九月三十日(金)夜 シティホテル・メルザディレスト
連れてこられた場所が、都内でもハイクラスのホテルだと気付いた時、花恵から一切の酒気が飛んだ。
冷えた身体を、優しく抱えてジュンが耳元でささやく。
「心配しなくて大丈夫。旦那さんには、オレから伝えたから」
その言葉に、花恵は息が止まりそうになった。しかし、ジュンは気にすることもなく、エレベーターのボタンを押し、静かなフロアに花恵を連れて行く。
足音すらしない空間、ドアが開く音だけがやけに耳に響き渡った。
――。
もう、店には行かないと決めた。
もう、会えない。会わないと決めた。
そして、ジュンにはそう電話で伝えた。
すると、彼女は最後にお詫びしたいと言ってきた。クレセントではなく、違う店で二人で飲もうと誘ってきたのだ。
また、傷つけられるに決まっている。
それなのに、花恵は応じてしまった。
最後は笑顔で、綺麗に終わらせたかったのかもしれない。
あれだけ辛い目に遭っているのに、本当にどうかしている。
しかし、今日のジュンは花恵のそばを離れず、ずっと話し相手になってくれた。夫の話もしなかった。ずっと花恵だけを見つめてくれたのだ。
素直に幸せを感じた。
道理や倫理、常識に従うことを善とするなら、自分は悪だ。
どうして、幸せになることが悪なのか、まるでわからないけれど――。
ほんのり明るい部屋の窓からは、一面の夜景が幻想的に広がっている。その高さに目が眩みそうになった時、ジュンが後ろから抱きしめてきた。
「気に入った?」
「え?」
「花恵さんのために、用意したんだけど?」
振り返ろうとしても、まるでジュンがそれを許さないかのように、しっかりと身体を押さえ込まれている。花恵は、困惑しながら言った。
「こんな高そうな部屋とか……無茶よ。いくらしたの?」
「全然。オレの稼ぎ、舐めるなよ?」
突然、声のトーンが男のものとなり、花恵は心がざわついた。熱い吐息が首筋にかかる。
「ふふ、やっぱり可愛いね。男も女も、そうでなくちゃ」
今度は、無邪気な少女のような笑い声がする。花恵は、ジュンに翻弄されていることを改めて悟った。
「真ちゃ……だ、旦那は何て言ってたの?私がここにいること知ってるんでしょう?」
「うん。『あなたの奥様は飲み過ぎてしまって帰れないので、私が責任もって一晩面倒をみます』って伝えたんだ。そうしたら、お願いしますって」
花恵は、喉が張り付いたようになりながらも、必死に口を開いた。
「嘘よ」
「どうして?」
「何があっても、今までだって私を心配して迎えに来てくれたんだもの。それが、今になって……」
「へえ、ビックリだね」
ジュンは腕に力を込めた。
「花恵さんの言うとおり、嘘だよ」
耳たぶに軽く歯があたる。花恵は声が出るのを必死にこらえた。
「旦那さんはね、こう言ったよ。『女房に手を出すな』ってね」
「……」
「だからアタシも『もちろんですよ』って返しておいた」
その瞳はどこまでも意地悪く笑っていた。花恵は泣きそうになりながら、ジュンの腕にすがりついた。
「ねえ、どうしてこんなことするの?私たち夫婦を振り回して、何が楽しいのよ?」
「楽しくないよ」
ため息交じりに放たれた言葉に、花恵は一瞬耳を疑った。
それは、愚かにも自分が期待していた反応とは程遠かったからだ。
「楽しくないなら……何なのよ」
涙が溢れ出る。これを押し出す感情の正体がわからず、花恵は混乱した。
「だって、アンタたちってば、結局は心の繋がりがどうこうって、ごまかすんだもん」
ジュンは花恵の涙を指で拭いながら言った。
「アンタの旦那様ね、オレと関係持ってから怖くなっちゃったみたいでさ」
「え?」
花恵は耳鳴りがしたのかと思った。
「今、何て言ったの?」
「オレに『された』ことが、脅しに使われるんじゃないかって怖くなっちゃったみたいなんだよね。でも、嫁さんだって同じなんだから、そんな気にすることないって思ったんだけど、やっぱり真面目な人なんだね。夫婦生活に支障があるとか、将来がどうこうとか……そういう人間と、アタシは合わない」
花恵はジュンの男女入り混じる言葉が途中から耳に入らなくなっていた。
――されたこと?
「あ、あなた……真ちゃんと……」
「旦那様の名誉と花恵さんの心の安定のために言っておくよ。一方的に、こっちがしただけで、あの人は一回も腰を振ってないから。安価な風俗だと思ってよ」
花恵は思いっきり腕を振り上げ、ジュンを突き飛ばそうとした。しかし、そのまま抱きすくめられると、ベッドに押し倒された。
「は、離して!」
「言ったでしょ?もちろんですよ」
ジュンはあっさりと身を起こし、すぐ横に座った。
「気分が良くなるまで休んでいってよ。明日は休みでしょ?」
ジュンは枕元に備えられたアロマポットを炊き始めた。花恵は、自分が何をされているのかわからなくなり、ついに声を上げて泣き始めた。
「もう、イヤ。どうして、私にちょっかい出すのよ」
「それ、最初にも言ったと思うけど」
ジュンはいつもの意地悪い目で笑った。
「それでも店に通ってきたのはどちら様?放って置いて欲しかったわけ?」
花恵は無言で涙を流し続けた。ここまでされても、まだ、その華奢な手に触れられたいと思う自分に、惨めな気持ちになる。
「好きかどうか、わからないのよ」
「……そうだろうね。身体もホルモン系統も一応はお互い同じだしね」
「でも、ジュンのことを考えちゃうの。思い出しちゃうのよ。忘れようって必死になっても、ダメなの。真ちゃんが、あなたと連絡取っていることにも嫉妬したわ。私の方が先に知り合ったのに、仲良さそうにしないでって……もう、自分が狂っているとしか思えないのよ」
花恵はジュンを見つめた。
「おかしいでしょ?笑ってもいい。でも、もうやめにするから」
花恵が起き上がろうとした時、その肩をジュンが押さえつけた。
「言ったでしょう?アタシも、そのつもりでここに連れてきた」
「……」
「もう、終わり。花恵さんにはたくさん悲しい思いさせたし、申し訳ないって思ってるんだ。これは本当。だから、あなたが望むようにしてあげようと思ってね」
ゆっくりと身体が重なり合い、花恵はジュンの重みを全身で受け止めた。
「オレからは手を出さない。これは、旦那さんとの約束だからね。もし、花恵さんがイヤならそう言って。これで、最後にする」
アロマの香りと、ジュンの甘い香りが混ざり合う。
最後。
最後。
もう本当に――。
「ジュン」
「何?」
「旦那には、どこまでしたの?」
「……」
「旦那にしたことを私にもして。フェアじゃない」
ジュンは一瞬だけ切なそうな目をしたが、すぐに好戦的な色に変わった。
「やっぱり、アンタの方が旦那より一枚上手みたいだね」
反論しようとした唇を、ジュンが柔らかく塞いだ。その甘美な温もりに全身が泡立ちそうになる。息苦しさに口を開くと、滑らかな舌先が、花恵の前歯の裏をなぞり出した。
「んっ」
薄手のジャケットを肩から脱がされ、そのまま片手が背に回される。ワンピースのファスナーがゆっくり引き下ろされる感覚に、花恵は身をよじった。いつの間にか、自分もジュンの首に両腕を回し、自然と服が脱がされやすい体勢をとっている。ジュンは何も言わなかったが、顔はとても楽しそうに見えた。
素肌に触れたジュンの手が、あまりに冷たくて花恵は悲鳴を上げた。その冷たさに、いかに自分の身体が熱くなっているのか思い知らされているようだ。
下肢を緩やかに動く指先。
それだけじゃ、足りない。
花恵は自ら足を持ち上げ、ジュンを誘導する。
「花恵さん、悪い女だね」
そうよ。私は悪い女なの。
胸の先に落とされていた唇が、ゆっくりと腹をなぞっていく。
「あれだけ、みんなを心配させても、ついにアタシを選んでしまったんだ」
その言葉に戸惑いながら、花恵は快楽を求め続ける。ジュンは笑った。
「……大好き、花恵さん」
今、何て。
花恵が聞き返そうとすると、待ち焦がれていた感覚に次々と襲われ、たまらず悲鳴のような声を上げた。
涙が止まらない。
息が出来ない。
自分の身体が、別の生き物になったように、勝手にベッドをのた打ち回る。
「花恵さん、可愛いよ。好き。ずっと一緒にいたい」
本当?
「だから、最後まで一緒に……いてくれるよね」
ジュンの手が動きを止めた。
服のポケットから、何やら小瓶が取り出される。
「この淫らな身体に、刻み付けたいんだ……本当の快感を教えてあげる」
――。
小瓶の液体がキラキラとルームライトに反射する。
「最高だよ、花恵さん」
その顔には、柔らかで満ち足りた笑顔があった。
それが、花恵には狂気に映った。
「や、いや」
「……」
「ジュン、待って――それ、まさか」
「……」
満ち足りていたジュンの笑顔が、いつもの意地悪な笑みに変わっていた。
「……やっぱり、アンタもつまらない生き物なんだね」
指が、吐息が、熱が――すべてが花恵から離れていく。
「結局、もらうことばかり考えている贅沢でバカな女か。アンタも――」
オレには合わない、そう聞こえた。
それでもジュンは笑っていた。
それなのに、今はまるで花恵の心に沁み込んでこない。
あれだけ惹かれた、眼差しも笑顔も――。
「ひ、いや」
花恵の首に細い指が食い込む。その恐ろしい力に、悲鳴すら奪われる。
「本当、もうどうでも良くなる瞬間があるんだよ」
冷たかった指先が、今は燃えるように熱い。
その食い込んでくる力に、花恵は生まれて初めて恐怖を知った。
懸命に声を振り絞る。
「た、た、すけ」
「いいよ?その代わり」
ゆっくりと耳元でジュンが囁いた。
「……白井ってヤツの連絡先を教えて」
「……」
「アンタから聞き出さないと意味がないんだよ。それが、アイツを動かす鍵になるから」
「……そ、んな」
さらにジュンは両手で花恵の首を押し潰した。
この状況、すべてが冗談だと思っていた。
それでも、この熱と痛みは本物だ。
――ごめんなさい。
花恵の胸に沸き起こるのは、あらゆる者への懺悔だった。
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