十月一日(土)夕方 ロイヤルガーデン緑ヶ丘 四〇一号室

 帰りの車中、夫の真太は終始無言で、その横顔は怒っているようにも疲れているようにも見えた。謝るどころか、話しかける勇気もなく、花恵はこの時初めて、本当に夫婦の関係は終わったと覚悟をした。


 たった一日だというのに、自宅に戻ったのが随分久しぶりに思える。


 いや、帰ってこれただけでも良かった。


 花恵はリビングのソファに身を沈め、いつもは無意識に背を預けていたクッションを、愛おしむように抱きしめた。


 このまま、一ミリも動きたくない、そう思った。


 ――寒い。


 危うくて刺激的で、炎を灯されるような切なさに酔いしれた熱と時間は、一瞬で失われた。その代り、甘く怪しげな香りと、食いこんでくる痛みと恐怖だけ身体にこびりつく。


 私に残されたのは。

 私に残されたのは。

 

 突然、とてつもない力が背後から花恵を包み込んだ。

 その痛いくらいの強さに、思わず悲鳴を上げる。


「し、真ちゃん?い、痛……」

「……め、ん」


 ――。


「ハナ……ごめん……」


 大きく吸い込んだ夫の呼吸が、涙とともに伝わった。


 どれだけ。

 どれだけ、この人を傷つけた?


 何より最初に、無言で突き飛ばした時から――。


 ずっと悪いのは私じゃないか。


「し……真ちゃん……」

 私に残ってくれたのは、夫からの愛情だけだ。

「ごめん、なさい……」

 

 その一言を発したと同時に、花恵は叫ぶように泣いた。

 

 真太は花恵を正面から抱きしめ直すと、さらに力を込めて、そのままソファに倒れ込んだ。

「もう、やめような」

「うん」

「おれ、あの女の電話は着信拒否にしたから」

「私も、そうする」

 しばらく抱き合ったまま、どれくらい経っただろうか。

 真太が少しだけ身体を浮かせ、花恵の耳元でささやいた。

「花恵……おれ、お前にきちんと謝らなきゃいけないことがあるんだ。すごく後悔しているし、正直打ち明けるのは怖い。関係が壊れるのも覚悟している。でも、おれのケジメだから」


 ――。


 花恵は首を横に振った。

「真ちゃん、私……全部知っているから」

「……え」

「ジュンから聞いた。でも、そんなことより私の方がよっぽど酷いことしたから」


 夫は、ジュンの被害者だ。

 自分は、ジュンの共犯者。


 ――私は、自分から、あの子を求めたんだもの。


 最後は、互いに裏切り合ったけれど。


 ――ジュンにとっての『正解の人間』は一体誰なのだろう。


 それも、もういいわ。


 真太が青い顔のまま、花恵を見つめる。

 そして、弱々しく笑った。

「おれたち……二人してフラれたんだな」

「そうよ。つまらない人間だって罵られたの」

「おれもだ」

 どちらともなく笑いがこぼれる。

 久しぶりに見た、夫の笑顔。


 穏やかで安心できて――。


 ふと、宇佐見の言葉が蘇る。


 ――『結婚した理由を、一緒に思い出して』。


「真ちゃん……」

 大事なものを、失うところだった。

 夫がどこか緊張した面持ちで、花恵の頬に触れた。

 互いの鼻先が再び触れ合いそうになる。


 ――。


 寸でのところで、花恵は夫の胸に顔を埋めた。


 ――ダメよ。


 何も終わっていない。


「真ちゃん……私、罰が当たるわ。ううん、もう当たったのよ」

「……そんなに思いつめないでくれよ。おれだって」

「友だち……絶交されるわ、きっと」

 自分だけ勝手に終わらせて解決するなんてできない。

 すると、真太が花恵の頭を撫でた。

「そういえば……お前の友だちの蟹江さん、だっけ」

 その名前に、花恵は夫の身体から飛び起きた。

「カニ……カニちゃんがどうしたの?」

「……いや、実は彼女がおれに連絡してきたんだよ。お前が弁護士の事務所にかくまわれているって」

「……」

「なあ、花恵。お前、そっちの弁護士とは何もないんだよな?」

 そのわずかに向けられた疑心に、花恵は少し腹が立った。

「……ないわ。ないに決まってるじゃない。むしろ、ウサちゃんだって誤解されて困っているくらいなんだから」

「そ、そうか。じゃあ、大丈夫だな。いや、実はおれの友だちがさ……その弁護士と知り合いみたいでさ。あまりに女癖の悪い話を聞かせてくるから心配で。その蟹江さんも、花恵が弁護士と浮気しているって言うもんだから」

「ひどい」

「確かに酷いよな。でも……あの彼だけはその宇佐見先生を擁護していた」

「彼って?」

「白井さん。ちょうどその時、お前の件で一緒に行動していて。弁護士事務所の場所も彼から聞いたんだ」


 その時、ジュンが白井の電話番号をスマートフォンに登録する仕草を思い出した。


 ――私、本当に何て事を。


 花恵は再び、夫の胸の中で泣きだした。

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