十月三日(月)白井土地家屋調査士事務所
花恵からの電話を切ったと同時に、白井の背後から、まるでこらえるような笑い声が届く。
来客用のソファに腰をかけていた女が、そのまま横たわり、挑発するような笑みを白井に向けた。
「さ、す、が。優しいね、白井サン」
女――ジュンが尚も笑いながら自分のスマートホン端末をテーブルに置いた。
「アタシなんて、アイツらに着信拒否されてるんだよ?あんなに、勝手にのめり込んできたのにさ。薄情だと思わない?」
白井は答えないまま、パソコンに向かって仕事を再開した。
この奇妙な来客を迎え、かれこれ三十分くらい経っただろうか。
ジュンは、突然やって来た。
濃い化粧に、ミニスカートという出で立ちは、夜のバーテンダーの姿からは想像もつかないほど、疑いようもない女性のものだった。
ジュンは用向きも告げず、事務所内に勝手に押し入り、来客用のソファに座ると、延々と丹波夫婦の悪口を言い続けた。それも気が済んだのか、今度は白井の仕事や交友関係を聞き出そうとしてきた。
ちょうどそこへ、花恵からの電話が鳴ったのだが――。
「ねえ、花恵さん何て言ってた?アタシのこと?」
白井は一切の反応を拒否したまま、パソコンで作業を続けた。
「聞いてる?」
笑っていたジュンの声が、徐々に低く暗くなる。
「スカしてんじゃねえよ。何様?」
ジュンが白井の真横に立った。そのまま顔を寄せ、耳元で静かにささやく。
「……アンタの何が良いの?」
「……」
「どうして、慕われるの?愛されるの?」
「……」
「花恵さんといい、河合先生といい」
そこで、白井がわずかに反応したのを、ジュンに感づかれた。再び楽しげな笑いが耳に障る。
「……ねえ、河合先生と結婚しないの?付き合ってるんでしょ?」
「いえ」
一言、そう伝えると、白井は印字データを出力した。静かな室内に、騒々しいプリンタの音が響く。
「じゃあ、捨てるつもりなんだ」
「……」
「先生が、クレセントに飲みに来るようになった時、こっちはまともに接客できないくらい舞い上がっちゃったよ。男の姿だし、当然に相手は気づいてなくて……。それで、ポロのレジカウンターで偶然会った時、思い切って声をかけたんだ」
ジュンはデスクにもたれかかるようにしながら、白井を見つめた。
「同時にさ……わかったんだよ。間違いなく、アレはアンタに惚れている顔だった。あんなに顔を赤くして、あんなに慌てて……昔はもっと知的で物静かだった人だったんだよ。老け込むどころか、すごく可愛くなってさ。それを、まあ……よくも冷たくできたもんだね」
――。
白井は小さく息を吐いた。
「……ちゃんと……わかっているじゃないですか」
「は?」
「人から寄せられた想いに対して、どう応えるべきなのか……少なくとも、この僕なんかよりも、ずっと」
「……」
白井はパソコン画面のカーソルを見つめ続けた。
「花恵さんも、彼女のご主人も……みんな同じ気持ちだと、そうは考えられませんか?」
そこで突然、白井はジュンに肩を突き飛ばされた。イスから転げ落ちることはなかったにせよ、体勢を崩して、デスクにすがりついた。
そんな白井を、ジュンが憤怒の色を浮かべながら見下ろした。
「……黙れよ。偉そうに説教か?」
白井は無言のまま、座り直すと、パソコンのデータを保存し、作業を中断した。
「申し訳ないですが……ご覧のとおり仕事中なんです。貴女も不快に感じたのなら、帰っていただけませんか」
「不快?」
ジュンは歪んだ笑みを浮かべると、ゆっくりと白井に身体を寄せてきた。
「不快に感じるなんて……ありえないでしょ。白井サン」
そのまま、白井の膝の上に跨ると、ネクタイに指をひっかけ、ゆっくりと背中に腕を回した。
「アタシは気持ち良いことしか興味ないのよ」
ジュンは豊かな乳房を白井の薄い胸板に押し付け、首筋に唇を這わせる。
右手で白井の下腹部に触れた時、ジュンはゆっくりと顔を上げた。
その瞳にほんの少し動揺が滲んでいる。
白井はジュンを真っ直ぐに見つめ返した。
「……こうやって……あの夫婦を翻弄したんですか」
ジュンは白井を一瞬だけ睨みつけると、跨ったまま服を脱ぎ出した。最後の下着一枚になったところで白井の手を強引にとり、その中に滑り込ませた。
「……」
白井は、手の平に『体温』だけ感じ取ると、再びため息を吐いた。
「何を期待されているのか……今一つわかりませんが」
そのまま手を引き、ジュンの肩をそっと押しやった。
「僕の身体は正直でして、自分でも驚くくらい、反応しないんです。特に……欠片も魅力を感じない相手には」
「……」
「貴女を『満足』させられなくてスミマセン」
白井は椅子から立ち上がると、プリンタで印刷した書類を取り出した。その間もジュンは下着姿のまま立ち尽くしていたが、大きく息を吸い込むとそっと口を開いた。
「ねえ、アンタって……もしかして。男にしか興味ないとか?」
白井は首を傾げた。
「……そう聞かれることに驚きました。いずれにしても、興味はありません」
ジュンが呆れたような笑みを向けた。
「何それ。誰かを好きになったことないの?」
「あるんだと思っていました。つい先週までは」
「は?」
「今は、ただ面倒な気持ちしかありません。貴女のように、身体の触れ合いで自分を理解できたなら、良かったかもしれませんね」
ジュンは呆けたように口を開けた。その口端が徐々に嘲笑うような形に歪められる。
「……変なヤツ。アンタ面白いね」
白井は自分への詮索を避けるために、強引に話を変えた。
「貴女は……丹波さんご夫婦に対して……酷いことをしたと思っているんですか?」
ジュンは首を横に振った。
「知るかよ、そんなの。でも、相手が怒ったり泣いたりしたなら、そうなんじゃないの」
「そうですね」
白井は気の毒な新婚夫婦の姿を思い出す。
「僕の想像ですが……たぶん、あのご夫婦は、貴女のこと怒ってないですよ」
「……」
「何故だと思いますか」
白井は、部屋のクローゼットから自分の上着を取り出すと、それをジュンの肩にそっとかけた。
「貴女が……最後の一線を超えることなく、二人を平等に扱ったからです」
「え……?」
ジュンの顔に、明らかに困惑した色が浮かび、反論しようと口が開かれる。
しかし、それを制し、白井は続けた。
「きっと貴女自身は、新婚の二人を翻弄し、仲を引き裂こうと思ったのかもしれません。でも、本当にそうするなら、片一方と仲睦まじくした方が手っ取り早いはずです。そうしなかったのは……貴女自身も迷いがあったのではないですか」
「……」
「からかうだけのつもりが、思った以上に花恵さんが貴女に入れ込んでしまった、とか。もしくは、ご主人が思った以上に優しくて優柔不断だった、とか。それか……」
白井は少し首をかしげるようにして、ジュンを見つめ直した。
「貴女自身、向こうから愛想を尽かされるのを恐れたのでは?手を出すのも、飲みに誘うのも、突き放すのも……全部、自分からアクションを起こすことで、相手から拒絶されたくなかったからだと、僕は考えます」
烈火の如く、ジュンが上目使いで睨みつけてきた。
「ふざけんな。そんなわけあるか」
「では……どういうわけか教えてください」
「うるさい!お前に何がわかるんだよ!」
「それなら、なおさら……お帰りください」
白井は、ジュンの肩にかけた上着を取り去った。
「もう、僕は誰の力にもなりません。自分の勘違いで相手を傷つける……いえ、そう考えてしまう自意識過剰な自分が……本当に、もうイヤなんです」
白井がため息を吐いたのを最後に、会話は途絶えた。
その間、事務所のファクシミリが受信稼働をしたり、ジュンのスマートホン端末が何かの着信音を鳴らしたり、室内はわずかに賑やかであったが、すぐに静けさを取り戻す。
ジュンは、むき出しの肩を両手で抱くと、うつむいたまま立ち尽くしていた。
その赤い唇が、そっと開かれる。
「アタシ、女の人が好きなんだよ。特に年上の。男はタイプに寄るけど」
「それについては……何となく花恵さんの話から」
「でもね。『される』のは、断然、男からなの。やっぱり、身体が女だからかもしれない」
「……」
「……アタシは、おかしい人間だよね?」
ジュンの語調は強かった。肯定されるのも覚悟をしたように思えた。
それは裏を返せば――。
白井は言葉を慎重に選ばざるを得なくなった。
「あの夫婦に対して起こした行動に限るなら……人によっては、そうだと思われるでしょうね」
「白井サンは?どう思ってる?」
その問いかけに、白井はファクシミリで送られてきた書類を眺めつつ、電卓で費用計算しながら答えた。
「理由によります」
「……理由って?」
言葉を発するごとに、ジュンの声が小さくなる。
そのたびに、白井は、胸に棘が刺さる感覚に見舞われた。
――。
同じことを繰り返すのがわかっているのに、どうしても避けられない自分が、時に恨めしく思うが――。
白井は小さく頷き返した。
「貴女が……孤独で寂しくて不安で、人との触れ合いが命を繋ぐ唯一の方法だと、自分で認めているなら、僕は仕方ないと思います。でも、ただ単に性欲のままの行動であるなら、何も言うことはありません。ただ一言、関わりたくない、それだけです」
「……結構、ハッキリ言う人なんだね」
ジュンが苦笑いを浮かべた。
胸の棘が、さらに奥に食いこんでくる。
そして、この痛みに慣れている自分に少しおかしくなった。
「僕みたいな人間が、人付き合いで語れることなんて、たかが知れています。ですが、既婚者を相手にするのは、やめましょう。まだ若い貴女には……あの人みたいに……」
そこで、白井は言葉を飲んだ。
麗華の姿が白井の脳裏をかすめる。
――ああ、断ち切れそうだ。
大きく息を吐く。
「そういえば、貴女が慕う河合先生は……学生時代の貴女を覚えていましたよ」
「えっ」
ジュンの表情が今にも崩れ落ちそうなものに変わった。
「先生は……何て……」
そこで初めて白井は、笑みを作ることができた。
「『色々あったかもしれないけど、元気に働いていて安心した』と言っていました」
「……」
「それ以上のことは、直接聞いてみたら良いと思います。あの人なら大丈夫です。今まで受け止めてきたものの重さを考えれば……きっと、貴女や僕とは比べ物にならないくらい、懐の広い人ですから」
白井はうつむいたまま、ため息を吐いた。
「僕なんかより……貴女の方が、あの人のことを大切にできるはずですよ」
ジュンは瞳を大きく見開くと、苦しげな色を浮かべた。
「何……言ってんの?バカ?」
「……」
「もう良いんだよ。もう……良いの。あの人のことは」
その瞳から、一気に涙が溢れ出した。
「どんなに一途に想ったって、綺麗な言葉を並べたって、感じるキスをしたって、どっかの夫婦みたいに一瞬で関係が崩れるくらいなら、アタシは何もいらない。先生への気持ちは、高校の時に綺麗に『成仏』させたの。それなのに」
ジュンは泣きながら笑った。
「とっくに結婚して幸せにやっていると思っていたのに、先生はまだ独り身で、綺麗なまままで、まだアタシの手に届きそうな所にいるんだもん。腹が立ったよ。男どもは何してんの?」
時々、その声に怒気が含まれたかと思えば、嗚咽で消え入りそうになる。
――。
少女の胸の残り火を感じつつ、白井はジュンを見つめた。
「そうですね。いつだって、どうしようもないのは……男の方です」
「……」
ジュンは、大きなため息を吐いた。
「白井サンの方こそ、先生のこと大切に想っていたんじゃないか」
今度は白井が弾かれたように顔を上げた。予想しなかった言葉に、胸がざわつく。
「……どうして、ですか」
「完全に関係を切りたくなくて、完全に繋がることもしなかった。違う?」
「……」
「相手を大切に想っているかどうかなんて、その判断は相手にしかできないじゃん。迷ったって意味がないから、アタシは全部正直に生きていたいんだ。ゴメン、上手く言えないけど」
ジュンは落ちていた服を拾い上げ、袖に腕を通した。
「だから、バカな理由で喧嘩して、周りに頼ることしか考えなかったあの夫婦が鬱陶しくてさ。結果的に仲直りしたなら、もういいよ」
そして、長い髪のかつらを外し、再び白井の前に立った。
少年のような短い髪の毛でも、もう女にしか見えない。
「……白井さんは、独りがいいの?」
同じ言葉、以前も聞いた気がする。
白井は、それを思い出すことをやめ、ゆっくりとうなずいた。
「……僕は、独りでいいんです」
「どうしたら、そうやって強くなれる?」
「強くないですよ。誰かと一緒にいることが、怖くて弱い人間です」
そこでジュンが、幼子のような笑みを見せた。
「そうやって開き直れるのが、強い証拠なんだよ」
消え入りそうな声。
「……アタシも白井さんみたいに、なりたいよ」
そして、笑顔が涙に濡れていった。
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