九月二十八日(水)夜 ポプラ公園
向かいの店の看板に隠れるように花恵が立っているのを見つけた。本当に具合が悪そうな顔をしており、白井はいよいよ心配になった。
「ハナマルさん、一人で帰れますか?タクシー呼びましょうか」
「……白井くん、少し歩きたいわ」
白井の返答を待たず、花恵は歩き出した。細い路地を抜け、大通りに出る。歩道橋のたもとで、花恵はこちらを振り向いた。
「さっきのバーテンさんね、女の子なのよ」
「はあ。そうですね」
すると、花恵は何度か目を瞬かせた。
「白井くん、気づいたの?」
「はあ。というより、僕は彼女と初対面じゃないんです」
さらに、花恵が目を見開く。白井は、なぜか気まずくなってしまった。
「あの人はイタリアン・ポロでも働いているんです。先日、見かけまして」
「えっ!」
ことさらに花恵が声を上げた。
「わ、私もたまにポロには食事に行くけど……見たことなかったわ」
「はあ、昼間のシフトなんだと思いますよ。その時は、普通に女性の恰好でした。もちろん、親しいわけじゃないので、男女入れ替わっている理由は知りませんけど」
「そう、なんだ……」
そのまましばらく会話が途切れた。公園の遊歩道に差し掛かった時、花恵は何やら思いつめたような表情でため息を吐いた。白井は、時計を気にしつつ、結局は自分から切り出すことにした。
「ハナマルさん、ところで話というのは……」
目の前の新妻は、一瞬ためらうように口元を歪めたが、意を決したように白井を見つめた。
「結婚したら、女は生まれ変わらないといけない?」
「は?」
「私は、結婚前の円山花恵に戻ってはダメなの?丹波真太の妻として、振る舞い続けなくてはいけないの?私の夫は、名字も何も変わっていないのに……」
白井を見つめる花恵の瞳は鋭いものがあった。なぜ自分にそんな話をするのかまるでわからないが、どうも逃がしてくれそうにはない。宇佐見が思っている以上、花恵の悩みは深刻だと今ここでハッキリした。やはり、断れば良かったと思いながら、白井は必死に言葉を探す。
「あの、僕は独身なので、上手く答えられないですけど」
「あなたが言ったのよ。別人だって」
そうだっただろうか。しかし、花恵が追い詰められるきっかけを与えたのなら、やはり逃げるわけにはいかない。白井は、真っ直ぐに花恵を見つめた。
「まるで、ハナマルさんは昔の自分に戻りたいみたいですね」
「……」
「あの、バー・クレセントで何があったんでしょう。バーテンさん、あなたのことを知っていたみたいですし……」
次第に花恵の顔から表情が消えた。
そして小さくつぶやいた。
「私、最近よく通っていたの、あの店に」
「はあ」
「あのバーテン。あんなにイケメンなのに、女の子なのよ……」
「はあ」
「私……それを知ってショックで……。ね、おかしいでしょう?」
「いえ」
「嘘よ」
花恵は遊歩道のベンチに腰をかけ、顔を覆った。
「おかしいに決まっているじゃない。私は、結婚してるのに、よりによって女の子に……」
「それが、ご主人と喧嘩した理由なのですか?」
すると、花恵は自嘲気味な笑いを浮かべ、首を横に振った。
「逆よ。旦那と喧嘩したから……彼女に出会ってしまった」
「は……あ」
白井は街灯に群がる虫を見上げながら、何となく浮かんだ言葉を選んだ。
「だとしたら、ご主人との喧嘩理由を解決したら、あのバーテンさんとも会わずに済むのでは?」
花恵は不機嫌そうに眉をしかめ、白井を見つめ返した。
「どうして、そうなるの?」
「ご主人との喧嘩の理由は知りませんけど、本当に仲直りをしたいとあなたが思っているなら、そうすれば良いと思ったんです。ハナマルさんは、ご主人より他の人間が魅力的に見えているだけで……隣の芝生ってやつでしょうか。バーテンさんの性別は、この際関係ないのではないかと」
花恵はうつむいて、暗い地面の一点に視線を注いだ。白井は自分が放った言葉が、相手を傷つけてしまったのではないかと、今さらながら焦り出した。
「あの、ハナマルさん。すみません、僕は」
「本当、白井くんって不思議よね。変わらないわ」
ゆっくりと立ち上がると、花恵は白井に頭を下げた。
「あなたの言うとおりよ。私、旦那との問題を解決するのを避けていたんだわ。そこをつけこまれてしまっただけなんだと思う。彼女も、初めて会った時に言ってたのよ。『愛されてるくせに、わがままだ』ってね」
白井は、あのバーテンダーの顔を思い出してみた。花恵のことを気にしているのは確かなのだろうが、あの言動をとっても、どこか掴めないものがあった。長い間、不動産という巨額案件に関する仕事に携わってきたおかげで、白井は油断できない種類の人間も多く見てきた。その直感が、わずかに働いている自分に少しイヤな気持ちになる。
その時、背後から人が近づく気配があった。
振り返ると、サラリーマン風の男が立っていた。
途中まで走ってきたのか、肩で息をしている。
花恵が悲鳴のような声を上げた。
「し、真ちゃん?何でこんなところにいるの?」
しかし、男は花恵を無視し、白井を睨みつけてきた。
「今度こそ……白井くんか」
いきなり自分の名前を呼ばれ、白井は動揺した。すると、それ以上に慌てた花恵が男に駆け寄る。
「真ちゃん、誤解しないでね。本当に、この人は無関係なのよ。確かに、同級生の白井くんには違いないんだけど……ああ、白井くん。この人が私の旦那なの……」
ようやく、白井は自分が面倒な場面に巻き込まれたことを察した。相手を落ち着かせるためにも、ここは自己紹介をしておくことに決めた。
「初めまして、白井といいます。奥様とは、高校時代の同級生でした。今日は、その」
「バーで酒を飲んだんだろう?」
まさか、目撃されていたのか。誤解を解くために説明しようとした時、花恵が押し殺した声で言った。
「どうして、知っているの?まさか尾行していたとか?」
すると、今度は夫の方が急に慌てだした。
「いや、違うよ。お前が白井くんと店に来たって連絡が来たから、おれは心配になって」
「ちょっと待ってよ。誰に聞いたの?まさか、ジュンがあなたに言ったの?」
花恵の声には怒気が含まれていた。次第に、夫の方が委縮し始める。
一体、何なのだ。
白井は、立ち去るわけにもいかず、二人の会話を見守るしかなかった。
「あの子、何を考えているの?どうして、いちいちあなたに連絡するのよ」
「そ、そりゃ、花恵が浮気しているかもしれないって心配して……」
「そんな、私はジュンのことが」
そう言いかけて、花恵が口を覆う。夫は、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべ、すぐにため息をついた。
「わかった。アイツの勘違いだってこと、伝えておくよ。何か、おれ達さ……周りに迷惑かけ過ぎだよな。いい大人が何してんだって感じだよ」
花恵の夫は、白井に向き直ると深く頭を垂れた。思わず、こちらも同じ動きをしてしまう。それを見て、一段と目の前の男は安堵した表情を浮かべた。
「すみません、いきなり失礼なことをしてしまって。これからも、こいつの相談に乗ってやってください」
「はあ……え?」
あまりに違和感のあるやりとりに、白井は絶句した。
花恵の夫が弱々しい笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、おれは、これで」
男が再び夜闇に消えてていくのを、白井は見送った。しかし、その妻の方は背を向けたままだ。
「ハナマルさん」
「ごめんね、白井くん。久しぶりに会ったのに、みっともないところ見せてしまったわ」
「いえ。ただ……」
白井は、花恵の夫の言葉を一つ一つ思い返した。
「これ以上、困ったことにならなければ良いですけど……」
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