九月二十五日(日)夜 バー・クレセント
三杯目のジン・フィズを飲み終えたところで、花恵の目から涙が溢れだした。友人のカニは、それを見て大きくため息を吐く。
「まったく、何してんのよ……アンタたち夫婦は」
その憐みと蔑みが含まれた笑い方に、花恵は愚痴を聞いてもらう立場も忘れて声を荒らげた。
「私が悪いわけ?違うでしょ?確かに、結婚して一年経てば、色々と揉め事が起きるとは思っていたけど、夫婦のキスとかセックスとかの話題を、よりによって男友達に話すヤツがいる?」
「それだけ旦那が傷ついたんじゃないの?誰かに相談に乗って欲しかったのは、アンタも同じじゃないの。キスの上達方法を伝授してもらってたのかもよ」
酔って楽しそうに笑うカニに、花恵は噛みついた。
「変なこと言わないで!私は、誰だかも知らない相手に、裸を想像されてるようなものなのよ!今頃、笑いものになっているに決まっているわ!」
「考え過ぎよ」
カニは、頭が痛そうな顔をした。
「だいたい、アンタたちは海外挙式で誰も招待してないはずでしょう?みんな花嫁の顔なんか知らないってば」
「でも御祝はもらったし……写真付きの年賀状だって送ったわ」
「いちいち覚えてないわよ。同じようなハガキ、何枚送られてくると思ってんのさ」
呆れたように笑うカニを恨めしく思いながら、花恵はカウンターテーブルに突っ伏した。
「今日は帰らないって決めた。絶対に、帰ってやらない」
「はいはい。そのつもりで、アタシの部屋に転がり込んで来たんだもんね」
――。
今さらながら、花恵は友人の部屋に駆け込んだことが恥ずかしくなった。しかし、カニは大泣きする自分を飲みに連れ出してくれたのだ。
花恵は、突っ伏したまま小さくつぶやいた。
「ごめん、迷惑だよね」
「家のことを代わりにしてくれるなら、助かるんだけどなあ」
「もちろん、やるわ。カニちゃんの方が仕事も忙しいし」
「ま、どうせすぐに寂しくなって、愛しい旦那様の元に帰るでしょうけどね」
意地悪く笑った友人だったが、その口調は優しさに満ちていた。活発で頼りがいのあった少女時代と何も変わらない。花恵はもう一度、カニに礼を言った。
その時、ふいに若い男の声がした。
「……お客様。具合が悪いのですか?」
顔を上げれば、茶髪のバーテンダーがこちらを見つめている。花恵は慌てて跳ね起きた。
「い、いいえ。大丈夫です」
「ああ、良かった」
柔らかい照明に照らされたその顔は、まだ少年のようだった。切れ長の目と薄い唇がやけに色っぽい。
「お兄さん、聞いてよ。この子ったら、まだ独身のアタシに新婚夫婦の悩み相談なんか持ちかけてくるのよ?知ったこっちゃないわよねえ」
すると、若いバーテンダーは小さく笑みを浮かべた。
「こちらにいらっしゃるお客様の中には、同じようなことを吐露される方が結構多いですよ。私も聞き役にしかなれませんけれど」
「お兄さんみたいなイケメンにだったら、私も何でも相談しちゃうかも。じゃあさ、とりあえずこの子はどうしたら良いと思う?」
バーテンダーは真っ直ぐに花恵を見つめた。
「いっそ、別れてしまうとか」
予想外の言葉に花恵もカニも目を丸くした。それを見るや、カウンター内の少年は頭を垂れた。
「冗談です。でも、そのカードを切る決心がないなら、大した問題ではない気もいたしますが?」
カニが声を上げて笑った。
「やだ、お兄さんってば、客をビックリさせてどうすんのよ。真顔で言うんだもん」
「申し訳ありません。幸せそうで、妬いてしまいました」
軽く口をとがらせ、すぐにバーテンダーは笑顔を作った。その可愛らしさに、花恵もカニも笑ってしまった。再び頭を垂れると、若いバーテンダーはその場を離れていった。
「彼の言うとおりよ。アンタの悩みは幸せゆえに起こった問題だもん」
「そうなのかな……」
「旦那に愛されているってことじゃないの。浮気されるよりマシでしょうよ」
花恵はどうも腑に落ちなかった。しかし、話せば話すほど、友人に対して申し訳なく思うのは確かだ。自分が抱いているのは、怒りなのか羞恥なのかよくわからくなってきた。
カニが小さくあくびをしながら言った。
「さ、そろそろ帰るよ。明日も早いからね」
友人のマンションに帰宅後、用意してくれた寝床に入ろうとした時に、花恵はスマートホンがバッグに入っていないことに気づいた。探し回った挙句、先ほどのバーに置き忘れたということを確信するや、花恵はフェイスマスクをしている友人を横目に、再び出かける準備をした。
「明日の仕事帰りじゃダメなの?もう、十一時過ぎてるわよ」
「でも、仕事でも使うし……」
「とりあえず、忘れ物が届いているか店に電話してみなよ」
友人は自分のスマートホンを手渡してきた。その冷静さに感謝しつつ、花恵はバーの領収書から、電話番号をあたってみた。数回のコールで応対したのは、若い男の声だった。花恵が用向きを伝えると、確かに洗面所に置いてあったスマートホンが届けられているという答えが返ってきた。
「あ、あの。今から行きます!」
花恵は暗い夜道に駆け出した。
再び店の前に辿り着くと、花恵はうっすら汗ばんだ首元を袖口で拭い、乱れた呼吸を整えた。 まだ少し若さに自信があるとはいえ、さすがに全速力は身体に堪える。
――ホント、私ったらどうしようもないわ。
バーの中には、さっきまでと同じ客も何組か残っていた。花恵たちが座っていた席には、少し年配の男女がいる。花恵がカウンターの中にいた恰幅の良い男に声をかけた時、そのタイミングでさっきの若いバーテンダーがバックルームから出てきた。仕事を終えた後なのか、制服ではなくゆったりとしたパーカーを着ている。
右手には、花恵のスマートホンが握られていた。
「あ」
花恵に気づくと、男は差し出して言った。
「何度か、着信があったようですよ」
「え、本当に?」
きっと、夫が心配して電話してきたに違いない。しかし、かけ直そうという気にはなれなかった。どうしても、心の中で許せない自分がいる。
若いバーテンダーは時計を見ると、花恵に声をかけた。
「送りましょうか」
「え?」
「この辺、酔っ払い多いから。危ないよ」
さっきより、口調が砕けて感じるのは、仕事を終えた後だからだろうか。
「ありがとうございます。でも……」
「今日は、さっきのお友達の家に帰るんでしたっけ。何かあった時に、心配するのは友達だと思いますけど」
確かにそのとおりだ。花恵はバーテンダーに途中まで送ってもらうことにした。店を出ると、若者たちの騒ぎ声や、酔っ払いの怒声が聞こえてきた。さっきまでは気にならなかったが、今は少し怖い。
前を進むバーテンダーがチラリと花恵を見た。
「電車で来たの?」
「あ、違います。西通りの方……」
「何だ。近くなのか」
突然、腕が引っ張られた。
バーテンダーが脇道に入っていく。
「西通りなら、こっちが近い」
花恵の腕を引く手は思いのほか華奢だった。その横顔は、なめらかな陶器のようで、少し危うげな美しさがある。ネオンのせいかもしれない。
大通りの歩道橋を渡る途中、若いバーテンダーが花恵を振り向いた。
「ジン・フィズ好きなの?」
「え?」
「そればっかり飲んでたから」
「あ、ああ」
そういえばそうだったかもしれない。
「今度、ジュンの紹介って言ってくれたらサービスします。また飲みに来てください。他におすすめもあるし。それと、愚痴も惚気も聞くから」
少し意地悪そうに笑うと、ジュンは花恵の頭を軽く叩いた。
その行いは、あまりに自然で、あまりに新鮮だった。
花恵が立ち尽くしていると、ジュンはその顔を覗き込んだ。
「わ、お肌がカッサカサ」
細い指が花恵の頬に触れた。
「お姉さん、新婚なのに枯れそうな顔してる。さっきの話も……旦那と何が満足できないの?」
ジュンの声になぜか苦しさを感じた。花恵の胸が大きく、強く波を打つ。
「愛されているのにワガママ。本当、贅沢だね。嫌いじゃないけど」
次の瞬間、甘い香りが花恵を包み込んだ。
――。
目の前にあるのは。
パーカーの襟口からのぞく首筋と、うっすら浮かぶ鎖骨のライン。
花恵の手首を優しく掴んで、ジュンは耳元でささやいた。
「子どもみたいに何か欲しがっている時の女の人って、本当に可愛いんだよね」
そのくすぐったい形容詞だけが、やたらと耳に残った。
叩きつけるような――鼓動。
そこへ、小さなバッグから、締め付けられるような震えが伝わってきた。
――。
花恵のスマートホンが唸り声を上げている。
一瞬、そっちに気を取られた時、花恵の目尻に何か柔らかい感触があった。
ほぼ同時に、ジュンの身体が離れる。
「でも、せめて連絡くらいしてあげたらどう?おせっかいかもしれないけど」
背中を向けたまま放たれた言葉。
花恵は、あの甘い香りと目尻の感触が、一向に消えていかないことに、泣きそうになった。
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