心の折りかた(2)


     ★


 浅井香奈が生まれたのは二十六年前、奥河内の片田舎だった。

 父親の転職により一家は藤井寺ふじいでら市に移り、幼少期の彼女は公営住宅で育った。小学校時代から男女混合の友達グループで遊ぶことが多く、地元のショッピングモールのフードコートを根城にしていたらしい。


 やがて周りと同じようにお洒落に目覚め、地元の公立中学に入り、彼氏を作り、みんなで天王寺や難波を巡り──かつて佐奈川が本人に見せてもらった写真によれば、当時の香奈は相当自由で愉快な日々を過ごしていたようだ。天下無敵の少年少女たち。自信にあふれたVサイン。

 それらは親の放任の裏返しでもあった。


 浅井聡美あさいさとみが子育てを諦めたのが「いつ頃」なのか、佐奈川の知るかぎりでは定かでない。

 ただ、聡美は早い段階で娘の生き方に自ら口出ししなくなり(あるいは出来なくなり)、ある時から旦那に、旦那が死んでからは香奈の友達に対し「香奈のことはあんたに任せたわ」と言い放つようになったらしい。香奈の学校の成績が芳しくなくても勉強しろとは言わず、塾に行くように促すこともなく、ただ笑うだけ。


 そんな彼女だから、香奈が彼氏と結婚するために高校を退学すると言い出しても、全く怒らなかった。

 むしろ彼氏の方に「出来損ないの娘をよろしくお願いします」と頭を下げていたという。


 京橋の某雑居ビル。小洒落こじゃれたワインバーのカウンター席で、佐奈川は語る。


「ワタシが思うに、あれは呪縛なんだよ」

「呪いですか」

「香奈ちゃん自身を縛りつけていた言葉の呪縛。ユウイチ君には親に見下され続けた子供の気持ちがわかるかい?」

「いや……」

「ワタシが健全な自尊心を育めたのは誰よりも勉強が出来たからさ。自分の力で他者を救えると教わったから、いや信じたんだ。その点で昔の香奈ちゃんは……ずっと流されて、ただよってる感じだったよ。常に不安で張りつめててさ。ちょっとしたことでキレちゃうけど、何というか打たれ弱くて。独りにさせたくない子だった──」


 佐奈川が初めて香奈と出会ったのは六年前だった。

 高校中退後、婚約していた彼氏と別れた香奈は友人からある男性を紹介され、約三ヶ月の交際を経て結婚した。

 その男性にタバコの先端で『根性焼き』を付けられたことをきっかけに、香奈が逃げてきた先が、当時佐奈川とビジネスパートナーが構えたばかりの北区の弁護士事務所だった。

 スマホ片手で玄関に現れた香奈の右頬には殴られた痕があったという。


「普通さ、暴力を振るうにしても目立つところには外傷を残さないもんでしょ。ワタシが訊いたら、ずっと外に出してもらえなかったみたいで」

「…………」

「香奈ちゃんが門限を破った罰? だか知らないけど、あの男がレストランで料理人をやってる間、彼女は自宅に閉じ込められて。戻ってきたらセックス。強引に力づくで。ご飯だけは美味しいものを作ってくれたみたいだけど、それ以外の時はお風呂でも布団でも、ずっと身体をいじりまわ……ごめん、ユウイチ君。君にとっては絶対に気分の良い話じゃなかったね」

「大丈夫です」

「ごめんごめん」


 膝の上でずっと手を握ったまま「何か」を堪えている青年の背中を、佐奈川は軽くさすってやる。


(あの時もこんな感じで、香奈ちゃんの痩せた背骨を指先でなぞったっけ)


 証拠を残すために服を脱いでもらい、全身の傷跡を写真に残しているうちに、お互いに感極まってしまった瞬間を思い出す。


 当時の佐奈川は迅速に動いた。当初は旦那と別れるつもりがなかった香奈を説得し、私にも悪いところがあったと涙を流す彼女を励まし、病院や市役所の相談窓口まで付き添った。

 役所担当者の判断で香奈には一旦避難施設に行ってもらい、代わりに佐奈川があの男に離婚届を突きつけた。


 やや強面こわもてだが人当たりの良さそうな大男は、大東市だいとうしの自宅に乗り込んできた弁護士たちに困惑していた。


『DV? なんかの間違いや。俺ら夫婦がそんなんするわけないがな』

『香奈さんの身体には殴られた痕、タバコの火を押しつけられた痕、爪を剥がされた痕、引っかき傷、強く掴まれた痕がありましたが?』

『たぶん自分でやりよったんや。あいつは、香奈はたまに人の気を引こうと、いらんことしよるんです』

『つまり、彼女の自作自演だと』

『不出来な嫁が、ご迷惑かけてすいません。ちゃんと教育しときます』


 大柄な男性が沈痛な面持ちで頭を下げてくる。

 佐奈川は喉の奥からこみあげてくるものをグッと堪えた。白々しい。食器棚の引き戸が外されているのは何かの拍子にガラスが割れたからだろ。リビングの壁の石膏ボードに穴が空いているのは、何かを強くぶつけたからに決まってんじゃん。ティッシュとゴミで散らかった床、乾いた血痕、カピカピのバスタオル、へこんだ発泡酒の空き缶、ガムテープの切れ端、人間臭い部屋の中の全部が物語ってるんだから。


 彼女は相手の態度から長期戦さいばんを覚悟した。さっそく近隣住民から連日連夜の「物音」についての証言をもらい、香奈のスマホに残っていたLINEのメッセージや日記などを保存させた。


 ところが争いのゴングを鳴らすより前に──大男から判子の押された離婚届が送付されてきた。


『香奈が別れたいなら別れます』


 そんな手紙が同封されていた。


 かくして香奈は自由の身となったが、その頃には彼女のお腹は徐々に膨らんできていた。


「ユメちゃん、か……」

「そうだよ。ワタシもユウイチ君も大好きなユメちゃん。あの時の香奈ちゃんには助けが必要だった。お金のことは色々できたけど、傍らで心と身体を支えてあげられる人がいなくてさ。だから彼女には肉親を頼ってもらった」

「あいつの母親は……」

「我ながらミスチョイスだったね」


 あの時ああしていれば。佐奈川はたまに自問自答を強いられる。いっそ香奈ちゃんを北浜の自宅に呼び寄せ、子供が生まれるまで住んでもらえばよかった。


 身重の体で実家に戻った香奈は、陣痛が始まるまで母親から幾度となく『旦那に許してもらえ』と復縁を迫られた。


『あんたの妄想に付き合おうて、あの人は一旦別れてくれはったんや。今もあの家で待ってはる。あの人泣いてはったで、うちの前で!』

『そら多少、てぇ出されたんかもしれへんけど。そんなんあんたがドンくさいことするからやろ。ママの代わりにあんたをまともにしてくれようと、いやもう、ほんまにありがたい人やないの』

『あんたが独りでガキ育てられるんか? 稼ぎもないのに、ずっとママの家におったらええと思ってるん?』

『子供もパパおらんと寂しいやろ。あんたが一番ようわかっとることやん。意地張らんと、はよ住道すみのどうの家に戻り!』


 怒鳴られ続ける日々。時に香奈がキレて言い返しても無駄だったらしい。


 香奈が説き伏せられずに済んだのは、我慢ならず佐奈川に電話をかけたからだ。

 佐奈川はすぐに彼女を適当な口実で検査入院させ、他の案件に忙殺されながらもコミュニケーションを取るように心がけた。

 時間稼ぎの入退院を繰り返した末、香奈は七時間かけて三千グラムの赤ん坊を産んだ。そして抜糸が済んでも藤井寺の実家には戻らず、布施のアパートに移り住むことになった。


「ワタシが密かに借りておいたんだ」

「それであんなとこにおったんですか」

「ユウイチ君、一介の余所者としては布施って住道や枚方ひらかたより都会で良いところだと思うよー。映画館もあるらしいじゃん」

「枚方より都会は盛り過ぎですって。あとラインシネマはつぶれました」

「えーっ……ボランティア仲間が自慢してたのに……」

「昔、香奈に会いにいくついでによぉ行ってましたわ……ああ、あのアパートのことは香奈の母親に伝えたんですか」

「まさか。たぶん転落事故の時に居場所がバレたんだと思う。病院までお見舞いに来ていたからね」


 五年前。ある駅で足を踏み外し、大学生を突き落としてしまい、状況を受け入れられず錯乱状態となった香奈が収容された病室に、浅井聡美が現れた。警察が連絡したようだ。

 彼女は受け答えが困難な娘の姿を直視できなかったのか、二・三言だけ話して去っていった。


 あの日から二人が再び連絡を取り合うまで、数年間の空白期間があった。ちょっとした手続きの話で香奈が電話をかけたらしく、聡美は随分と驚いていたという。


「逆にあの状態の香奈ちゃんを放っておける、関心を持たずにいられる性根が信じられなくてさ。ワタシは二度と二人を繋げたくなかった。なぜか香奈ちゃんのほうは特に恨んでないみたいだけど」

「そりゃそうでしょうね」

「例の記憶障害のせいかなぁ。実際さ、五年前の事故から、あの子は変わったもん。全部忘れちゃって、呪縛から解放されたみたいだった。死んだ男の子には申し訳ないけどさ。香奈ちゃんにとっては、あれが救いになったのかも」

「……残酷な話や」

「そう?」


 チリ産の赤ワインを口に含む佐奈川の傍らで、ユウイチが静かに手を合わせている。まるで死者を悼むかのように。

 佐奈川はヘビーな香りと味わいを楽しみ尽くし、グラスをカウンターに戻した。


「まだ終わってないよ」

「いや先生のグラス、空ですやん。すみません大将、この人にフィンカ・パタゴニアもう一杯」

「そういうことじゃなくてさ。いいかい。浅井ママが探りを入れてきて、あの大男がまたやらかすかもしれないんだよ。あんな香奈ちゃんをバカにした、人間としてたっとばずに『もの』としか見てないような連中にワタシたちの大切な人を傷つけられたくない、ユウイチ君もそうだろう?」

「殺しますか?」

「ダメだよ」


 友達から漏れてきた『本音』に釘を刺す。

 それが例え、たった一つの冴えたやり方であっても、佐奈川には許容できない。


「ユウイチ君。君子危うきに近づかず、それしかない。何も一生、愛する故郷を離れなくたっていいんだ。安全になるまで東京でも横浜でも、一時的に」

「わかってます。先生。そううて欲しかったから、先生にうたんです。本気やったら今言いません」


 ユウイチの唇から赤いしずくがこぼれていた。

 佐奈川はハンカチで拭ってやる。ワインの色ではなかった。



     ★     



 男性の堅そうな頭髪にはさみが入っていく。

 比屋根愛海ひやねまなみは昔から父の仕事ぶりを眺めるのが好きだった。

 抜かりなく丁寧で軽やかな手捌き。

 お客様に話しかけないのは常に指先の感覚に意識を傾けているから。


 もちろん相手に声をかけられたら、客商売なので愛想よく応えている。


本当ほんまに助かったわ。今度女と会うんやけどな、うちの近所の床屋閉まってたもんやから」

「お見合いですか?」

「久しぶりのデートみたいなもんや。男前にしたってや」

「はい。整えさせてもらいますよ」


 父の手で短髪が切り揃えられていく。

 次いで右耳の辺りに鋏が入り、細かく削いだ毛先を櫛で落としていきながら──「おいゴラァ!」突然の怒号。


 ドスの効いた声に愛海の身体が縮こまる。

 何があったんですか。


「何さらすねんお前! さっきから痛いんじゃ! 櫛がガシガシ耳に当たっとるねん!」

「す、すみません」

「勘弁してくれや! 血だらけで香奈と会え言うんか! もっと優しくやってや!」

「失礼しました」

「わし、痛いの嫌いやねん。頼むでホンマ」

「はい」


 父の端正な顔が珍しく強張っている。

 きっと言いがかりをつけられたんですね。許しがたい客です。後でお父さんの肩を揉んであげましょう。


 それにしても……このあたりでカナといえば、商店街の副代表で魚屋のおばちゃん(63)、カラオケスナックのヤンママ(51)、薬局のバイトさん(33)、そして浅井香奈さんですが……どなたとデートなさるのでしょう。

 香奈さんには(偽装彼氏ですが!)ユウイチさんがいますから、薬局の加奈さんでしょうか。あの人、すごく気が弱そうなので相性が心配になります。


「おおきに。大きい声出してもうてすまんな」

「こちらこそ気がつかず、すみませんでした」

「もっと丁寧に仕事しぃや! ありがとう!」


 大柄な男性が店を去っていく。

 愛海は何となく後をつけてみることにした。


 もし薬局の加奈さんが辛そうだったら、天才の知恵で助け船を出してあげましょう。

 店長が倒れました! と叫びながら手を引いてやります。完璧ですね。

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