Legend3,『堕天』

 LAPD――ロサンゼルス市警ウェスト管区の刑事、アッシュ・ケイジは、座っている自身のデスクから、隣に座る若手刑事であるトーマスに愚痴をこぼした。


「どうしろっていうんだよ、トム。あのフリーク。しかも聞いたら女だっていうじゃないか。女にも見えなかったぞ、俺は」


 トーマスはと言えば、たっぷりと肉を蓄えた二重顎を上げることもせず、パソコンで事務作業を続けている。アッシュの愚痴はいつものことだ。眼鏡を軽く上げてから、彼は面倒そうに口を開く。


「女性刑事に頼んだらどうです?」


 いつもなら独り言じみたアッシュの愚痴は無視するに限るのだが、名前を呼ばれてしまったらそうはいかない。


 さきほど逮捕された二十代の女性は、自分がグウェン・アラネアだと名乗った。自宅のマンションの外で暴れた、と聞いている。


 世情に疎い二人でも、歌姫グウェン・アラネアの名前は知っている。

 偽名に違いない、とトーマスは確信しているが。


「二日前のくだらないギャングの抗争事件で、みんな忙しいんだ。俺かお前で、聴取に行くしかないんだって、全部言わなきゃ分からないか?」


「え?」


 ようやくトーマスがパソコンのディスプレイから目を離す。いつもはうるさいくらいに賑やかな警察署内のギャング・麻薬捜査課が、机だけ残して閑散としてしまっている。隣で、顎に髭をたくわえた頭の禿げあがった壮年の先輩が、いつの間にか立ち上がり、自分を見据えている。


「あ……、そういうことでしたか。すみません、鈍くて」


「お前が鈍いのは分かってるから問題ない。それよりも、お前、あいつのことまだ見てねぇだろ?目玉が飛び出るぞ。……いや、あいつの目玉が飛び出してたんだったな」


「なにを言って……、どういうことです?」


 意味がわからない、とでも言うように、トーマスが聞き返す。ぷい、とアッシュは目を逸らした。


「知らねえよ。とにかく化け物だ。電動の車イスに乗っててな。俺は『羊たちの沈黙』を思い出したよ」


 再びトーマスに顔を向けて、口から唾を飛ばしながらそんなことを言う。

 その映画は、昔、トーマスもDVDで観たことがあった。アッシュなら映画館で公開当時に観てそうだな、とも思ったが、口にしないでおく。


「口に拘束具を付けられたアンソニー・ホプキンスですか?」


 問いにアッシュは、首を横に振った。


「違げーよ。……あ。『羊たちの沈黙』じゃなかったかもしれん。車イスの化け物が、たしか……、レクターに蹴り落とされるんだったか。いや、続編だったかな……?」


「俺に聞かないでくださいよ」


「とにかく、だ。早く取り調べねえといけねえ。本当に歌姫で金があるなら、弁護士を呼ばれちまう。嘘だとは思ってるが、あんな高級マンションに住んでるくらいだからな」


「あー……、もう遅いんじゃないですかね?」


 出口の方を眺めながら、トーマスが遠慮がちな声を上げた。その声に噛みつくように、アッシュが反応する。


「あ?弁護士が来ちまったか?」


 アッシュが振り返ると、そこには大柄な、グレーのスーツを着た男が立っていた。署長のライオネル・マクマホンだった。


「さっき逮捕された女の取り調べは、見たところ、まだのようだな?」


 大きな瞳がアッシュを見据えている。厚ぼったい唇から出る重低音はいつも、聞く者を威圧する。


「尿検査の結果待ちです。署長、まさか釈放なんていうんじゃないでしょうね?ラリってマンション中を叫び回ったんですよ?電動車イスを爆走させて。駆け付けた警官も、義眼が外れるのも構わずに殴ってきた、噛みつかれたって言ってるんです。立派な公務執行妨害ですよ」


 その威圧感に負けじと、手ぶりを交えながらアッシュが食い下がる。ライオネルがなにか念じるかのように両目を閉じた。


「弁護士が言うには、彼女は3ヵ月ほど前に銃で撃たれたんだそうだ。それで、痛み止めのモルヒネを服用していた、と。だから、尿からアヘン系薬物の反応があったとしても逮捕される理由にはならないってのが向こうの言い分だ。末期ガンじゃあるまいし、モルヒネを痛み止めって、無理があるにも程があるんだが、ご丁寧に診断書まで持参してきてな。医者にいくら金を渡したのか知らないが。……これから自宅を捜索するとなっても令状がいる。もしドラッグをやってたとしても、きっと令状を準備してる最中に、全部処分されてしまうだろう」


「そんな…………」


 アッシュはそれきり、言葉が続かない。


「保釈金を支払われてしまった以上、拘束していられる理由がない。……すまんな、アッシュ」


 握った拳を力なく降ろして、アッシュは俯きながら顎髭を撫でた。


「署長も知ってると思いますが、俺はね、親父と弟をドラッグで亡くしてるんだ。クスリをやる奴なんて碌な奴じゃない。ドラッグをやって作った音楽だってそうだ。ドラッグやって歌ってる奴らだって、クソ以下だ。俺からしたら、そんなもんになんの価値もない」


 早口で訴えるアッシュの肩を、ライオネルは優しく叩いた。


「わかっている、アッシュ。でも今回は抑えてくれ」


 その手を、アッシュは感情に任せて振り払う。


「俺は認めない!この街からドラッグがなくなるまで、俺は諦めたりしねぇからなっ」


 人差し指を突き出し、その勢いのまま、廊下に向かって歩き出した。


「待て、アッシュ」


「いーや、待てねえ。あの化け物にひとこと言ってやらなきゃ、俺の気が収まらねえっ!」


 トーマスは二人の言葉の応酬をずっと見守っている。この二人は同い年の同期だったらしく、バディを組んでいたこともあるらしい。以心伝心の仲だ、とも聞いている。


「それだよ」


 いつもより更に低いライオネルの低音に、部屋の空気が震えた気がした。

 アッシュが立ち止まり、振り返る。


「向こうの弁護士はもう来ているんだぞ?そして相手は自称ストリーマーだ。SNSを使って、なにをしてくるか分からない。障害を抱えた若い女性に対して、間違っても化け物なんて言ってみろ。それだけで、お前が社会的に抹殺されてしまう可能性だってある。署内の問題であれば、俺が責任を取れば済むことだ。だがな、お前の懲戒処分の書類に、俺はサインなんて書きたくない。……大人になれ、アッシュ」


 二人はお互いに目を逸らさない。そんな間が、数秒あった。

 ため息を吐いたのは、アッシュだった。


「なあ、相棒。覚えとけよ、とか、次はねーからな、ぐらいはいいだろ?」


 ライオネルは彼の言葉の途中で、子犬のような目になってしまったアッシュの目を見つめながら、すでに首を横に振っていた。


「ダメだ。若い頃から見てきたが、お前がそれだけで済んだことなんて、今まで1度もなかったじゃないか」


 こうして、麻薬取締法違反容疑で逮捕されたグウェン・アラネアは、保釈金26,000ドルを支払って釈放された。

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