The beginning『陰る幸せ』

「まったく……、どうかしてる」


 本当に言葉の通りだから腹が立つ。事なかれ主義だった先人たちを褒めることはしないが、その結果として今の穏やかなこの国があるというのに、どうして政治家達はわざわざ波風を立てるようなことばかりするのだろう。たった数十年前に凄惨な国内紛争を経験したばかりだというのに。


 記憶が風化したのか。この国がそれを、争いを求めているのか。


 なにをきっかけに、安寧としたこの国のバランスが崩れてしまったのだろう。


 分かっている。誰のせいでもないということは。立場上、理解はしている。いつかはそうなることは、明白とは言えないまでも、可能性は残り続けていた。


 あの頃に比べれば、この国の経済は格段に強くなった。


 紛争が終わるきっかけになった、あの未曽有の大地震のあと。


 我々の仕事への予算は軍備拡張というよりは、災害救助や支援のために予算が割かれていた。戦後処理というよりは被災地支援の派兵であり、こちらもそのつもりで、一兵卒だった私も含め皆、がむしゃらに働き続けてきた。


 それはまさに、すべての国民が復興という強い意思のもとに団結した瞬間だった。


 その結果が、その後のこの国の高度経済成長期であり、我々国民一人ひとりの努力の賜物であったはずなのに。


「もはや戦後ではない」


 復興と成長を成し遂げた、当時の大統領の言葉だ。いまでも耳に残っている。

 どこかの国の、大昔の元首の言葉を借りたと言っていた。災害以前のように、もう同じ国の人間同士で争うことはないのだ。そう、私は瓦礫の中で死んだあの男を思い出しながら、大統領の言葉を自宅の古いブラウン管のテレビで聞いて涙したものだ。


 昔の話。


 すっかり、そして、いつの間にか、昔の話になってしまった。


 思わず自分で呟いたその言葉は、今はまるで違う意味に聞こえて、私は溜め息を吐かずにはいられなかった。


 私にはそぐわないと常に思っている、しかし、座らなければならない黒革の椅子に背中を預ける。音も立てない背中のそれが、私に年月が経過する残酷さを教えてくれる。天井に向かっていた視線を下ろすと、大統領の署名が書かれた、一枚の羊皮紙。


 まったく。この現代に羊皮紙なんて仰々しい。ただの無駄遣いでしかない。かといって、派兵命令をメールでもらいたいかと聞かれれば、絶対にもらいたくないわけなのだが。


 目をつむって、目頭を揉む。


 虚ろ気に私を見返す署名欄に、サインをしない、という選択肢はない。


 悲しみは重なる。幾重にも、幾層にも。


 家で飼っていた犬が、今朝、冷たくなっていた。


 復興後に妻と勢いで飼い始めた、ホルスタインみたいなフレンチブルだった。


 妻が好きな映画の悪役が、私の好きな北欧の俳優で、そこからルシフルと名付けた。


 同じ時を過ごして、同じように老いぼれになって。


 妻が病気で亡くなった時だって、ずっと私を慰めるように側にいてくれた。


 不思議と、彼が死んだことは悲しくなくて、逆にそれが不思議に思えるくらいだった。


 明日にでも庭に埋めようと思う。妻が好きだったヒヤシンスの花を添えて。


 そして、これも今日のこと。


 応援していた日本のバーチャル配信者が引退した。


 明るい子だった。若い頃の妻に、話す言葉は違えど何処か声が似ていた。


 彼女のリスナーの中では、きっと私が最高齢だったと思う。


 2年前に妻が亡くなってから、喪失感を紛らわすように、彼女の配信を日常的にラジオ代わりに聞いていた。


 彼女の配信が、日本はもちろん、この国の平和を象徴しているかのような錯覚を覚えながら。


 なにかを学び取れるわけでもない。私が興味の引かれるようなことをしているわけでもない。


 だが、それが良かった。何も得られないが、なにかを確実にもらっている。


 私に子どもはいないが、それこそ孫を見守るような感覚だった。いや、妻の幻影を追いかけているような感覚か。

 今となっては分からない。それこそ、ファン、という言葉がいちばん正しいように思う。


 日本では『炎上』というらしいが、歌手の男性と付き合っているようだ、という情報を知った時は、まるで孫が結婚を決めたかのように思えて、それほど騒ぐことではないだろうに、という感想を抱いていた。


 アイドルだって人間だろう。当たり前のように恋愛をしてはいけない、なんてことが……、いや、皆まで言うまい。


 相手が悪かったのか、運が悪かったのか。


 きっと、誰も悪くなかった。誰のせいでもなかった。


 偶像ではいられなくなった。ただ、その一点だけが悪かったのだ。


 こうして、私の大切なものは失われていく。


 かといって、自暴自棄にはなるまい。

 しかし、私にできることは限られていて。


 結論はすでに決まっている。もう、私にはどうすることもできない。決まっていないのはこの国の未来だけ。未来あすの結末だけだ。


 きっと私たちのルシフルが死んだから、そして日本のバーチャル配信者が引退したから、こうなってしまうのだろう。


 羽根ペンを静かに掴む。


「カイル……、すまない」


 また、この国で……、ネジャンナで戦争が始まる。

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