十月一日(土)正午 白井土地家屋調査士事務所

 ハウスメーカーの担当と打ち合わせを終えて、白井は事務所に戻ってきた。最近になって、少しずつ新規の依頼が入るようになった相手なので、急な呼び出しにも対応できるようにしなくてはならない。その相手も、白井がまさか土曜日に仕事をしているとは思わなかったらしく、たいそう驚いていた。基本的に自営業に休みはないが、あと何年このペースが続けられるだろか。そんなことを考えつつ白井はパソコンに向かった。


 ほぼ同時、スマートホンが鳴る。


 液晶に映し出された名前に、ため息を吐きつつ応答した。

「……はい」

「麗華です。ごめんなさいね」

 唐突に謝られたことに、白井は困惑した。


 自分の声に棘があったか。


「あ、いや。平気です」

「白井さんは、土日も仕事だったわね。ちょっとだけ……良いかしら」

「はあ。何でしょう」

 麗華は小さな咳払いをすると、少しだけ声を潜めて言った。

「……覚えているかしら……イタリアンのお店でレジ打ちの女の子がいたでしょう」

「はあ」

 容易にその時の状況は思い出せた。


 しかし、当の少女の顔が曖昧だった。


 ――いや。


 曖昧なのは、夜のバーテンダーの姿もチラつくからだ。


 無言のままの白井に、麗華が少し笑うような声を立てた。

「ふふ、あの時に彼女が言ったことなら気にしないでいいのよ」

「え?」

「ううん……何でもないわ」

 小さなため息とともに、麗華が話を続ける。

「……私、あの後に色々と思い出したのよ。非常勤講師として教壇に立っていた時、生徒の女の子から、日本史の質問を受けて教えたりしたんだけど……その子から悩み相談を持ちかけられてね。好きな人がいるけど、どうしたら良いかわからないって」

「はあ」

「思春期によくある悩みだと思って、アタックしちゃえみたいなことを私は言ったのよね。駆け引きとかそういったものは、まだ覚える年齢じゃないから」


 一体、何の話だ。白井は少し億劫に感じてきた。


 構わず麗華が続ける。

「その頃から、頻繁に職員室に顔を出して、同じような話をしてくるの。普段はいつも一人でいるような子だったから、私も心配になって親身になっていたけど、結局は非常勤講師を辞めることになったから、そう彼女に伝えたのよ」


 気のせいか、麗華の声のトーンが落ちた。


「そうしたら……その子がね、こう言ったのよ。自分が好きな相手は……女なんだって」

「……」

「でも、男の子も気になるし、普通に考えたら、女の子はまずいよねって言われたのよ」

「……それは、また」

 電話の向こうで笑う声がする。

「結局、真相は聞き出せていないけど……彼女の想い人は私だったのかもね。だって、何年も前の……週に数回しか授業しない非常勤講師のことなんて普通は覚えてないでしょう?」

「……」

「女同士だから気にすることもなかったけど、確かに今思い起こせば、他の女の子とは距離感が違ったかもしれないわ。あと、眼差しも」

「ああ……」


 バー・クレセントで、あのバーテンダーが自分を挑発してきた理由がわかった。


 ――嫉妬、か。


 さらに面倒な気持ちが沸き起こりそうになり、白井はそれを強引に振り払いながら口を開いた。

「……麗華さんと久しぶりに再会した時……きっと色々と思ったことがあったんでしょう」

「そうね。でも、元気に働いているみたいだったし、安心したわ。それに、彼女だって、もう大人なんだから」

 白井は、逡巡しつつも、一つだけ疑問をぶつけた。

「あの……それで……僕はどうすれば。話を聞くだけで大丈夫ならいいんですけど」


 電話の相手が答えない。


 あまりに長い沈黙に、白井は要らぬことを言ったとにわかに慌てた。

「あの、麗……」

「白井さんは……私とあの男との一件……どう思っているの?」

 唐突な問いに、白井は身を固くした。


 あの男――麗華と不倫関係を持ち、子どもを身ごもらせた上にあっさりと捨てた人間。


「どう……って」

「きっと……私の『過去』のせいなのよね」

「……」

「そのせいで、あなたは私を……避けるのよね」


 その言葉を、白井は意外な気持ちで聞いた。


 今までそんなつもりは――。


 そう言葉が出そうになったが、ゆっくり飲み込んだ。


 ――違う。


 自分は確かに言った。


『こんな自分でよければ、いつでも相談に乗る』と。


 しかし、電話の向こうにいる女は、全く違う関わりを求めている。

 その求めに応えていないと、たった今ハッキリ言われたのだ。


 ――だから、避けているのと同じか。


 今まで、麗華との関係で深く考えることをしなかったのはなぜだ。


 それが、答えではないのか。


「……僕は……恋愛感情というものが、よくわかりません」

「……」

「貴女のような女性とこうして電話をしたり、一緒に食事をしたりすることがイヤだという強い気持ちもありませんが、特別に嬉しいと感じたこともありません」


 狭い部屋に、沈黙がじわりと染み込んでいく。


 電話の向こうでフッと息を吸う音がした。

「質問に答えて欲しいの。あなたはわたしの過去……」

「気の毒だとは思いました。でも、それだけです」


 白井は麗華の言葉を遮った。

 この時間を早く終わらせたかった。


 早く――麗華を断ち切りたかった。


「麗華さんは……相手が既婚者だと知りながら関係を持ったのでしょう?」

「……」

「そこで、貴女が身を引いていたら……僕もまた気持ちが違ったかもしれない」

「……」

「僕は自分が思った以上に傷つきやすいのを知っています。だから人を避けます。そして貴女は……不倫相手の家族を傷つけた」


 時計の秒針が聞こえてくる。

 何かが終わるカウントダウンのように。


「待って。私が騙されていたのは知っているでしょう?そもそも相手は自分の妻さえも大事なんかしていなかったのよ」

 わずかに麗華の声が上ずる。

「それなのに、そんな言い方するの?」

「だから、気の毒だとは思った、そう言いました」

「……」


 こめかみに、味わったことのない痛みが走る。


 白井はゆっくり息を吸い込んだ。

「僕は、相談相手になることは約束しましたが、恋人になるつもりはありません」


 どうして、最初にこの言葉を伝えなかったのだろう。


「僕は、貴女が立ち直った時点で、役目を終えているんです」


 どうして、再会した時に、心が揺れてしまったのだろう。


 ――ただ、怖かっただけ。


 気持ちを寄せた相手に裏切られることも。

 この憐れで美しい人を傷つけることも。


 ――もう、たくさんだ。


 白井は壁の一点をひたすら見つめ続けた。


 耳元で軽やかな笑い声がした。

「……もう、本当に……胸にグサッとくることをいつも平然と言うのね。相談に乗ってくれた時もそうだったわ」

「……はい」


「ふふ。だから、私は……あなたのことが好き『だった』のよ」


 程なくして、電話は切れた。

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