【終章】十月五日(水)夜 バー・クレセント

「ああ、白井先生。わざわざ書類を届けてくれてありがとうございます」

 バーの店主、片野が会釈をしながら、白井の前にグラスを置いた。

「しかも手数料を安くしていただいて……御礼にこちら一杯どうぞ」

「……はあ、いや。でも」

「良いんです。リナからもヨロシクって言われてますから」

 ごゆっくり、そう微笑みながら片野が離れるのを見送りつつ、白井はグラスを手に取った。


 ――たまには、良いか。


 今回はいつも以上に疲労感が酷い。そうはいっても、新婚の片野夫婦とは何の関係もないのだから、やはり心苦しくはなるのだが。


 白井はジャズが流れる店内で一人、しばらく静かな時を過ごした。


 自分にはこの時間が必要だった。


 ――どうしてだろう。


 一人でいることの重要性は、他者と関わるからこそわかってくる。


 ――。


 つまり、誰かといる時間の方が多いということだ。


 白井は、何となく面倒な気持ちになり、グラスを飲み干した。

 その時。

「先生、あちらのお客様からです」

 どこか楽しげな片野が、白井の前にさらにグラスを置いた。

 ドラマのようなシチュエーションと、キラキラと輝くウィスキーに戸惑いながら、白井は視線を動かした。


 ほぼ同時に、隅のカウンター席にいたワンピース姿の女が、ゆっくりと振り向く。

 そして、綺麗な黒髪を片耳にかけながら、小さく会釈をしてきた。


 ――。


 一瞬、その佇まいに麗華の姿が重なる。

 しかし、直後のいたずらっ子のような笑みに、それは霧消した。


「こんばんは、白井サン」


 黒髪の女は、バーテンダーのジュンだった。


 困惑する白井の隣に、黒髪の女は軽やかに座った。

「アタシ、あれから河合先生に会ったんだ」

 唐突にジュンは言った。

「あの時の気持ちを伝えようとしたの。でもね」

 少女は首をかしげながら笑う。

「よく見たら……何か違うなあって思った。最初に再会した時に、たぶん新鮮さが薄れたんだと思う」

「え?」

 白井はようやく反応ができた。

 ジュンは肩をすくめると、自分のこめかみを指先で突いた。

「人が成長すると同時に記憶は美化されるんだね。アタシ、自分自身のバージョンアップを怠っていたんだなって。再会なんてするもんじゃないよ」


 意味のわからないことを言われ、白井は相槌すら戸惑った。

 その様子に、ジュンは吹き出すように笑う。


「だって、アタシは綺麗で可愛いくて、ワクワクするものが好きなんだもの。あれ?白井さんゴミが付いてる」


 ジュンの指先がそっと伸びてきた。


 その時。


 白井の乾いた唇に、柔らかな温みが落とされた。


 甘い香りが舞い上がる。


 互いの長いまつ毛が触れ合った。


 ――。


 瞬きをする間もなく、ジュンは身を離し、席を立った。


「孤独で綺麗な貴方が大好き。だから、二度と会わない。バイバイ、白井サン」


 ジャズと談笑が耳鳴りのように響く。


 一人残された白井は、ウィスキーを一気に飲み干すと、ふらつく足で夜闇に消えて行った。



 【了】

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