十月五日(水)夜 ロイヤルガーデン緑ヶ丘 四〇一号室
親友のカニは、電話口の向こうで、もう一度同じ質問を花恵に繰り返した。
「ねえ、ハナ……ほ、本当に旦那さんから何も聞いてない?そ、その……お友だちからとか」
花恵は少し笑いながら同じ答えを口にした。
「聞いてないよ。もう、本当に何があったの?いきなり居酒屋から姿を消したっていうから、うちの旦那としばらく探し回ったんだから。スマートホンも繋がらないし」
あの晩、そのスマートホンも程なくして応答があったが、親友は短く無事であることを花恵に伝えると、すぐに電話は切れてしまったのだ。
「誰かと一緒だったの?大変だったみたいだけど大丈夫?」
「えっ……ああ、うん……」
さっきから、カニの話し方はどこか歯切れが悪い。
しかし、本人が大丈夫というなら、余計な詮索は野暮かもしれない。
「ハナマル……」
小声でカニが話し始めた。
「うん、何?」
「ごめんね」
「え?」
花恵は少し面食らった。本来なら謝るべきは自分なのだから。
しかし、カニはそのまま続けた。
「この前の飲み会の後のこと……ちょっと言いづらくて、これ以上はゴメン。でも、私は大丈夫だから」
あまりのしおらしさに、花恵は少し心配になった。
「カニちゃんが平気なら良いけど……本当に大丈夫なのね?」
「大丈夫。心配かけてゴメン」
このやり取りを延々とするわけにもいかず、花恵も納得した。
親友との電話を終えるとほぼ同時に、仕事から帰った夫が珍しく何かの袋を持って姿を見せた。
「ただいま」
「おかえりなさい。それ何?」
「ああ、出張先の駅前で売ってたんだ。二人で食べようか」
小さなキッシュが二つ、可愛く並んでいる。
花恵は、あの一件から夫の行動が少し変わったと感じるようになった。
こちらに気を遣っているのだと思ったが、次第にその行動自体を夫も楽しんでいる、そんな気がした。
――私も何かしてあげたい。
この想いが、どれだけ大事なのか、痛いほどわかっている。しかし、上手く行動に出せない自分にもどかしさを感じた。
夫が首をかしげる。
「そういや、誰かと電話でもしていたの?」
「えっ。ああ、そうなの」
花恵は慌ててキッシュを皿に並べ、フォークを用意した。
「カニちゃんから連絡あったのよ。飲み会の後のことを旦那さんから聞いてないかって」
すると、真太が首を傾げながら笑った。
「不思議なこと聞くなぁ。おれ、完全に置いてけぼりだったんだぞ?」
「どうもね、何かあったような雰囲気なのよ。真ちゃんのお友だちと一緒だったのよね」
「ああ」
そこで、二人の間に沈黙が流れた。
目を合わせ、目をそらし、もう一度目を合わせた時、どちらともなく頷いた。
「……何かあったんだろうな」
「……何かあったのよね」
「聞かないでおくか……」
「それに、大丈夫だって言ってたわ」
「そうか」
「うん」
自分を言い聞かせるように、花恵も真太もこの件は落着させた。
そう、思えた時だった。
真太のスマートホンが唸り声を上げた。
「もしもし?」
こちらに背を向けて何やら話をしていた夫が、急に花恵を振り返った。
そして、
「……いや、嫁からは何も聞いてない……けど」
と困惑した顔でつぶやいた。
――。
そのうち、夫の顔がみるみると歪み、終いには呆れたような顔で電話を切った。
「し、真ちゃん?」
「……な、何でもないよ」
「そんなわけないでしょ。きっとお友だちよね?」
すると、真太は額を押さえ、ソファに座り込んだ。
「女一人で……まとめて相手とか……」
「え?」
「いや、これ以上言えない。うん、もうやめよう」
そして大きく息を吐くと、じっと花恵を見つめた。
「おれの奥さんが……お前で良かった」
「えっ」
あまりに自然な言い方。
それでいて、あまりに新鮮な言葉だった。
花恵は一気に身体が熱くなった。
当然に、夫も口を覆って顔を赤くした。
「お、おれ何を言ってるんだ?えっと、よし、キッシュ食おう!」
真太が慌ててソファから飛び起きた。その反動で膝がテーブルに当たり、キッシュの皿からフォークが滑り落ちた。
――。
花恵は真太の隣に座った。
夫が振り返ると同時に、無意識にその頬に両手が伸びた。
額を当てて、鼻先をかすめ、そのまま――。
夫の唇に温みを落とした。
少し乾いた小さな弾力に、花恵は何かを思い出しそうになったが、自然とそれは霧消した。軽く触れては離れ、頬とあご先にも同じように、自らの体温を残していく。
最後にもう一度、ゆっくりとひだを折るように互いの唇を寄せると、花恵は真太の肩に顔を埋めた。
愛しい胸が大きく上下した。
「ハ……」
「何も言わないで」
「……」
「私、こういうのが、いいの」
「……」
「ごめん。真ちゃんは……きっと違うのよね?でも」
「花恵」
強い力で両肩が掴まれたかと思えば、そのまま夫の腕の中に落ちていく。
真太はゆっくりと覆いかぶさりながら、花恵の頬を手の平で包み込むと、下唇にわずかな熱を押し当てた。
一度、ためらうように。
二度、確かめるように。
三度、求めるように――。
「真ちゃん」
切ない温もりに涙が溢れる。
花恵は片足を持ち上げた。
もう一枚の皿から、フォークが軽やかな音を立てた。
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