九月二十九日(木)夜 車中
真太は、助手席の少女がカツラを外すところをまじまじと見つめた。
「本当、ラッキーだよ。ありがとう。遅刻しそうだったから、助かったよ」
バックミラーを見ながら、ジュンは無造作に顔を拭く。まぶたの付けまつ毛を勢いよく剥がした時、真太は思わず目をそらした。
「何なんだよ、まったく」
「ん?」
「夜のバイトに間に合わないから、迎えに来いとか」
「いいじゃん。昨日の夜は、奥さんの浮気を阻止させてあげたでしょ?」
「……浮気じゃなかったって、言ってるだろう」
真太がうなだれるのを、ジュンは楽しそうな目で見つめる。
「そうかなあ。あの前髪が長い男、意外とヤリ手かもしれないよ?」
「いや、ないよ。あの人は、単純に巻き込まれただけだ。花恵の同級生だし、何かあればすぐに周りで噂になるだろうし……それに、おれ以上に奥手だと思う」
昨夜――。
妻の花恵が、怪しげな男と一緒に夜の繁華街に消えていったとジュンから連絡が入った。その時のジュンの慌てた様子が演技だとも気づかず、真太は必死に妻を探し回り、すべてが誤解だと知った時の情けなさはしばらく忘れられそうにない。
ところが、あの黒服の男は、こちらの酷い言いがかりにも関わらず、なぜか丁寧に自己紹介までしてきたのだ。あれほどのお人好しは、そうそういないと思った。
すると、ジュンが少し考え込むような顔つきになった。うつむく横顔はまだ少女のように思える。
「……アイツ、花恵さんの同級生だったのか」
「何か言ったか?」
「いや、何でもないよ」
そして、ジュンは真太の頬に唇を寄せてきた。
お礼、そう聞こえた。
そのまま車を出すよう促された真太は、大通りを抜け、バー・クレセントを目指した。
――どうして、こうなった。
真太は、男の姿に変わったジュンを眺めた。
メイクを変えるだけでこうも化けるのか。あまりに見事な変貌ぶりに、女の身体を持っていることを忘れる。
そして、自分が不貞を働いてしまったことも。
――バカか、おれは。何を言ってるんだ。
真太は頭を抱えた。ジュンが無理やりに押し倒してきたとはいえ、言い訳はできない。
ところが、ある一つの疑惑が、この懺悔の念を揺るがしているのも事実だった。
真太は妙な心地でジュンを横目で見た。
妻の花恵こそ、このジュンに入れ込んでいるのではないか、そんな思いが日増しにつよくなった。
何の気持ちもない、妻はそう言っていたが、その行動は明らかに未練が感じられる。
何日も店に通い、ついには、真太にジュンの連絡先を聞いてきたほどだ。
「お前、花恵に何をしたんだよ。一応は、その……女同士だろう?」
「それの何が問題なの?花恵さん、すぐ赤くなって、可愛いんだもん。オレより十歳近くは年上なのにね」
「……質問に答えろよ」
「アンタにしてあげたことに比べれば、大したことないかな」
――。
真太は急に寒気がした。
「まさか、おれとの関係のこと……喋ったのか?」
「何、やっぱりそこ気にするんだ?」
ジュンがため息を吐くと、真太は声を荒らげた。
「当たり前だろう?このままだと、正常な夫婦生活を送れなくなる」
すると、ジュンが目を細めてこちらを見た。
「すでに、破綻しかけてたでしょうよ。オレのせいにしないでくれる?」
「花恵は、おれの女房だ。いずれは、子どもだって……。でも、このままじゃ」
「何だそれ。結局は、自分のためかよ」
急にジュンの声のトーンが落ち、真太は緊張した。車を降りていく背中は、もうこちらの話を聞く気配がない。
「ま、待ってくれよ」
「もういい。オレ、あんたには飽きた」
つまんねえ男、ジュンはそう吐き捨てると繁華街の方へ歩いていってしまった。ほんの数分のやりとりで、真太は自分があっさりと捨てられたことを察した。
相手が女だろうと男だろうと、同性愛者だろうと異性愛者だろと、関係を絶たれることに慣れていない真太は、そのまま抜け殻のようにシートに身を埋めた。
車の窓をノックされた時、ようやく真太は我に返った。路上駐車が禁止のエリアだったかと、慌てていると、見覚えのある顔が窓を覗き込んでいる。
「ふ、フジか?」
それは、端正な顔をした小柄な友人だった。眠そうな目を助手席に向けている。どうやら、乗せろと言っているようだ。真太は困惑しながらも、それに応じた。
乗り込むや否や、フジは深いため息とともにこう言った。
「谷坂二丁目のセルティアモールまで」
「……タクシーじゃないんだけど」
「何だよ。サービス悪いな。どうせ帰り道だろうが」
友人は腕時計を気にしながら言った。
「じゃあ、降ろしてくれ。間に合わない」
「お前、これから仕事なのか?」
「ああ。打ち合わせでね」
真太は、友人が激務にも関わらず、自分の愚痴を三日続けて聞いてくれたことを思い出す。降りようとするフジを止め、車を走らせた。その間も、友人は資料を眺めながらところどころチェックを入れている。こちらの夫婦問題の進展を聞かれるかと思っていただけに、真太は少し意外な思いがした。しかし、真太自身、友人たちが下手に干渉してこないことをわかっていたからこそ、愚痴をこぼしたのだ。
――結局は自分かよ。
ジュンの言葉が脳裏に繰り返される。頭が痛くなってきた。
「よし」
フジは一通り書類チェックが終わったらしく、持っていたコーラを飲みながら息をついた。ボンヤリと窓の外を見ていたかと思うと、
「平気か?」
そう聞こえた。
「え?」
「路駐している時のお前、死神がとりついているような顔だったぞ。声かけたのが警察じゃなくて俺で良かったよな」
フジはあくびをしながら、不明瞭に言った。真太は自分の放心ぶりを見られていたのが何だか恥ずかしくなった。
「まあ……色々あったから」
「まだ何かあるのか。今週はもう飲みは無理だぞ」
「いやいや、それには及ばないんだけど。ただ、うん」
話すつもりはなかったが、言葉を発するうちに自分の心が軽くなるのを感じた。いつの間にか、真太は友人に胸の内を話し始めていた。
「なあ、フジ……人の気持ちって、どうしてわからないんだろうな」
「何だ、いきなり」
「結婚した当初は目と目で通じ合うって信じていたし、実際にそうだった。でも、今は……自分の本音すらわからないよ」
「タンヤオの本音?」
「ああ。わかったのは、おれが拒絶されてばかりってことだ……」
花恵にも、ジュンにも。
不覚にも涙が落ちそうになるのを必死にこらえる。幸いにも、フジは窓の外を眺めていて、こちらには気づいていない。
「わからんな」
友人はため息をついた。
「今回に関しては、タンヤオの本音はもっとシンプルだったはずだろうよ」
「……ただ一つ?」
「嫁さんを満足させたかった、それだけじゃないわけ?」
「……」
「貫けない理由は何だ?嫁さんの浮気が重症なのか?それとも」
初めて、フジはこちらを向いた。
「お前が、別の誰かに心を奪われたとか?」
その目は、いつものように意地悪く笑っていた。すべてを見抜いたような眼差しに、思わず真太は声が上ずった。
「そ、そんなわけないだろう!何を言って……」
「そうだよな。俺たちが三日連続で愚痴を聞いた結果が、お前も不倫するとかだったら、悲しさのあまりクラスメートに言いふらすかもしれん」
思わず真太は息を飲んだ。フジならやりかねない。
「ま、お前は不倫だの浮気だの、そんな上級テクは無理な人種だ。仮に愛人ができても金をせしめられて終了だろうよ。ただ、嫁さんがお前とどうなりたいかは、確認しておく必要があるだろうなあ」
何だかんだ、友人が気にかけてくれていたことに真太は心が熱くなった。
ここ数日、あらゆる人間を巻き込んでいる。
真太は、本当に申し訳なく思った。
「女房も同級生に相談しているらしくてね」
「持つべきものは、何とやらだな」
「夢に出てきた白井くんも、この前会ったんだ。浮気しているって情報があって駆け付けたんだけど」
「可愛そうだな、その白井くんは」
「実際に気の毒だったよ。前髪が長くて細くて黒づくめで、声が低くて怪しい見た目だけど、本当に良い人だった」
次の瞬間、フジは飲んでいたコーラを盛大に吹き出した。フロントガラスにしぶきが飛んだ。
「な、何してんだよ!おれの車に!」
「いや、悪い……」
途端にフジが顔を押さえてうなだれた。肩は震え、時々咳き込んでいる。具合が悪くなってしまったのだろうか。
「おい、フジ……大丈夫か?」
「大丈夫だ。いや、大丈夫じゃない」
フジは、腹を抱えて笑っていた。
「そうかそうか。タンヤオの嫁さんの夢に出てきちゃった同級生は、あの白井くんだったのか」
その後、尚も友人は笑い続けた。
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