Legend1,『Ready?』

「ジムショに行っテ相談シテみまショウ……」


 ヤーナが不安そうな表情のまま私に告げた。

 どうすることもできない私にとっては、この状況で選べる選択肢はほとんどない。

 日本に帰らなければならないことは理解できるけど、空港が閉鎖されている限り帰る手段はないわけで。


 そもそも、こんな状況に陥る確率ってどのくらいなわけ?なんで私、こんな目に遭ってるの?

 どうしたらいいわけ?


 本当に、どうしよう……

 どうしたら、いいんだろう……


 ヤーナの表情やこの緊迫した状況以上に、私の頭は混乱していて、誰よりも自分がどうしたらいいのか分かっていない。

 ヤーナに従う以外に、私はなにも思いつくことができなかった。


 青いビートルが道路上に止まっている。車のハンドルを握るヤーナは、心の状態を隠しきれず爪を噛んでいた。

 マンションの駐車場から車で出てすぐ、私たちは渋滞につかまっていた。戦下のためか、みんな考えることは似通ってしまって、遅々として車は進まない。蜃気楼が立ち上る道路の向こうまで、いろんな車種の車が並んでいた。周囲からは車のエンジン音だけじゃなく、クラクションの音や乗っている人の怒鳴り声が響いている。日本語じゃないから、私には分からないけれど、みんながみんな、まるでこの国全体が取り乱しているみたいだった。


「エンバシー……」


 ヤーナが呟くように言った。はっとその言葉で彼女はなにか気がついたようで、すぐに自分のスマホをポケットから取り出し、アプリをタップして英語で話しかけた。

 翻訳ソフト画面が、私の前に差し出される。


「あなたは日本大使館に行くか、笑っている、の事務所に行くか、選ぶことができます。どうしますか?」


 抑揚のない、女性の日本語がスマホから聞こえる。


 『笑っている』は、さっきようやく理解できたんだけれど『ラフィング』のこと。つまり私たち配信者が所属する事務所のことだ。

 ヤーナが言っていることをちゃんと聞いていれば、さっきも発音の良い英語でちゃんとラフィングって言っていたに違いない。


 ここに至って、私は選択肢を与えられた。


 ……………………


 どうしたらいい?どうするのがベストなんだろう?


 常日頃から優柔不断で、配信者としてデビューして以降、自分のことですら自分で決めてこなかった私は、悩むばかりで答えを出せない。


 ハンドルを握るヤーナは、視線を合わせることはないけれど、私の答えを待っている。


 その雰囲気にさえ私は吞まれてしまって、思考のループから抜け出せなくなってしまう。


「…………じ、ジムショに行きま、……ショウ?」


 なぜか私の返答はカタコトになってしまった。

 ヤーナの表情は変わらない。彼女が望む答えではなかったのだろうか。

 少し進んだビートルが、また停止する。ヤーナがこちらを振り向いた。


「ソウですネ。ジムショに行けバ、スタッフがきっと動いテくれマス。悪いようにハ、ならないでショウ」


 無理して貼り付けたような引き攣った微笑みを、私に向けてくれる。


「……ヤーナ、どうもありがとう」


 私は彼女の優しさに泣きそうになりながら、それだけ伝えた。

 ヤーナの視線が前の車に戻る。


「ダイジョブです。……ゲストを無事に帰すのも、ホストの役目デスかラ」


 ヤーナだって不安なはずだ。自分の国で戦争が始まったのだから、身の安全とか、家族の心配とかきっとあるはずだ。それなのに、何も知らない、右も左も分かってない異国の他人の身の安全を最優先に考えてくれている。


 こんなに自分が情けなく思えることなんて、今まで生きてきた中でない。


 ビートルが右の脇道に入った。


 ビルの間にある駐車場に入って、停車する。


「あの建物デス。行きまショウ」


 ドアが開いて、小さな黒いバッグを肩に下げたヤーナの細い足が、アスファルトを蹴る音が響く。私も慌ててドアを開けて、外に出た。


 迷いなく前を進むヤーナ。本当に頼もしい。


 ちょっと古そうなビルの正面の自動ドアを通り過ぎると、頑丈そうな鉄製のドアが見えた。ドアノブのところに9つの番号が設置されている。銀色のそのボタンを5つくらいヤーナが押すと、ガチャリ、と鍵が開く音が空間に響いた。ヤーナが開いたドアを押さえて、私を招き入れてくれる。


 そういや前に配信で、メジャンナの事務所は昔マフィアが使っていたオンボロビルだ、なんてユリたんが言ってたような気がする。

 薄暗くて、夜にはあんまり来たくないな、なんて私はまた明後日なことを考えていた。緑色の樹脂の廊下を進み、狭い年代物のエレベーターに乗る。ヤーナが3階のボタンを押すと、ゴゴゴ……と音が耳に聞こえて、身体に重力を感じた。


「マネジャが引っ越しタイって、いっつモ言うんデす」


 自嘲するように目を細めて苦笑しているヤーナの顔。私は正直、なんて返したらいいか分からなかった。

 そういや、日本のラフィングの事務所も、いちばん最初は、こんな場所だった。オーディションの時だって、狭い廊下に何人も女の子が並んでて。

 みんな私服だったのに、私だけスーツ姿で行っちゃって、すごく浮いてたなぁ。

 誰にも言ってなかったけど、もし無事に日本に戻れたら、こんど配信で言ってみようかな。


 あの頃が懐かしい。


「昔はね、日本の事務所も、そうだったよ?…………ヤーナとユリたんで、いっぱい稼げばいいんだよ。私たちも、協力するからさ?」


 あえて、私はもう一人のメジャンナのorionメンバーであるユリたんの名前を出した。

 二人には仲良くなってほしい。男女の壁や言葉の壁、人種の壁を越えてorionは一人ひとりが懸命にアイドルをやってるんだ。宗教の壁もあっさりと超えて、私たちはみんなで仲良くアイドルがしたい。


 ヤーナと目が合う。


「それハ…………」


 苦笑だった表情に、少し悲しみとも寂しさとも言えない色が混ざる。微笑みは、崩れなかった。


「……それは、イッパイ稼がないトいけませんネ。センパイに負けないくらい、私もがんばりますネ」


 チン、と鳴ってエレベーターが止まった。ヤーナが迷いなく先にエレベーターを出る。

 私は、どうしようもない無力感を心にチクリと感じながら、すごすごと彼女に続いた。

 また余計なことを言ってしまったんだろう。どうして私は、こう空気が読めないことばかり言ってしまうのだろうか。


 エレベーターを出て右に曲がると突き当りにドアが見えた。ヤーナがコーチの黒バッグから鍵を取り出す。差し込んでドアノブを掴むと、ガチャリと音が鳴った。


 ドアが開かれる。


「…………ユリィ?」


 机とパソコンが並ぶ事務所内。

 その奥に、西日に照らされて、一人の女の子が立っていた。


 直感的に、私は彼女が、orionNNの二人目の1期生、ユリア・アクアマリンだと分かった。

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