十月一日(土)午後 白井土地家屋調査士事務所
丹波真太は、助手席のフジに言われるまま、延々と車を走らせた。
目的地の建物に到着するや、元クラスメートは呼び出しのチャイムを押すと、なぜか楽しそうに微笑みながら、真太をドア口から少し離れた場所に追いやった。
しばらくして、ドアが静かに開き、部屋の主の声が聞こえてくる。
「あ……フジさん」
その聞き覚えのある綺麗な低音、真太は声を上げそうになる。
――あれ、まさか。
「よう、シロップ」
片手で軽く挨拶をするフジに、部屋の主――白井が咳払いをした。
「あの、リナさんからの新築建物の件ですよね?フジさんも、手続きに関わっているんでしょう?打ち合わせでしたら、少し待ってもらえますか」
「ああ、いずれな。ただ、今はそれに関しては」
どうでもいい、フジはそう言った。
その途端、白井の声に動揺が滲む。
「今……何て。どうでも良いって言ったんですか?仕事の権化のフジさんが……」
――フジ……そこまでして、おれのことを。
真太は、初めて級友の優しさに触れた気がした。胸が熱くなる。
そこで、いきなりフジは真太の腕を引っ張った。
その力に思わず声を上げそうになる。
フジが、憂えた表情を見せた。
「大変なことになってるんだよ、俺の友だち」
そして、熱い眼差しを白井に向けた。
「ついでに……お前もな」
――。
フジの秀麗な顔に、徐々に意地悪な笑みが浮かぶと、白井が勢いよくドアを閉めようとした。そこへ、フジはすかさず大きな書類鞄を挟み込み、両手でドアノブを押さえつけた。
「手伝えよ、シロップ。さもないと、お前……また謀略に引きずり込まれるぞ」
「謀略の化身が何をおっしゃっているんですか。お二人が友だち同士の時点で、僕はもう罠に堕ちた気分ですよ」
すべてを察した真太もドア口にすがりついた。
「ま、待ってください!おれもフジと白井さんが知り合いなんて、たった今知ったんです!何も企んじゃいませんよ!それより、妻……花恵から連絡はないですか?他の誰にも連絡がないんです!何かご存知ないですか?」
「……はあ」
白井は首を横に振ると、うなだれるように口を開いた。
「……申し訳ないですが、僕はもう……誰の力にもなれません」
いつもの穏やかな低い声が憔悴している。どこか思いつめたような空気に、真太は息を飲んだ。
しかし。
フジは強引に部屋の中に踏み入った。
「お、おい。フジ!」
「気にするな、タンヤオ。この前髪男は、だいたい毎日憑りつかれたような顔をしてるんだ」
フジは白井の前髪を引っ掴むと、その顔を露わにした。
――。
青白く透き通った頬。静かな湖面のような、切れ長の瞳。長いまつ毛。
真太は思わず、見入ってしまった。
――美人、だ。
白井はフジの手を払うと、前髪を戻しながら、ため息を吐いた。
「……本当に、勘弁してください。僕はもう」
「ああ、茶は要らんよ。客じゃないからな」
「……相変わらず話を聞かない人ですね」
珍しく、白井の声に怒気がこもる。しかし、フジは一向に気にする様子もなく、ソファに腰をかけた。
「シロップ、お前ってば、タンヤオの嫁さんに何をしたんだ?」
なぜか楽しそうなフジに、白井は無表情で応じた。
「……これといって、何も。ただ、話を聞いてあげただけです」
「だろうな。つまらん」
小柄で秀麗な顔をした男は本当につまらなそうにため息をついた。それを見て真太は思わず声を上げた。
「こら、フジ!白井さんに何てことを言うんだ。この人は、花恵の悩みを聞いてくれたありがたい人なんだ」
「少なくとも、俺はお前なんかよりもこの白黒男の慎ましい生態は知っているさ」
フジが淡々とした口調で語ると、白井がため息を吐いた。先ほどから、どこか張りつめた雰囲気の白井に、真太は閉口した。以前に会った時も暗く陰鬱ではあったが、それでも多少は穏やかだった気がする。
「あの……白井さん……」
「丹波さん。こちらに、奥様がいらっしゃるとでも思ったのなら、期待に添えず申し訳ないです」
すると、フジが意地悪な笑みを浮かべた。
「シロップ、そのあからさまな不機嫌な態度は何だよ?本当はクロじゃないのか?白いくせに」
「……冗談じゃありませんよ」
「じゃあ別件で何かあったのかな?」
「……そんなこと」
「まあ……お前にはちょっと酷な状況かもなぁ。あそこまでされたら困るよな」
突然のフジの発言に、真太はいぶかしんだ。
しかし、白井はフジをじっと見つめている。
それを受けて、眠そうな級友の笑みが少し柔らかくなった。
「さっき、そこの交差点で信号待ちしている時、どこかで見たことがあるホステスがいた」
――ホステス?
何の話だ。
さすがに真太はフジに食いついた。
「おい、おれの話が済んでないんだけど」
「なあ、シロップ」
級友は完全に真太を無視し、白井を見つめた。
その声色、真太に対するものとは少し違う。友人というより、弟に言い聞かせるような、不思議な優しさがあった。
気のせいか、白井をまとう張り詰めた空気が消えるように思えた。
――そのホステスと……何かあったのかな。
真太は、白井にも重たい事情があるのだと察した。
フジが呆れたような笑みを浮かべて、うなだれたままの黒服の男に言った。
「お前がそこまで心配しなくても、ケロッとしていたぞ。あの女」
「……」
「どんなやり取りがあったか知らんが、アレはお前を翻弄して、優しく構って欲しいだけだ」
「……」
「本当に失いたくない大事な相手なら、一定の距離を置くもんだ。少なくとも張り込みなんかしない。他にも、何か小細工を使って接近されたりしなかったか?」
そこで、白井がうなだれたまま口を開いた。
「リナさんの新築建物の書類を……あの人が持ってきました」
すると、フジが勝ち誇ったようにうなずいた。
「そうだろうよ。何しろ俺の入れ知恵だからな」
――。
時計の秒針が聞こえるほど部屋が静まり返った。
「フジさん」
「おい、フジ」
詳しい内情はわからないが、話の展開と級友の仕打ちの酷さはよくわかった。
「お前……白井さんに何てことを……」
「俺はクライアントに『調査士の白井さんと接点を持つにはどうしたら良いか』と聞かれたから『書類のデリバリーが手っ取り早いですよ』と伝えただけだ。すでにあの女どもはそういう結託があったんだろうよ」
「……」
「その行動を可愛いと思うのか、怖いと思うのか、決めて良いのはシロップだ。お前のことだ、戸惑った挙句に相手の真意がわからなくて煩わしく思っただろう?」
白井はうなだれたまま、小声でつぶやいた。
「……僕には、どう対処したら良いかわからなくて」
「お前は無駄に優しいから、あれこれ想像しつつ、相手の気持ちを汲もうとして思い悩んでいるんだろうが、あの女は代理で書類を持って来ただけで、その真意なんか放っておけば良いんだよ」
「……避けている、そうまで言われました」
「当たり前に決まっているだろ。お前は本気じゃないんだから」
白井がそこで初めて顔を上げた。
「フジさん」
「相手からぶつけられた気持ちの反動で、自分も好きなのかもしれないと勘違いして失敗する輩はウジャウジャいるからな。本当に大切で本当に想いが募る相手というのは、明らかに気持ちが違うもんだ。お前のそれはただの強迫観念と罪悪感。相手にも失礼だから、とっとと忘れろ」
フジはそこまで言い切ると、ソファにドカッと座った。
「さて、俺のカウンセリングは役に立ったな?だから、今度はお前が役に立てよ、シロップ」
フジは白井の返答を待たずに、真太に向き直った。
「話を整理するぞ。いつから、嫁さんと連絡が取れないんだ?」
すると、白井が観念したようにソファに腰を鎮めた。まだ少しだけ張り詰めたものがあったが、先ほどよりはだいぶ落ち着いたようだった。
そして、真太に向かって小さく頭を垂れた。
「すみません……」
そこには、多くの意味が含まれているように思えた。下手に気を遣うより、ここは、自分の用向きを伝えることが、逆に良いように感じた。
真太も背筋を伸ばし、呼吸を整える。
「あの、こちらこそ突然すみません。実は、昨日……仕事に出てからずっと、妻が帰ってきていなくて」
朝の玄関でゴミ出しを頼んできた花恵の姿が思い出された。
ようやく、平穏な生活が取り戻せると思っていたのに。
真太は片手で顔を覆うと、押し殺した声で言った。
「最初に喧嘩をしてアイツが家を出た時、少し荷物を持っていったにせよ、スマートホンの呼び出し音は鳴ったんです。でも、今回は一切着替えも何も持って行ってないし、スマートホンも繋がらなくて。あれ以来、お互いに腹を探り合うような感じだったけど、会話もしたし、喧嘩もしてないんです。だから、修復するチャンスだと思っていたのに……」
咄嗟に、真太の脳裏には、ありとあらゆる最悪な情景が浮かぶ。
つい、フジにすがりついてしまった。
「な、なあ。もしかして、何かヤバいことに巻き込まれたんじゃないかな……」
「まあ、落ち着けってば。だから、こうして情報収集に付き合ってるんだろうが。お前が知っていること、全部話せよ」
その秀麗な顔に楽しげな笑みが浮かぶ。
「特に、バーで起きていることについて、な」
――。
思わず、言葉を飲み込む。
あの女のことを、白井に聞かせるわけには――。
「……バーというのは……クレセントのことですか」
白井が表情一つ変えずに言った。
真太は震えながら、白井を見つめた。
「し、白井さん……知っているんですか……」
「はあ。バー・クレセントは、僕のクライアントが働いていまして。僕自身も、その……あそこで飲んだことはあります」
「いや、あの、そうじゃなく」
――何だよ、そうじゃないって。
自分の発言に今さながら口を覆うが、白井はほんの少しばかり首をかしげて口を開いた。
「……お話の続きを」
それが、何かの助け舟のように思えた。
いや、むしろ引導かもしれない。
真太は、慌てて取り繕った。
「女房は、そのバー・クレセントに通い始めて……。昨日の夜、また店で飲んだのか、酔っ払って帰れなくなったって連絡があって」
「それは、誰からなんだ?」
「どちらが連絡してきたんですか」
フジと白井が、ほぼ同時、間髪入れずに問いただしてきた。
妙な連携に、真太は息が詰まった。
しかし、その時、突然フジが腹を抱えるようにして、笑い出した。
「かかったな、シロップ」
――。
「どちら、か。何で二人限定なんだよ。店には他にも従業員がいるし、こいつの嫁さんだって、他に友だち連れていたかもしれないだろうが」
みるみる白井の顔が歪んできた。それを勝ち誇った顔でフジが見つめ返した。
「やっぱりクロだな。おい、タンヤオ。この前髪くんは、嫁さんとバーテンちゃんの関係を知っているぞ」
すかさず、白井は首をブンブンと横に振った。
「……守秘義務があります」
その心苦しそうな表情、真太の胸にチクリと刺さった。
しかし、次のフジの言葉で、その胸が完全に押し潰された。
「気にするな、シロップ。一番のクロは、たぶんこのダメ亭主だよ」
「……え」
――。
「な、何を言ってるんだ、フジ」
「こら、タンヤオ。お前に連絡したのが誰だろうと、どっちだろうと関係ないんだよ。お前、何で嫁さんを迎えに行かなかった?」
――。
白井の低い声が、わずかに動揺した。
「確かに……連絡があったなら、その時に居場所を確認できたはずです」
――。
さらに、級友が大きく頷いた。
「シロップの言うとおりだ。何かおかしいんだよ、この一連のイザコザは」
フジが呆れかえったように言うと、すぐさま口をひん曲げて笑った。
「女は怖いねえ。タンヤオ、お前心当たりあるだろう?」
その瞬間、真太は雷に打たれたかのように、身を硬直させた。
恐る恐るフジを見つめ返す。
「こ、心当たり……って?」
「ま、あろうとなかろうと俺の知ったことじゃないけどな。ただ、級友を見捨てるほど薄情ではないから、安心しろ」
情に厚いとは思えないことを言いながら、フジは白井に向き直った。
「何が守秘義務だよ。シロップは、確実にクレセントのバーテンちゃんに会っている」
真太と白井が口を開くより先に、フジが畳み掛けるように言葉を続ける。
「今朝、俺が追加書類をもらいに行ったときに、クレセントのマスターが言ってたからな。だいたい会ったくらいで守秘義務が発動するかよ。お前、下手したらタンヤオの嫁さんから全部打ち明けられたんじゃないか?そうじゃなかったら、優しいお前が協力拒否するわけないもんな」
「う……」
完全にフジのペースだった。秀麗な男は尚も話を続けた。
「で、そのマスターの話だと、どうもバーテンちゃんは、昨日の晩……体調不良で欠勤したらしいんだ」
――。
それには、声を上げずにはいられなかった。
「嘘だろう?昨日の夜、花恵は飲み過ぎて、それでジュンが一晩面倒を見るって言ったんだぞ?」
「タンヤオもかかったな。あっさり白状しやがった」
その秀麗な顔に、好戦的な色が浮かぶ。
「俺は一言も『嫁さんがバーテンちゃんの店で飲んだ』とは言ってないだろうが。そもそも、酔っ払った嫁さんと話もしていないのに、その思い込みと信頼はどこから来るんだよ。タンヤオ、あえて聞くが、バーテンちゃんを怒らせるような心当たりはないか?」
藤石が声を上げて笑うと、白井がため息交じりに、小柄な級友を非難した。
「フジさんは友達にもそんな冷たいのですか」
「も、とは何だ。シロップといい、タンヤオといい、女相手にウジウジしやがって腹が立つったらありゃしないね。俺は気休めの綺麗ごとが嫌いなだけだよ。本当に嫁さんが心配なら、何が何でも迎えに行けば良かったんだ。それを、こいつはしなかった。どうせ、いやらしい迷いがあったんだろうな」
――。
もう、コイツは何もかもわかっているんだ。
真太はうなだれながら、小さな声で言った。
「そうだよ、フジ。おれも、ジュンに嫌われたくなかったんだ。余計なことをして、アイツに愛想を尽かされるのが怖かったんだ。変だろう?」
「……え」
白井が口を開けたまま硬直した。
「夫婦そろって……ですか」
困惑する黒服の男をよそに、フジは笑い出した。
「素直で大変よろしい。しかし、新婚夫婦を手玉に取る女って、どれほどのものなんだろうなあ。俺も会ってみたいぞ。お前ら、案内しろ」
「は?」
白井と同時に、真太も間の抜けた声を出した。
「おい、フジ……お前何を考えてるんだ」
「俺もお相手を願おうと考えている。楽しそうじゃないか」
「フジさん、こちらの奥さんが危ない目に遭ってるかもしれないんですよ?そっちが先ではないでしょうか?」
「なるほど、シロップはやはり良いヤツだな。タンヤオ、聞いたか?今ようやく、白井先生がお前の嫁さん探しに協力してくれると宣言したぞ」
フジの目が怪しく光った気がした。白井は、ついに自分が嵌められたことに気づいたようで、そのまま天を仰いだ。
しかし、真太はすがる想いで白井の手を強く握った。
「どうかお願いします!花恵はあなたなら信頼していると思うんです。どうか力を……」
「はあ。しかし、スマートホンがつながらないならどうしようもないのでは……」
困惑する白井の前で、真太は自分が泣きそうになっていることに気づいた。
――どれだけ多くの人間を巻き込めば気が済むんだ。
こんな夫婦間の情けない問題、自分一人で解決することもできない。
それどころか、すべて自分が招きよせた、因果ではないか。
白井が小さく息を吐いた。
「……僕が知っていることは、少ないですが……そのバーテンダーさんは、昼間はイタリアンの店でアルバイトをしていました。確か、ポロとかいう名前だったような」
「白井さん……」
「起きたことは仕方ありません。これからどうするかを考えましょう……」
お互いに、小さくそう聞こえた気がした。
真太は急いでスマートホンの端末で店の場所を調べ始めた。
「ポロという店の近くに、国道が走ってる。その先にポプラ公園があるんだ。大きな駐車場があって……さらに進んだところにある歩道橋を渡って、横道に入ると、クレセントがある繁華街の近くに出るんだ」
フジは楽しそうな目で言った。
「それじゃあ、そのイタリアンから聞き込み始めますかね」
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