十月四日(火)夜 居酒屋いざいざ

 真太の向かいの席で、二人の級友が見たこともない柔らかな笑みを見せている。

 さらに真太の隣の席では、妻の友人――蟹江理沙がグラスを煽った。


 ――何でこんなことに。


 真太は、弁護士の休日の夫婦のやり取りを思い出した。



 突然、妻の花恵から、高校時代の親友たちとのトラブルを打ち明けられた。

「……誤解よ。誤解なのに……私とウサちゃんとは何もなかったのに」

 最初こそ、大した問題ではないと思っていたが、妻の落胆ぶりを見ていると、いよいよ心配になってきた。

 要は、花恵が弁護士宇佐見の事務所で眠りこけている間に、妻の友人である理沙が訪れたらしい。しかも、理沙は長年宇佐見に片想いをしており、完全に誤解をされたというのだが――。

「……誤解なんだから、誤解だよって言えば良いんじゃないか?」

 真太は、何度目かの同じ言葉を繰り返した。

 決まって花恵の答えも同じ言葉で繰り返された。

「カニちゃんが怒るなんて初めてだもん。きっともう無理よ」

 妻は完全に憔悴しきっていた。今回の一連の騒動がなければ、もう少し強い心を持てたかもしれない。


 ――いや、一連の騒動がなかったら、そもそも怒りを買うこともないのか。


 真太は、しおれた妻の顔を見つめた。


 ――おれに出来ること。


 真太は、おもむろにスマートホンを取り出し、花恵に声をかけた。

「か、蟹江さんって独身だよね?弁護士に片想いしているくらいだもんな」

「そうだけど……」

「おれの友人も独身なんだ。彼女に紹介するよ。しかも出世頭とイケメンだ。どうだ?」

「えっ」

 花恵は一瞬だけ戸惑いの色を見せたが、考え込むようにうつむいた。

「そういえば……カニちゃんにも言われたんだっけ。男の一人二人紹介しなさいよって。もちろん、ウサちゃんも一緒の時だから、冗談なのかもしれないけど……」

「よしっ」

「あ、待って!」

 真太が級友たちに連絡を取ろうとした時、花恵がそれを制した。

「でも、何か失礼な気がするわ。誤解を受けている私が、別の男性を紹介するなんて……考えてみればバカにした行動よね?」

 妻の言い分はもっともだ。しかし、真太には考えがあった。

「前にも話したかもしれないけど、おれの友だちで宇佐見先生と顔なじみのヤツがいるんだよ。仕事でしか関わらないらしいけど」

「じゃあ、白井くんとも知り合いだったりするのかしら」

「まさに、そう!あの三人、普段から仕事で連携しているらしいんだ」

「……知らなかった」

「つまり、蟹江さんに宇佐見先生の情報提供も出来るわけだ」

 花恵も納得したようにうなずいた。それでもどこか不安げな色は抜けない。

 真太は妻の両肩に手を置いた。

「とりあえず、蟹江さんに誤解を与えたことは謝りなさい。何もなかったんだから、お前も堂々としていればいいんだよ。あとのことは、こっちで上手くやるから、ハナは彼女を呼び出せる日取りを教えてくれ。お前が同席するかどうかは任せる」

 真太は、頼れる夫としての誇りを取り戻さんと、語気を強めた。



 そして今日、妻の友人と自分の級友二人が初めて顔を合わせることになった。


 ところが。


 妻の花恵から、急な仕事が入ってしまい集合に遅れるという連絡があった。これは作戦などではなく、本当に急だったらしく、花恵も理沙に直接電話を入れたほどだった。その行動には、さすがの理沙も素直に受け入れた。何だかんだで、この女性は性格がサッパリしているのかもしれない。もしかしたら、花恵と宇佐見の誤解もすっかり解けているのではないか。

 そうなると、今回の集まりが、どういう方向に向かうのか、にわかに不安になって来た。


 次々と料理が運ばれる中、それぞれが勝手に自己紹介を始める中、フジが自分の話をしている時、理沙が首を傾げた。

「司法書士って……何か聞いたことあります」

「あ、ホント?」

「あれ……待って……」

 理沙はフジの姿を上から下まで眺めた。

「小さくて、変な色の眼鏡かけて……」

 小声で何やら言っているが、上手く聞き取れない。すると、理沙がハッとした顔でフジに顔を寄せた。

「あの……弁護士の宇佐見……って知ってますか」

 途端にフジの顔が前代未聞な勢いで歪められた。

「知らない」

「いや、フジ。かえって不自然だぞ、その顔」

 キャタツが意地悪そうに笑うと理沙に向き直った。

「理沙ちゃん、オレも知ってるよ!このタンヤオの嫁さんと一晩しけこんだっていう噂がある人だよ」

「だぁあ!キャタツーっ!」

 真太は絶叫した。店中の客がこちらに注目する中、慌てて声を潜めて級友を威嚇する。

「お前、最初の打ち合わせ通りやれよ!いきなりブチ込むなよ!」

「は?そんなウダウダやってて、オレに何のメリットがあるんだ」

「ちょっ」

「ねえ、理沙ちゃん」

 キャタツは真太を無視すると、理沙に料理を取り分けながら、優しく囁いた。

「その弁護士のこと……何か気になるの?」

「え?」

「いや、ゴメンゴメン、さっきの一晩シケこんだという話は冗談。実はさ、ここにいるアホ亭主に愛想を尽かした嫁さんがね、同級生でもあったその弁護士のところで厄介になったらしいんだけどさ。コイツ、呼び出されてビシッと説教されて、夫婦二人でトボトボ帰ってきたんだって」

「……」

 だいたい話は合っているが、どこか釈然としない。真太はしばらく黙りこむことにした。

 キャタツが続ける。

「カッコいいよな。オレより若いらしいけど、やっぱりこう……弁護士って何かオーラが違うんだろうね」

 すると、そこへすかさずフジが口を挟んだ。

「へええ。そんなカッコいい弁護士なら、俺の知り合いの宇佐見とは別人だと思うけど……」

 手にはスマートホンが握られている。

「ちょっとばかし、確認のために連絡取ってみるか」

 今度はキャタツがフジに食ってかかった。

「おいおい!ややこしくすんなよ!せっかくオレがお持ち帰り作戦を遂行しているのに!」

「見え見えなんだよ」

 二人のいざこざに、理沙が口を開く。

「というか、聞こえています」

 その顔には楽しげな笑みがあった。すると、今度はフジが理沙を見つめた。

「へえ。ノリがいいね」

「え?」

「勝気で真面目なお姉さんかと思っていたけど、変に力んでないところが安心するよ。こんな集まりに来なくたって、充分モテるでしょ?」

 まるでイケメン俳優のような表情に、理沙は照れ笑いを浮かべて下を向いた。


 ――何だコイツら。


 真太は、目の前で繰り広げられる茶番に、言葉が出なかった。この場に妻の花恵がいないことを心から安堵した。


 その時、店の外から車の爆音が聞こえてきた。


 カランガチャンと自動ドアのベル音が壊れると同時に、大柄な外国人が一直線、真太たちのテーブルの前にやって来た。

「カニちゃん!」

「う、ウサっ?」

「助けに来たよ!」

 いきなり、大男は理沙を抱きかかえると、フジに向かって怒鳴り散らした。

「このチビ書士!オレのカニちゃんに手をかけようなんて五千光年早い!滅べ!」

「え?やっぱり、宇佐見先生って、女癖が悪くてブラジル人女性から告訴されそうになった宇佐見先生のことかぁ」

「アレは言語の問題なの!さあ、カニちゃん帰ろう」

 すると今度は、キャタツが立ち上がった。

「ちょっとちょっと、オレが最初に彼女の心を癒したんだぜ?なあ、理沙ちゃん?」

「いや、陥落させたのは俺だ」

「何言ってるの?石器時代からオレの彼女だよ」

 店中の注目が続く中、真太は理沙の表情を伺った。


 ――。


 まるで少女のように恥ずかしそうにうつむいている。


 ――当たり前か。


 真太は声を上げた。

「もう、やめろよ。蟹江さんが困っているだろ?」

 しかし、男どもの言い争いは一向に終わる気配がない。

 ついに、堪忍袋の緒が切れた。

「お前ら!いい加減にしろ!外に出ろ!」

 真太は強引に男たちを外に追い出すと、唖然とする店員に頭を下げながら会計を済ませた。


 ――最悪な結果じゃないか。


 花恵に何といって謝ろう、真太はそんなことを考えながら店の外に出た。


 ――。


 店の前には、誰もいなかった。

 停められていたであろう爆音の車も見当たらない。

 静かな路地に秋風が吹き抜けた。


「し、真ちゃん?」


 ちょうど、そこへ妻の花恵が目を丸くして現れた。

 真太は泣きそうな顔で、花恵に駆け寄ると、そのまま抱きついた。

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