おまけ

今はまだ、あなたのいない日(1)


     ★     


 やることが多すぎると心を亡くします。ここからいそがしいという文字が生まれました。

 皆さんは常に余裕を持ちましょうね。忙しさにかまけて冷たい人にならないように。冷たい人には誰も寄ってきませんからね──。


 かつて香奈かな山田隆幸やまだたかゆきだった頃。

 それも小学生の頃に担任の先生が教えてくれた「小話」を何度思い返しただろうか。


 夕飯の洗い物を終えた彼女は、おぼつかない足取りでソファに倒れ込む。

 大阪のマンションから新居に持ち込んだソファにはファブリーズの匂いが染みついている。


(ボロボロやし新品に替えたいけど、そうやって「次の予定」ばっかり立ててたら発狂してまうわ)


 香奈は壁に掛けられたカレンダーを引きちぎりたい、と考えていた。

 実際、月末を迎える度にそうしてきた。引っ越し。手続き。自動車教習所。小学校の入学式。教材の名前入れ。日帰り旅行。買い出し。学校の行事。エトセトラ。あらゆる予定が書き込まれた上質紙をびりびりに引き裂いてきた。

 達成済みのタスク表をゴミ箱にぶち込む時だけが、彼女の心を自由にしてくれた。


(今月はまだやってへんな)


 彼女は立ち上がり、カレンダーの「4月」をミシン目に沿う形で引きちぎる。まだ28日やけど別にええやろ。


「えっ」


 香奈は目を丸くする。

 見れば、翌月(5月)の予定は大型連休を含めて、ほとんど真っ白に近かった。ユウイチの奴。怠けてるんとちゃうか。

 彼女は同居人に目を向ける。


「ユメちゃん。もうちょっと待ってなー」


 夕食を終えたユウイチは一心不乱にテレビの配線をいじくっていた。

 どうも愛娘から「アマプラが死んだ」とのクレームを受けたらしい。HDMIの分配器を再起動させ、ようやくディスプレイ上に動画配信サービスの紋章が浮かび上がった。

 六歳児が満面の笑みを浮かべる。


「ユウちゃんありがとう!」


 彼女はさっそくとばかりに対面のソファに座り、リモコンをいじくってアニメを流し始めた。

 例によって『銀河英雄伝説』の旧作版だった。


(もう3周目やのに、よう飽きひんなあ)


 香奈は少し呆れてしまう。隙あらば放映されているものだから、母親の香奈自身も半ば内容を覚えてしまった。

 まだ同盟側の主人公ヤン・ウェンリーが生きている。副官のフレデリカと仲間内で結婚式を挙げているシーンだ。

 銀河の趨勢を巡る大戦争には敗れたが、彼らなりに平穏な幸せを手に入れた……はずだった。しかしながら時代は『不敗の魔術師』の退役を許さない。銀河の歴史は怒涛の展開を迎えていく。


「なあなあ。ユウちゃんとあーやんは結婚式せえへんの?」

「たしかにしてへんなあ」


 子供の無邪気な問いかけを、名目上「旦那」とされる人物は聞き流してくれなかった。




――――――――――――――――――――


『あなたのいない日』 作:生気ちまた

 おまけ 今はまだ、あなたのいない日


――――――――――――――――――――




 翌週。香奈たちは自家用車ファミリーカーで長野県松本市の中心街に向かっていた。

 大型連休ゴールデンウィークの中盤ということもあり、幹線道路は普段より混んでいるように見えた。お城目当ての観光客が来ているのだろう。


 香奈は助手席から運転席の男性をにらみつける。


本当ほんまに撮るん?」

「ユメちゃんが撮りたいうてるし、ええ機会やろ。ウェディングフォト。式やるより大分だいぶ安いで」

「その金で『かに道楽』行けるやん」

「長野には無いわ」


 ユウイチの唇が緩む。

 ウェディングフォトとは結婚式の格好で記念写真を撮ることだ。松本市内にもスタジオがあるらしく、彼が予約を取ってくれていた。

 面倒めんどくさいなあ。

 香奈は後部座席で寝息を立てる「原因」を見つめる。いつもながら愛らしい寝顔だが、近頃は成長の気配が見え隠れするようになった。幼児から子供になり、やがてどんどん大きくなっていくのだろう。


「ユメも小学生やねんから、あんまワガママわんといてほしいわ」

「そう言うなや。オレかて記念の写真をリビングに飾りたい。お前の……香奈の晴れ姿も残しときたいやん」


 ユウイチがあえて名前を言い直したことに、香奈は少しのありがたみと申し訳なさを感じる。

 こいつは香奈の旦那やけど、山田おれは香奈じゃない。あの女にはなれない。

 そしてユウイチも、おれが彼女そのものになることを望んでいない。お前らしく生きたらええやんけと言ってくれる。

 せやけど。

 やっぱり女性である香奈おれのことが好きらしいのは言葉の端々から伝わってくる。

 それにどこまで応えたらいいのか、今ひとつわからへん。


 香奈は傍らの仏頂面を見やる。何となく相手の左耳をつまんでみる。もちもち。少し脂っぽい。


「まあ、お前が写真欲しいなら仕方しゃあないけど」

「やめえや」


 ユウイチはそう言いながらも振り払ったりしない。

 やがて彼はゆるやかにハンドルを切った。ロードサイドにスタジオの看板が見えてきていた。



     ★     



 欧州の別荘みたいな施設に入り、非常に腰の低い女性スタッフの手で更衣室に案内される。

 奥様こちらへ。お子様もこちらへどうぞ。

 客商売も大変やなあ。香奈は口元を抑えながら彼女たちの指示に従う。


 更衣室にはいわゆる純白のドレスが飾られていた。愛娘のユメが「あーやんようやー」と指を差す。


「そうやで。ユメは小学校の標準服でゴメンなあ。どっかでうたったら良かったわ」

「ユメ制服好きやし!」


 なぜか彼女はビシッと背筋を伸ばしてくれた。本人が満足してるならええか。さすがに自由惑星同盟の軍服を用意するわけにもいかんし。


 香奈はスタイリストの女性にドレスを着付けしてもらう。

 化粧もお任せする。どちらも香奈にとっては興味の範疇はんちゅうに無いものだが、姿見の前で出来映えを見せてもらった時は多少なりとも心が動いた。


(どう見ても花嫁さんやな)


 肩を出したドレス。純白の手袋。オフショルのレースの飾り。足元まで続くスカートの布。

 香奈は飛び抜けて美人というわけではない。彼女の母親も「あんたは十人並みや」と評していた。

 ただ化粧や服装で日頃の薄幸そうな印象を拭ってやると、ほんの少しくらいは人目を惹くこともある。


 スタジオで花嫁の到着を待っていた洋装の男性も珍しく目を輝かせていた。


「オレ、今日ここ来て良かったわ」

「ユウイチにそう言ってもらえるなら、自分も来た甲斐があるわ」

「じゃあユメちゃんと3人で撮ってもらおか。すんませーん」


 ユウイチが手を挙げる。

 彼の格好はややグレーの入った白い洋装で、いつものスーツとは対照的な明るい色合いが妙に似合っていた。

 そうなると愛娘の濃紺色の制服が目立ってしまうが、そこはスタッフの提案で上着のブレザーを脱いでもらうことにした。

 3人の衣装が白くまとまる。

 パシャリ。パシャリ。みんなで椅子に座ったり、窓際に立ったり。ユメを抱きあげたり。様々なシチュエーションでシャッターが切られていった。


野口のぐち様。こちらでよろしいでしょうか。アルバムですと、このような雰囲気に……」

「はい完璧です。ありがとうございます。後で送ってください。楽しみにしてますんで」

「今すぐデータもお渡しできますよ」

「それはもう是非」


 写真の取捨選択や編集についてはユウイチに任せておいた。

 彼のほうが香奈を愛しているだろうから。香奈は口出しするつもりになれない。あんまり良し悪しわからんし。


「ありがとうございましたー」


 香奈たちはカメラマンとスタッフの方々にお礼を告げ、再び更衣室に戻る。


 途中、エントランスのあたりで別の子供連れとすれ違った。

 あちらの家族はウェディングフォトではなく単純に家族写真を撮りにきたようだ。余所行きの格好に身を包んだ幼稚園児の姉妹が、夫婦の足元で楽しげに走り回っている。

 あの子らはユメより3つくらい下やな。可愛らしい。

 香奈はスタジオに向かう子供たちをさりげなく見送る。多分行き先など関係なく、あの子たちにとっては毎日が楽しいイベントなのだろう。そんな気がした。


「あーやん」


 我が子から声を掛けられた。少し語気が強い。

 なんや浮気を咎められた気分やな。香奈は「なに?」と笑みを返す。


「ユメの誕生日。今年はゲームいらん」

「プレゼントのことやな。ほんなら何が欲しいん。五千円以下やで」

「妹欲しい」


 ユウイチに抱かれたままの愛娘が両手を合わせてくる。

 香奈は思わず目線を上に向ける。ユウイチの方は無愛想な顔が普段以上に凍りついていた。

 それは五千円では手に入らんわ。

 もうちょい、もっとかかる……。

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