくらいだった。なぜか、花恵は少し悲しくなった。
寝床を提供してくれた友人のカニに、これ以上迷惑をかけるわけにもいかない――というのは、表向きの理由かもしれない。彼女は、代わりに家事を行うことを条件に、何日でも泊まって構わないと言ってくれただけでなく、実際に自宅に戻ることを伝えたら、少しがっかりされたのだ。
花恵が、真太のいる部屋に帰ろうと決めたのは、友人の前でどういう顔をすれば良いかわからなくなったからだ。
あの晩、ジュンを引っ叩いて、泣きながらカニの部屋に戻った。その理由を話すわけにもいかず、心配するカニをよそに、花恵はそのまま寝てしまった。翌朝は、カニの方が出勤が早く、ろくに会話もしていない。それでも、メールで花恵を心配してくれる友人に、花恵は何とも言えない罪悪感を抱いた。
――罪悪感。
一体、何に対しての罪悪感だ。心配する友人に申し訳ないと思うなら、すべてを話して相手を安心させたら良い。それができないからこそ、抱く感情であって、その理由は花恵自身が、誰にも見せたくない、やましい心を持っているからなのだ。
花恵は、ジュンの口づけが忘れられなかった。
女だと知った時は、怒りや恥ずかしさ、惨めさ、色々な感情が溢れ出し、衝動的に手を上げてしまった。それでも、ジュンは何も言わず、ただ花恵を見つめていただけなのだ。
その後のことを、花恵は知らない。きっと、夫がジュンを責め立て、もう二度と会うこともなくなるのだろう。
――だって、私は、結婚しているから。
そういう答えが頭に浮かんで、花恵は顔が熱くなった。結婚が理由なのか?結婚していなければ、問題ないのか?
――わからないよ。
自分は、女であるジュンに惹かれている。それが精神的なものではないこともわかっていた。もしかしたら、相手は性別を超えて純粋な気持ちを向けてくれたのかもしれないのに、それに応える自信はない。
単純にキスをされた時の快感が、ある種の麻薬物質のように花恵の脳内に溢れている。しかし、このままでは良くないという気持ちも同じくらい強い。しかし、このままでは良くないという気持ちも同じくらい強い。二十九年間生きてきて、こんな想いは初めてだった。
まさか、自分が女に欲情を抱くなんて――。
「だめ、絶対ダメよ」
花恵は気持ちを整理しようと、バスルームに向かった。熱いシャワーを浴びて、何もかもリセットしたくなった。今なら、まだその程度で洗い流せる気がしたのだ。
友人のカニから電話が来たのは、ちょうど風呂から上がったところだった。あまり心配させるのも良くないと考えた花恵は、無理に明るい声で電話に出た。すると、向こうからも、何やらにぎやかな音が聞こえてきた。
「カニちゃん?どこにいるの?」
「イタリアン・ポロだよ。みんなアンタのこと心配してたのに、意外と元気じゃないの。さては、さっさと仲直りしたな?」
カニの推測はハズレだったが、花恵はあえてそういうことにしておいた。それよりも、気になることがあった。
「みんなって、他に誰かいるの?」
「待って、代わるから」
しばらくすると、陽気な声が聞こえてきた。
「ハナマルちゃん、仲直りしたんだって?」
「ウサちゃん?」
「うん、オレだよ。仲直りしても問題ないよ。ランジェリーショップに行くのはいつにする?」
宇佐見のそばでカニが笑う声がする。完全に花恵はからかわれているようだ。
でも、それが今の花恵には救いになった。
気分を紛らわすように、花恵は声を張り上げた。
「もう、やめてよ。ウサちゃんとそんな所に行ったら、それこそ旦那と大喧嘩よ」
「いいじゃない!大丈夫。オレが加勢するから」
噛み合わないやりとりをしていると、宇佐見が誰かに声をかけたようだった。
「ハナマルちゃん、ちょっと待ってね。電話を代わるから」
「他にも誰かいるの?」
「いるよ。黒くて白い、怪しい人間が」
しばらくして、たいそう低い声が聞こえてきた。
「……こんばんは」
「え?」
「白井です」
花恵の脳裏に、高校三年当時の白井の姿が浮かんだ。
「やだ、本当に?白井くん、久しぶりだね」
「はあ。円山さんも、お元気そうで」
「そうか、白井くんも同窓会欠席だったから、みんなと会えなかったんだよね」
「はあ」
あの頃と何も変わらない受け答え。最初は、照れているのかと思っていたが、どうやら本当に必要最小限のリアクションしかしないだけのようだ。花恵は白井の声を懐かしみながら話を続けた。
「白井くんって、今は何しているの?」
「はあ、土地家屋調査士という……地味な仕事です」
「何かの専門職なんだね。そうそう、私は結婚したんだよ。だからもう円山さんじゃなくて、丹波さんなの」
「そう呼んだ方が良いですか」
「ううん、高校の友達には昔の名前で呼んで欲しい。何か寂しいから」
「はあ。それは良かった」
「どうして?」
「僕は、あの時の円山さんしか知らないので……丹波さんは別の誰かのような気がするから」
――。
別の誰かという言葉に、花恵は少し鳥肌が立った。今、複雑な悩みを抱えた自分は、白井にとっては別の誰かなのだ。
「別の誰かなんて……そんな言い方」
「え?」
わずかに、白井が動揺した声を出す。それを察したのか、宇佐見が電話口に出た。
「どうした?ハナマルちゃん、この白黒男に何を言われたんだい?」
「平気よ、ウサちゃん。白井くんに代わってくれる?」
「こら、アサト。ハナマルちゃんの悩みを聞くのが君の役目だって言ったでしょうが。さもないと、オレがハナマルちゃんを身体ごと慰めざるを得なくなる」
「はあ。でも、仲直りしたって、ついさっき……」
「そうだよ、ウサ。アンタは下心を出し過ぎんのよ。もしもし、ハナマル?」
カニの声がひときわ大きく聞こえてきた。
「昨日、泣いてた理由はあえて聞かないけどさ。みんながこうしてアンタを心配してるんだよ。良い仲間を持ったなあって思うなら、アタシに男の一人二人を紹介しなさいよ。旦那さんの友達でいいから」
電話口から笑い声が聞こえる。花恵は、カニのこういう気を遣わせないところが大好きだった。
――でも、違う。
カニはあくまで親友としての好意だ。ジュンも同じ女なのに、何が違う。花恵はまたしても胸が苦しくなってきた。友人たちに礼を言い、電話を切ると、ソファに倒れ込んだ。
最初は男だと思っていたから、辛いのか。それとも、女とわかったのに、忘れられないから辛いのか。いずれにしても、花恵を縛るこの気持ちを解くには、時間がかかりそうなきがしてならなかった。
そこへ、玄関の鍵が開く音が聞こえた。
夫の帰宅に飛び起きると、花恵はカーディガンを羽織って玄関に向かった。ゆっくりと開いたドアの先に、疲れた顔の夫が立っていた。
花恵を見るや驚いたように目を見開き、そしてすぐにうつむいてしまった。
わずかな沈黙の後、花恵はどうにか言葉を紡いだ。
「お、かえり」
「……ただいま」
喧嘩して、飛び出して以来の久しいやりとり。ごく自然に挨拶を交わせたことが不思議に思えた。
まだ、何も解決していないのに。
真太が着替えを済ませている間に、茶の用意をするのも身体が勝手に動いた。しかし、次の展開は、まったく予測できない。花恵は必死に発すべき言葉を考えた。
――ごめんなさい、でいいのかな。
それは、家出したことに対してか、それともジュンとの関係に対してか。
「花恵」
いつの間にか、夫がダイニングテーブルの近くに立っていた。その顔は少し酔っ払っているようにも見える。
「うん」
「あ、あのさ」
真太は言いづらそうに口元を押さえながらポツポツ話し始めた。
「お前、アイツのことは何も思ってないんだよな?」
身体が凍りつくのを感じながら、花恵はとっさにうなずいた。
「ないわよ」
唇の温みが蘇るのを、押さえつつ花恵は押し殺した声で言った。
「送ってもらっただけ、なの。男のフリまでされて……からかわれていたのがわかったら、頭に血が上っちゃったわ」
早口に取り繕う言葉を吐き出す。
「……そうか」
気のせいか、真太の目が少し潤んでいるような気がした。
「実は……さ。あの後、おれに電話があってさ。お前のスマホを預かってたから、着信からおれの番号知ってたみたいで。それで、少し話をしたんだよ。その、えーと、ジュンちゃん?」
夫の口から出た名前に、花恵はまた胸が苦しくなるのをこらえて、応答した。
「うん、バーテンダーの子よ」
「彼女さ、どっちでもないんだって」
「え?」
「いや、どっちでもないってことは、どっちでもあるってことかな。よくわからないけど、身体は女でも、心は両方とも持っているらしい」
「……」
「性同一障害か何かなのかって聞いたら、女の身体に嫌悪感はないから違うんだって。でも、女の服を着るのは女装している気分になるって」
真太の言うことがよくわからない。
しかし、花恵はもっと別のことに気持ちが揺れた。
ジュンが、花恵ではなく真太に自分の体質を語ったということに、わずかな敗北感を抱いたのだ。
そして、夫に嫉妬している自分が確かにいる。
「おまえに、ごめんねって言ってたよ」
「あの子が?」
「うん、泣かせるつもりはなかったって。確かに、あれだけ顔が綺麗な男だったら、おまえが揺れ動いても仕方ないかな」
真太は自嘲気味に笑った。それが、花恵には少し違和感となった。まるで浮気を容認するかのような物の言い方ではないか。
「真ちゃん、ジュンとは、それだけ話したの?他には?」
途端に、夫が目を泳がせた。花恵は、ある確信を持って、真太に詰め寄る。
「本当は……全部聞いたんじゃないの?」
――私とジュンがキスをしたことを――。
真太は目を丸くして、しばらく花恵を見つめた。そして、何か考え込むような顔をすると、小さくうなずいた。
「お前が悪いわけじゃないから。その……相手が無理やりだったんだろう?」
「……」
「本当、女同士で良かった。でも、ジュンは花恵のこと気にしていたよ」
真太は、花恵の頭を軽く叩くと、いつもの笑みを浮かべた。
「お前さえ良ければだけど、また飲みに来てくれってさ」
言いようもない違和感。
相手が女だから、夫が問題視しないのはうなずける。本来なら、そこに自分も安堵すべきなのに。
違和感の正体、それは花恵の心の中でジュンへの気持ちが本物だからだ。
ジュンへの淫らな気持ちが――。
花恵は夫に悟られないよう、先に休むと告げるとリビングから逃げ出した。
ジュンに会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ちとに締め付けられる。
身体の先端に、じんわりと熱が帯びていく。
――あの子は、夫ですら味方につけている。
そうやって愚かな新妻の心を弄んで、やはり楽しんでいるだけなのか。
――もう、会わなきゃいいだけじゃない。
そう決めた時、なぜか涙が溢れ出した。
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