九月二十六日(月)昼間 白井土地家屋調査士事務所
長身の親友が訪ねてくるたびに、狭い事務所がさらに狭く感じる。その親友――宇佐見一正は小さなソファにその長身を横たえてあくびをした。
「ヒマそうだね、アサトくん」
「ウサさんもね」
「オレは巨大な案件を片付けたばかりなのよ。しばらくは、楽ちんさせてもらうんだ」
要は暇だからこうしてサボりに来ているのだろう。とはいえ、追い返すほど白井も忙しいわけではないし、事前に聞いた用向きから、来訪を受け入れたのだった。
「ウサさん、それで……渡したいものって何?」
「これ」
宇佐見は持ってきた紙袋をそのまま差し出した。中には、トランプやらビンゴゲームのカードやら、クラッカーの残りカスやら、よくわからないものがたくさん入っていた。
「ああ、同窓会の時の……か」
白井は紙袋の中から細長い箱を手に取った。そこに『白井くんへ』というシールが貼ってある。中には、黒のボールペンが入っていた。
「記念品だよ。アサトも会費を払ったから、幹事くんが渡して欲しいって」
「そうか。ありがとう」
白井はボールペンを胸ポケットにしまうと、紙袋を宇佐見に突っ返した。異国顔の弁護士は頬を膨らませる。
「あれれ、ちゃんと見てくれた?」
「ちゃんと見たよ。だから返す」
そもそも、パーティー道具の残骸を持ってくる意味がわからないが、それを聞く気にもならない。級友の行動を理解するのは、かなり昔に諦めていた。
「見てないでしょうに。ほれほれ」
宇佐見は紙袋の底から、小さなアルバムを取り出した。一枚目には、かなり歳を食った元担任の姿がある。それと、見覚えのあるクラスメートの顔が次々と現れた。
「――懐かしいね」
白井はとりあえずこう言った。実際、心から懐かしいとは思ったが、それは再会を喜んでのものではない。ほとんどの人間とは会話をしたこともないのだ。
白井は、自分の十代の頃を思い出すのが好きではなかった。
ここに写っている多くの人間は、自分を避けていたことなど覚えていないのだろう。大人になって、社交辞令というものを学んだ今だからこそ、相手も、もちろん自分もこういう集まりに対して適切な対応をしただけなのだ。
しかし、そんなクラスメートの中には、自分と話し相手になってくれた者もいる。この宇佐見もそうだが、確か二人くらい――。
「これ、カニちゃん」
宇佐見が指さしたところに、ジョッキを片手に笑う女性が写っている。気の強そうな顔立ちは、大人になっても変わらない。
「蟹江理沙さん……だっけ。歌が上手い人だったよね」
「この時も歌ってたよ。校歌をゴスペル風に」
白井は、それが容易に想像がついておかしくなった。誰とでもわけへだてなく接する彼女は、白井にも普通に接してくれた。自分の声を褒めてくれたことも、思い出す。
「カニさんと仲良かった人は、誰だっけ。ここにはいないのかな」
もう一人、白井の話し相手になってくれた人物がいたはずだ。最後の学期で隣同士になっただけだが、英語の文法を教えた記憶がある。
「ハナマルちゃんでしょ?ここには来てなかったんだよ。色々あるみたいで」
「ハナマルさん……円山花恵さんか。思い出した」
今思えば、すごいニックネームだ。しかし、真面目で一生懸命な女子生徒だったのは確かだ。宇佐見はアルバムを自分のバッグにしまうと、紙袋はまるごとゴミ箱に捨てた。
「ただ実はね、同窓会の後にハナマルちゃんとは再会したんだよ。カニちゃんが呼び出されてねえ。そりゃ、もう深刻な事件があってさ。オレも緊急出動よ」
「深刻な事件?」
白井は、ゴミ箱に捨てられた紙袋を案じつつも、宇佐見の話を聞くことにした。どうやら、真の用向きはこっちのようだ。
「まあ、アサトくんに相談しても意味ないと思うけどね。新婚夫婦の悩みってやつ?」
「確かに……僕に相談しても意味はないね」
「最初はね、よくある倦怠期だと思ったわけよ」
「はあ」
「ところが、今朝になってカニちゃんからメールが来てさ。ハナマルちゃんは、ご主人と烈火のごとく喧嘩をして、家出してきたらしいわけ」
「はあ……」
「ご主人が、新婚夫婦の夜の営みについて赤裸々に男友達に話したことが、原因みたいでさ。ハナマルちゃんったら、相当飲みまくったらしいのよ。あんな真面目で大人しい子がねえ。おまけに、バーにスマートホンまで忘れて、それを取りに行って帰ってきた時は放心状態だったんだって。たぶん、電話で旦那ともう一回バトルしたんじゃないかなあ」
宇佐見の説明はかいつまみ過ぎてよくわからないが、友人の蟹江理沙に説明を求めても似たような答えなのだろう。所詮は、当人たちにしかわからないことの方が多いのだ。
「カニちゃん自身もね、旦那の悪口とか言わせて発散させれば、落ち着くかと思ったらしいんだわ。でも、ハナマルちゃんは部屋に戻るや、そのまま寝てしまったらしい。泣いている様子もなく、ただ顔が赤くて具合が悪そうだったからカニちゃんもそっとしておいたみたいだけどね」
「それで、ハナマルさんは、今日は……」
「普通に仕事に行ったらしいよ。自分の家に帰るのか、またカニちゃんの部屋に戻るのかはわからないけどね。いや、本当に離婚訴訟とかになったら、オレも困るなあ。同級生から金を取るのもねえ」
「そんな。いくら何でもそれはないと思うけど」
白井がため息を吐くと、異国顔の級友は腕を組んで言った。
「実はさ……オレ、この前会った時は、ハナマルちゃんを不安にさせないように大丈夫なんて言ったけど、意外に新婚夫婦の離婚は多いんだよ。一緒に生活をしてどうしても耐えられないことがあると、この先の人生に自信を持てなくなるんだ。今なら、リセットしても深手にはならないって頭が働くと、まあ止められないね」
弁護士の言葉はやはり重く感じた。同級生で、そういう話題が出るのは、何とも言えない気持ちになる。最初は面白おかしく話しているのかと思ったが、宇佐見なりに心配しているのはよくわかった。
「それで、カニちゃん一人だとハナマルちゃんを助けられないから、彼女の相談に乗って欲しいって頼まれたわけ」
「確かに、ウサさんは適任だと思うよ」
何だかんだ、この弁護士は女性の扱いはお手の物なのだ。少し、そのお手が度を過ぎることがあって心配ではあるが。
「何を言ってるんだい。アサトくんが頼まれたんだっての」
「え」
「高校時代に、ハナマルちゃんの面倒をよく見てたらしいじゃん。カニちゃんが言ってた」
「面倒って……英文法を教えただけだよ」
「いずれにしても、何の事情も知らない根暗なアサトが、相談相手になれば、ハナマルちゃんから新たな情報が聞けるかもしれないって考えたわけよ。カニちゃんもオレも、ある程度事情を知ってるから、ハナマルちゃんもかえって話しづらくなっている可能性もあるしね」
――。
白井は、一段と声のトーンを落として言った。
「悪いけど、僕には荷が重いよ。他人の人生に、口出しするつもりはないから」
しかし、宇佐見は笑みを浮かべたまま白井を見つめて言った。
「そう言うと思った。そのまま、カニちゃんには伝えておこう」
あっさり引き下がる宇佐見に、少し肩透かしを喰らった心地になる。いぶかしむ白井に向かって、宇佐見は楽しそうに言った。
「結局、堅物お化けのアサトくんには無理な話なんだよね。やはり、ここはオレが本気を出すしかないな。冷え切った夫婦に必要なもの、それはサプライズとパッションだよ。下着の選び方から、アプローチの仕方まで完全プロデュースしてあげなくてはならないな。今日からオレの部屋に泊まってもらうとしよう」
「なっ」
「それで間違いがあっても、亭主に支払う慰謝料なんて微々たるものだしね。キャッシュで二、三百万とプラス菓子折りでもつければいいかな」
この男なら、やりかねない。
白井は悩みぬいた挙句、こう言った。
「……わかった。次にみんなが集まる時があったら、僕も立ち会うよ……」
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