九月二十八日(水)夜 駅前広場

 駅の改札から、丹波花恵が小走りに駆け寄ってくると、白井は折り目正しいお辞儀をした。高校卒業してから十年近く経とうとしているが、女性というのは案外変わらないものだと妙に感心する。

「久しぶり、白井くん」

「はあ。お久しぶりです」

 白井が再び小さく会釈をすると、花恵は吹き出した。

「白井くん、まるで変わってないからすぐにわかったわ。少し背が伸びたくらいね」

「はあ」

「だって、高校時代の学ランが、黒いスーツに化けただけだもの。おかげで探す手間が省けたけど」

 白井は、花恵の話に適当に耳を傾けながら、人混みをを避けるように歩き出した。

「それで、ハナマルさん……僕に話したい事とは一体……」

 昼間、突然の花恵からのメールに声を上げる程に驚いた。内容から察するに、夫婦仲は完全には回復していないと思われたが、たいそう困った挙句に、白井は同窓のよしみで花恵と会う約束をした。

 結果的に、宇佐見の言うとおり新妻の悩みを聞くことになってしまい、暗澹たる気持ちにもなった。


 ――。


 人妻と二人で会うなと警告してきた、麗華の顔が浮かんだ。

 奇妙な罪悪感と焦燥感、そして危機感に白井は一気に疲弊した。

 

 ――もう、本当に次はやめよう。


 待ち合わせ時間と場所はあえて白井が指定した。早く事態から解放されたい一心もあったが、せめて自分にとっても有益な時間したかったからだ。


 白井は花恵にそっと切り出した。

「ハナマルさん、申し訳ないんですが、僕は仕事の最中でして」

「あ、うん。ごめんね、無理言って」

「いえ。ちょうど、クライアントがやっている店があるんです。そこで書類に印鑑をもらうだけなので……そのお店でも良いですか」

「うん、いいよ」

 白井は、麗華が持ってきた依頼(ホステスのリナが新居を建てる手続き)のために、書類を準備してきた。リナの夫から手続きの委任状をもらうだけなのだが、当人は店を経営していて忙しいというので、白井の方から訪ねることになったのだ。


 その店が、麗華と再会したバーだというのは、昨日知ったのだが。

 

 目当ての場所に着いた時、花恵が声を上げた。そして、白井の腕を引く。

「ここ、なの?」

「ええ……。あの、どうしました?」

「他の場所じゃダメなの?私、その前に白井くんに聞いて欲しいことがあるのよ」

「あの……「その前」というのは」

 花恵は何やら言いたそうな、泣き出しそうな複雑な表情を浮かべた。どうも会話が噛み合わないでいると、後ろから来た客が店に入れずに困っているのに気づいた。慌ててそこを通した時に、店の中から、恰幅の良い男が顔を出した。

「あ、白井先生でしょう?女房の言ったとおりだ」

 片野です、男は自己紹介しながら笑っていた。どうやら、これがリナの夫のようだ。片野は白井の後ろにいた花恵に目をやると、驚いた表情を浮かべた。

「あれ?最近、よくいらっしゃいますね」

 その言葉に、花恵はうつむいたまま何も答えない。白井はその態度が少し気になりながらも、結局は片野に促されて店内に入った。カウンター席ではなく、隅のテーブル席に案内されると、すぐに片野は書類と印鑑を持ってきた。白井も鞄から捺印をもらうための委任状を並べる。

「家を建てるのに、こんな面倒な手続きするなんて知らなかったよ」

 片野は印鑑を押しながら言った。

「そういや、さっきも似たような書類持った人が来たなあ」

「はあ。似たような書類ですか……」

「そっちの人も実はリナの知り合いらしいんだけどね。客としてリナの店に来たのに、酒が一滴も飲めないんだとさ。おまけに、背が低くてまるで中高生みたいで、ここに来た時は思わず入店拒否しちゃったよ。イケメンなのに、色々もったいないよな」

「……そうですか」

「ナントカ書士って言ってたぜ。名刺ももらったから、見てみる?先生の知り合いか?」

「はあ。三百パーセント知り合いです。法的手続きには、それぞれ段階がありまして、その人も僕と同じようなことをするんです」


 片野が見せてきた名刺には、予想通りの名前が刻まれている。


『ふじいし司法書士事務所 司法書士 藤石宏海』


 白井の仕事仲間である。仕事のためなら何でもするが、仕事にならないことは、目の前で泣かれても何もしないという人間だ。今回は妙なことに巻き込まれないよう祈りつつ、白井は片野の書類をチェックした。

「これで、問題ありません。明日にでも申請手続きしますので」

「お、良かった。先生には費用を安くしてもらったから、今日はおごるよ。お連れの人も」

「え、私は、別に……」

 ずっと壁の方を向いていた花恵が、にわかに驚いた声を出した。どこか落ち着かない様子に、白井は少し心配になった。片野がカウンターに戻っていくと、白井は、花恵に声をかけた。

「この店だと、何か都合が悪いんですか?出ましょうか?」

「あ、あのね。白井くん……」

 その時、花恵の顔が強張った。背後から誰かが近づいてくるのを感じ、白井は振り返った。そこに立っていたのは、麗華と飲んだ時にも働いていたバーテンダーだ。


 しかし、白井は妙な気分になった。

 その品定めをするような目つきに覚えがある。


 先に、相手が口を開いた。

「あれ、あなた河合先生と一緒にいた人……あなたが白井さんだったんですか」

 小さくささやいた声に、白井は縫いつけられたように動きを止めた。


 イタリアン・ポロでだ。


 しかし、今の姿はどう見ても男だ。

 そもそも、言葉の意味がわからない。


 混乱しかけた時、花恵がバーテンダーに言った。

「……失礼よ」

 花恵の苦しそうな表情を見つめ、バーテンダーは頭を垂れた。

「申し訳ありません。ごゆっくりどうぞ」

 戻っていくバーテンダーから目をそらし、花恵は白井に言った。

「白井くん、ごめんね」

「はあ、いや。僕は何も」

「あの人のこと、どう思った?」

 こっちはこっちで質問の意図がよく見えない。さすがに返答に窮していると、花恵はため息を吐いた。

「やっぱり、場所を変えたいな」

 今にも泣きそうな声に、白井は戸惑った。そうまで言われて留まる理由もない。すぐに席を立ち、先に花恵を外に出した。

 白井が片野に挨拶しようとカウンター席へ向かった時、先ほどのバーテンダーが目を丸くしてこちらを見た。

「もう、お帰りですか」

「はあ。友人が具合が悪いというもので」

 友人、バーテンダーはつぶやいた。

「夢にまで出てくる友人、か……」

「……」

「大人気ですね、白井さん」

 楽しそうな笑みが、白井を少しだけ不快にさせた。しかし、今は片野に挨拶するのが先だ。恰幅の良いオーナーは、すぐにこちらに気づいた。

「あれ、先生ってば帰っちゃうんですか?」

「申し訳ありません。また飲みに来ます……」

 会釈をしながら、その場を離れると、例のバーテンダーが白井に再び声をかけた。

「あなたってカウンセラーか何かなんですか?河合先生といい、花恵さんといい……」


 一瞬、寒気がした。


 相変わらず、言っている意味もわからない。白井はとにかく立ち去りたい一心だった。

 男女判別しづらい、いかなる感情も見えない乾いた声。

 陶器のような滑らかな頬は白く――。

 思わず目をそむけた。


「カウンセラーではありません。むしろ……あなたに相談相手を代わって欲しいくらいです」

「え?」

「失礼します」


 白井はバーテンダーを振り切って店を出た。

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