十月一日(土)夕方 宇佐見法律事務所
香ばしいコーヒーの香りがする。
窓からは弱々しい西日が差し込み、花恵のまぶたを照らした。
――。
ゆっくりと目を開ければ、見覚えのない天井が広がる。
たくさんの書棚、パーテーション、応接テーブル。
自分がその中で一番大きなソファに横になっていることに気づくと、慌てて飛び起きた。
「私、何で」
花恵はもう一度、室内を見渡し、日暮れに浮かぶ様々な影から時間の流れを再確認した。
「……あ、あ」
そして、この場所にやってきた経緯を思い出し、最後にようやく――自分の身に起きたことに辿り着いた。
「……あぁ!」
髪を掻き毟り、そのままソファに突っ伏した。
あの痛み。あの熱。
何もかもが壊されていった、あの時間が蘇る。
ジュンに首を絞められた時、助ける代わりに白井の連絡先を教えろと言われた。
花恵は涙を流し、あらゆる者に懺悔をしながら、その電話番号を伝えると、ジュンはあざ笑うように花恵を見下ろした。その時、自分を罵るようなことを言われた気がするが、もう覚えていない。ただ、恐ろしく、かろうじて身体に引っかかっていたワンピースを纏ったものの、半裸の状態でホテルを飛び出した。どこかでタクシーを拾おうと歩き回った挙句、かえって不慣れな繁華街で立ち往生していた時、偶然にも宇佐見と出くわしたのだ。
花恵は自分でも混乱するくらい泣き叫び、宇佐見に助けを求めた。あまりの状態に、さすがの友人も驚いた様子だが、すぐに花恵を介抱してくれた。
タクシーの中、震える花恵の肩を抱き、ずっと慰めの言葉をかけ続けた友人に連れて来られたのが、この建物――宇佐見の仕事場だったのだ。
自宅に送られるとばかり思っていた。
しかし、宇佐見はそうしなかった。
今度こそ、間違いなく夫に怒られると思っていた花恵は、心から安堵し、友人に感謝した。しばらく落ち着くまで休むように言ってくれたのだ。
花恵自身、色々なことが度重なり、疲労が溜まっていたのか、ソファに横になっているうちに眠ってしまったようだ。
自分の有り様に、もう言葉もない。
情けない。恥ずかしい。
――本当に、もうやめよう。
その時、パーテーションの向こうから人影が浮かんだ。
「お目覚め?ハナマルちゃん」
そこに現れたのは、異国顔の同級生。いつもと変わらない、明るい茶色の瞳が微笑んでいた。
「う、ウサちゃん……」
「よく眠れた?」
「うん……ごめんなさい」
「どうして?オレには謝ることないでしょ」
宇佐見が花恵の隣に腰を下ろし、そのまま抱き寄せた。
「オレは、嬉しかったよ?」
――。
――。
花恵は自分の服が、Tシャツとスエットのズボンであることに気づいた。
自分が着ていたワンピースは、ハンガーに吊るされている。
――。
「嘘」
咄嗟に、花恵は宇佐見の腕の中から逃れた。
「嘘でしょ?ウサちゃん、違うよね?」
花恵はその事実をどうにか否定したかった。
それでも、違和感は消えない。
――今、何時よ。
午後四時。
――昨日の夜から、この時間まで、ずっと寝ているなんておかしいじゃない。
みるみる身体に熱が込み上げる。
頭の奥から、足の先まで針で突き立てられたような、感覚。
すると、宇佐見が手をヒラヒラとさせてみせた。
「ゴメンゴメン。勘違いさせた?オレ、ハナマルちゃんの下着姿は見たけど、手は出してないからね」
「う、嘘!だって、こんな時間まで寝ているなんて……」
恥ずかしさと絶望感で、涙が溢れる。それを見た宇佐見が悲しそうに笑った。
「なるほどねぇ……そこが、ハナマルちゃんの悪いところかもね」
――。
宇佐見はソファから立ち上がると、一度キッチンに戻っていった。
「さて、どこから話そうかな」
そんなつぶやきが聞こえた。
花恵は級友の言葉を繰り返した。
――私の、悪いところ。
再び現れた宇佐見は、テーブルに紅茶を並べると、今度は花恵の向かい側に座った。
「ハナマルちゃん、昨晩は誰とどこにいたの?」
「……」
「悪い人でしょ、そのお相手。ちょっと、ハナマルちゃんの様子が尋常じゃなかった」
「え?」
「何か……吸わされてない?変なお薬」
花恵の脳裏に、ジュンが取り出した小瓶が思い出された。
――でも、それ以上は何もしなかったわ。
「……違うと思う。たぶん、私が混乱していて」
「どうして、オレがお家に送らなかったかわかる?あの状態で旦那くんと鉢合わせるわけにいかなかったんだよ。だって、ものすごい暴れっぷりだったから」
「……」
「悪いモノが抜けるまで見張っておく必要があったわけ。というか、うーん……やっぱり覚えてないんだな」
宇佐見は少しだけ目を細めて花恵を見つめた。
「それか、あらかじめ部屋で焚かれていたのかもね。そんなに強い成分じゃないんだろうけど、初めての女の子にはキツかったんじゃないかなあ」
花恵は、ジュンに連れて来られたホテルの内装を思い出してみた。
大きな窓と大きなベッド――。
枕元に。
「あ……アロマポット」
宇佐見が指を突き立てた。
「ん、それだ。当たりだね、オレってすごーい」
「……」
「まあ、ちょっとした興奮剤みたいなものか。焚いたものなら強くないだろうけど……液体やパウダーじゃなくて良かったね」
――あの、小瓶。
花恵の身体に震えが蘇る。それを見た宇佐見が小さく頷いた。
「もう、その相手とは一切の連絡を絶つこと。ま、平気かな。その様子じゃ」
「……」
「ハナマルちゃん」
宇佐見が少しだけ笑みを消した。
「何で、言いつけどおりにしなかったのさ」
「え?」
「夫婦間の些細な問題なんて、とにかく謝っちゃえば済むことがほとんどだって言ったでしょうに」
「……」
花恵の胸に、わずかに残された夫への怒りの残り火が燃え上がる。
「私が悪いんじゃないもの。夫婦の問題を、先に他人に話したのはあっちよ?私は辱めを受けたのと同じで」
そこで宇佐見が言葉を遮った。
「……って、そうご主人にも伝えたの?」
「……」
「確かに、ご主人も軽率だったかもしれない。でも、それはもちろんハナマルちゃんを辱めるため、じゃないでしょう?ご主人の弁明を聞いた?それを、聞かないで飛び出して来たなら……ハナマルちゃんは相手をぶん殴った上で逃げたのと同じよ」
「そんな……私は……」
「キミの悪いところは、少し思い込みが強くて、感情に流されやすいところ。この数日間、少しでもご主人の心配をした?いくら夫婦でも、相手にだって生活や仕事や大事にするものがあるはずじゃん」
「……」
「それなのに、ご主人はすべてを後回しにして、ハナマルちゃんのために奔走していたらしいじゃない?」
宇佐見はそこでスマートホン端末を取り出した。
「もう少ししたら、ご主人がここに来ます。あとは二人で……二人だけでちゃんと話し合いなよ。オレとの相談は、初回は無料だけど次から三十分あたり五千円だから。なんちゃって」
「……」
「どういう結果になろうとも、二人が決めたことなら、とやかく言うつもりはないよ。ただ、一つ頭に留めて欲しいのは……」
宇佐見がウインクをした。
「離婚するためには理由を探すでしょ?その時にね、結婚した理由も一緒に思い出して欲しいかな」
ようやく、花恵の中に友人への申し訳ない気持ちが湧いた。
宇佐見だけではない。
もっと、他にも――。
そこで、宇佐見が珍しく苦笑いを浮かべた。
「ハナマルちゃんが思っている以上に、ややこしいことになっちゃったのよ。ああ、オレもどうやって彼女に説明しようかなあ」
スマートホンの画面を見ながら、頭を抱えた。
「ウサちゃん……彼女って?」
「カニちゃんだよ。昼間に突然やって来てさ。同窓会以来、ちょくちょく会ってたんだけど……ソファで寝ているハナマルちゃんを見て、怒り狂って帰っちゃった」
「えっ」
――怒り狂う?
花恵が動揺していると、宇佐見が肩をすくめた。
「ものすごい誤解をされたわけだけど……カニちゃんの気持ちがわかってしまった瞬間でもあった。まさかねぇ。こんなオレをねぇ」
嬉しそうな残念そうな、不思議な色を浮かべ、宇佐見が笑う。
――。
「カニちゃん……」
「ハナマルちゃんからも説明よろしくね。今はたぶん無理だと思うけど。ものすごい剣幕だったから」
「……」
その時、部屋のチャイムが鳴り響いた。
しばらくして、魂が抜けたような夫が姿を見せた。
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