九月二十五日(日)早朝 ロイヤルガーデン緑ヶ丘 四〇一号室
真太は、ゆっくりと部屋の鍵を回した。それでも、無機質な音は部屋中に響いたことだろう。意を決してドアを開けると、人の気配はなかった。脱ぎ捨てた部屋着は、昨晩と同じ場所にへばりついている。
結局、級友たちと別れた後、家に帰る決心がつかないまま、インターネットカフェで一晩を過ごした。その間にも、妻から連絡があるのではないかと期待したものの、一向にその気配もなく、悶々としながらゲームやビデオに興じていた。
――まさか、本当に出て行ってしまったとは。
部屋着を拾い上げ、洗濯機の中に放り込む。昨日の今頃は、洗濯物をたたんでいた妻の姿がすぐそこにあった。今は、弱い日の光がボンヤリと差し込んでいるだけだ。
「……ごめん」
言えるじゃないか。
「……ハナ、ごめんな」
その時、寝室から目覚ましの音が聞こえてきた。真太は心臓が破れんばかりに驚いたが、その音が三秒ほどで止んだことに、不審に思った。
――。
恐る恐る寝室のドアから覗き込むと、出て行ったままの恰好で、妻がうつぶせでベッドに倒れていた。
右手は目覚まし時計をわしづかみにし、左手は奇妙にねじれている。大きく背中が上下している様子から、完全に眠りこけているのが見て取れた。
真太は、花恵が帰ってきてくれたことに胸を撫で下ろし、静かに一歩、足を進める。
「し、ら……いくん」
その時、かすかな囁き声でそう聞こえた。
妻の頬に唇を寄せようとした真太は、その単語に思わず後ずさりをした。
――おれか?
違う、自分は『真ちゃん』だ。
シライくん。
――誰だ、それ。
次の瞬間、再び目覚まし時計が鳴り出した。再度、花恵が右手に力を込めた時、人の気配を察したのか、一気に飛び起きた。
「し、真ちゃん?」
その顔は、完全に二日酔いのものだった。吹き出物まである。しかし、花恵は思いつめた表情で、ベッドの上で正座をした。
それを見つめながら真太は口を開いた。
「お前、さっき何か……言ってたぞ」
真太は、明らかに嫉妬していた。昔の恋人の名前を寝言で言ってしまうという笑い話はよく聞くが、当事者となるとまるで笑えない。
花恵は恥ずかしそうに肩をすくめた。
「嘘、寝言なんて言ってた?」
「ああ。しら、ナントカくんって」
すると、花恵は笑い出した。
「確かに、夢を見てたかも。高校時代の同級生が同窓会に来なくて……心配したみんなで探しに行ったら、おまわりさんに職務質問を受けていたっていう夢」
「何だ、そりゃ」
苦笑しながらも真太は少し安心した。
そういえば、確かに昨日は花恵の同窓会だと聞いていた。夫の誕生日のために欠席したようだが、どうやら参加してきたらしい。一人で荒れて飲んだくれるより、そっちの方が良かった。
真太はもう一度安堵のため息をついた。
「は、花恵」
「待って、真ちゃん」
真太の声の調子に気づいたのだろう、花恵も青白い顔で真っ直ぐにこちらを向いた。
「私も、言いたいことが」
妻の気持ちも同じようだ。
しかし、ここは夫である自分がしっかりしなくてはいけない。すべての発端は自分なのだ。
「いいんだ。花恵、聞いてくれ」
すると、妻は掛布団を抱きしめながら、少しうつむいた。
一呼吸置いて、真太は用意していた言葉を口にする。
「お前の気持ちを、おれはわかっていなかったよ」
「……真ちゃん」
「ただ、一つ理解して欲しいのは、おれにとってキスというのは、本当に大事な愛情表現なんだ」
「……」
「もちろん、お前を満足させてやれなかったのは全面的におれが悪い。そこは謝る。ただ、今後一切、それができなくなるのは、困る」
「……」
「これから、子どもも欲しくなるだろうし、親密な夫婦生活を送るには、必要な行ないなんだよ。正直、おれはセックスより大事だと思っているくらいだ。それを話したら友達に笑われたけど」
「……真ちゃん」
「ちゃんと、お前の要望に応えられるように努力する。だから」
「真ちゃん」
花恵の声が、暗く響いた。
「友達に笑われたって……まさか、全部しゃべったの?」
「え?」
すでに花恵は真太を見ていなかった。床の一点を見つめ、微動だにしない。
「私との喧嘩の顛末を、男友達に話したのね?」
言葉に詰まった。
それが、イエスだと妻は解釈したようだ。思いっきり枕を投げつけてきた。
「……最低。冗談じゃない」
昨晩のヒステリックな怒り方ではない。
無感情な顔、声、すべてが真太という存在を拒絶している。
「何が大事な愛情表現よ。夫婦の秘め事をおもしろおかしく友達に言いふらす男に、愛情の何がわかるというの?しかも、朝帰りとか、説得力まるでないわ」
それっきり、花恵は一切を口にしなかった。
無言のまま、ボストンバックに次々と着替えや化粧道具を詰め込んでいく。
「お、おい」
玄関に向かう妻が、最後に振り向いてこう言った。
「私、あなたに謝らなくて――良かった」
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