心の折りかた(1)


     ★     


 あの時、ああしていれば良かった。

 そんな後悔に苛まれる夜もある。


 香奈にとって「あの時」は五年前の転落事故であり、去年アパートの鍵を開けてしまった時であり、愛娘ユメがいない夜に友人を招き入れてしまった時であり……数え上げたらキリがない。朝日が出るまで余裕で悩み続けられる。


 至近では、母親からの電話に出てしまったことに後悔していた。


『なあ。今日、八月十三日やで。バリバリお盆やろ。あんたはユメちゃんをお父ちゃんに会わせたいって思わへんの?』

「ごめんなさい」

『ママかて孫の顔を見たいねん。河内長野かわちながのに来たないなら、ママがそっちに行ったろか』

「それも無理なんです。すみません。堪忍してください。電車が来るので切ります──はあ。ここんとこ毎日のように電話掛けてきはるんです。田舎の一人暮らしにいてるんですかね、先生」


 地下鉄長堀鶴見緑地線・心斎橋駅のカラフルなプラットホーム。白線の内側で香奈は母親の寂しげな姿を想像し、ため息をつく。


 浅井聡美あさいさとみ。香奈にとっては実母だが、山田にとっては赤の他人にあたる。

 なにせ、今まで一度しか会ったことがない。連絡もほとんど取ってこなかった。

 何なら佐奈川のほうが相手のことをよく知っているくらいだ。


「ワタシの印象で申し訳ないが、電話には出ないほうがいいかもね」


 両手に紙袋を抱えた女性弁護士が、眼光を鋭くさせる。


「それはさすがに。わたしの母親ですから。娘のおばあちゃんでもありますし」

「君が受けた仕打ちを思い出したまえ。旦那に殴られても『香奈が悪い』の一点張り。君が布施に逃げた時も『旦那に謝れ』『家に帰らせてもらえ』と迫ってくる。ワタシがどれだけ反論したか!」

「佐奈川先生。今日は楽しいお買い物ですよ」

「おっと……そうだったね。こんな話は心斎橋に似合わない」


 佐奈川は紙袋の中を覗き込む。右手側には百貨店のスイーツフェアで仕入れた洋菓子が詰め込まれている。左手側は仕事用の革靴とシャツ。

 彼女は満足げな笑顔を浮かべたが、まだ思うところがあったらしい。


「でもさ。一応気をつけてよ。あの人が根本的に君のことを、つまりワタシの大切な友達のことを不当に見下しているのは間違いないんだからね」

「出来損ないの女、ですか」

「許しがたいよ」


 佐奈川の怒りっぷりに香奈は苦笑することしかできない。


(所詮は他人の悪口やしなあ)


 風を押し出しながら、門真南かどまみなみ行きの地下鉄が到着する。


 香奈は蒲生四丁目で降りるつもりだったが、佐奈川が一駅前の京橋駅で手を引いてきた。


「久しぶりにサシで呑まない? この前、仕事仲間に鴫野しぎのの創作割烹を教えてもらってね。カツオのタタキが絶品なんだ」

「なんや旨そうですね……でも、ユメがマンションで待ってますし」

「ユウイチ君が預かってくれているんだろう。たまには彼に任せてさ、乙女の味蕾みらいを喜ばせようじゃないか。あっちにはピザを送っておくよ」

「チーズンロールでお願いします」

「ユメちゃんは将来太りそうだね~」

「いや、ユウイチがあれ好きなんですよ。モッチモチやから」

「そっか」


 香奈の説明に、佐奈川は穏やかな微笑みを見せた。



――――――――――――――――――――


『あなたのいない日』 作:生気ちまた

 第七話 心の折りかた


――――――――――――――――――――



 あの時、ああしていれば良かった。

 ユウイチにとって「あの時」は一つしかない。


 香奈とは本音の話でギクシャクした時期もあったが、こうして彼女の家に入れてもらい、彼女の愛娘を預からせてもらっている。

 以前と変わらず、友達として信用されている証だ。結果良ければ全て良し。他に何を望むというのか。


(大体、過去を書き換えたところで香奈やまだがオレに惚れてくれるとは思えへんし)


 今夜の彼女は弁護士と呑むらしく、マンションには夕食用にピザが送られてきたが、先週の金曜日には娘の送迎のお礼として手料理をご馳走してもらった。


「あん時のアスパラガスのベーコン巻き、美味かったなあ」

「右に同じ」

「ユメちゃん。こっちは左や」

「知らんもん」


 あらら。ユメちゃんの機嫌を損ねてもうたかな。でも、チーズンロールの耳を差し出したら、すぐに笑顔になってくれるねんな。オレもそれ好きやねんけど。

 ユウイチはコップの氷をペットボトルのコーラで溶かす。ついでに喉も溶かす。

 ユメも紙パックの野菜ジュースを勢いよく飲み干していた。


「ぷはぁ。ユウちゃん、ブロージット!」

「アニメ観たいんか? 先発の伊藤将司いとうまさしが踏ん張ってるから、もうちょっと待ってくれな」


 テレビの野球中継。技巧派の左投手が相手打者を空振り三振に抑えた。二者残塁。

 虎党のユウイチとしては名残惜しいが、サンテレビからネット配信サービスに切り替えようとリモコンに手を伸ばす。


 ガチャリ。

 玄関の方向から物音がした。間髪入れずに足音とビニール袋が近づいてくる。香奈だった。


「ただいまー。ユウイチお疲れ! 阪神負けてるなあ」

「おお。先生と呑みに行ったんとちゃうんか?」

「予約してなかったから店閉まっててん。あ~ユメ~、ピザ美味しかったー? 佐奈川先生連れてきたでー」


 余所行きの格好の香奈はキャスケット帽を外し、ビニール袋をキッチンに持っていく。


 入れ替わりにスーツ姿の弁護士が疲れた様子でソファに座ってきた。

 途端に五歳児の目が輝く。


「ジャスティス!」

「久しぶりだね、ユメちゃん。お肌焼けてるねえ。ワタシも砂浜でお尻の『正義ジャスティス』をみんなに見せつけたかったよ」

「今からユニバ行く!?」

「わはは。今日はお家で遊ぼうね。さてユウイチ君、ちょいと大人同士で連れションに行かないかい?」


 佐奈川の誘いにユウイチは渋い顔になる。

 今日の先生、なんやテンションおかしいっぽいな。先々週の海水浴に呼ばれへんかったん、相当根に持ってはるんやろか。


 表面的な謝罪のパターンをいくつか用意しながら浅井家の洗面所に向かうと、佐奈川がなぜか耳元でささやいてきた。妙な距離感の近さに、ユウイチは少し緊張を強いられる。


「……ユウイチ君。君の手で香奈ちゃんからスマホを拝借してくれないか」

「窃盗罪」

「十年以下の懲役または五十万円以下の……すぐ返すに決まってるじゃん。パスワードはたしかユメちゃんの誕生日だったろう。チャチャっとやりたいことがあってさ」

他人ひとのアマゾンで変なもん買わんといてくださいよ」

浅井聡美あさいママの番号を着信拒否リストに追加させたいんだ」

「どういうことですか」

「たぶん『居場所』を探られてる」


 佐奈川は神妙な面持ちで語る。


 執拗に孫娘との面会を求めてくるのは理解できる心理だが、連日のように何度も電話をかけてくるのは明らかにおかしい。

 出先であろうが、在宅であろうが、時間を問わず着信が入っているあたり、おそらく情報を集められている。


「例えば……香奈ちゃんが電話を受けた時、たまたま地下鉄の蒲生四丁目がもうよんちょうめ駅にいたとしたら、アナウンスが入るよね」

「『まもなく門真南かどまみなみ行きが参ります』みたいな奴ですね」

「最悪なのは駅に到着した時の『蒲生四丁目、蒲生四丁目です』だよ。その時点で居場所を絞られちゃう。何回も聞かれたら、住所だと目星を付けられる」

「すげえ、プロのストーカーみたいや」

「これでもストーカー対策のプロだからね。問題は浅井聡美の目的だよ。本当にユメちゃんに会いたくなったのかもしれないけど……そうじゃなかったら、どうしたものか」

「あの野郎ですか」


 ユウイチは何となく察してしまう。

 あの大男が独り身になったタイミングで、長らく半断絶状態だった浅井聡美から香奈に電話が掛かってくるようになった。

 そこに何らかの繋がりがあるとしたら。ユウイチも佐奈川と同じく頭を抱えるしかない。


 あのアホたれ。一年前の件で執行猶予中のくせにまだ近づいてくるつもりなんか。クソが。やっぱり「あの時」に、ああしといたら良かったんか。香奈やまだが一生怖がらんで済むように、あいつを。


「はあ。全部杞憂だったら良いのにねえ。ただ浅井ママには前科があるし、偶然にしては出来すぎ! 怖いよ、もう!」

「前科?」

「布施のアパートをあの男に教えたのは、ほぼ間違いなく浅井聡美だよ」


 佐奈川の説明に、ユウイチは自分の芯が冷たくなるのを感じる。

 極めて冷静に他人を憎んでしまった。


「香奈に直接言いましょ。そんな奴の電話に出たらあかんって」

「ユウイチ君。全部包み隠さずに言っちゃえば、あの子はまた外出できなくなっちゃうよ。ユメちゃんも幼稚園に通えなくなる」

「せやから未然に防ぐためにスマホを盗め、と?」

「本当は創作割烹で香奈ちゃんをベロベロに酔わせた隙に、こっそりポチポチしちゃうつもりだったんだけどね。ユメちゃんの前だとあの子、あんまり呑まないからさ」

「お母さんやってますからね」

「お母さんか……本当さ、香奈ちゃんのママが子供の味方になってくれる人だったら、あの子はあそこまで苦労せずに済んだと思うんだよ……ワタシは常々さぁ……」


 佐奈川は洗面台にもたれかかる。華奢な指先が耳たぶを揉んでいた。彼女の癖の一つだ。

 ユウイチが下唇に鋭い痛みを覚えたのも同じく癖による。わずかに鉄の味。


 彼は手のひらで血を拭った。

 そしてキッチンに向かい、玉ねぎの皮を剥いていた女性に話しかける。


「……香奈。スマホ貸してくれるか」

「別にええけど、何に使うん?」

「明日の天気調べたいねん。オレのスマホは充電切れてもうた」

「アホやなあ。寝床の充電コード使ってええで」

「ありがとう。とりあえず借りとくわ」


 ユウイチは洗面室に戻り、香奈のスマホを操作してアドレス帳の『聡美さん』を着信拒否に設定した。

 ついでに自分のスマホに浅井聡美の番号を登録しておく。


 佐奈川がため息をついた。


「正攻法だねえ。あの子にバレたらワタシの指示だって言いなよ。君たちの仲にヒビを入れたくないもん」

「先生。それより香奈の家庭の話、オレが出会う前の香奈について教えてもらえませんか」

「ワタシが?」

「今の香奈に訊くのは酷ですから」


 ユウイチは浅井香奈を知らない。

 彼女がどんな人生を歩んできたのか、香奈やまだと佐奈川から断片的に学んできたが、かき集めても輪郭さえかたどれずにいる。

 ただ、可哀想な人だったというイメージしかない。


「そういう話は……場所を改めたほうが良いかもしれないね」


 佐奈川が洗面室こちらを覗いていた小さな影を見つける。

 リビングまで追いかけると、五歳児に「同盟の猟犬かぁ」と可愛い笑顔で迎えられた。

 すかさず白兵戦の用意を始める佐奈川を尻目に、ユウイチの目線はキッチンの香奈に向かう。


 香奈はテキパキとおつまみを調理中。中身は別として──なんでこんな人を殴ろうと思えるんやろ。


「ん? ユウイチ暇なん? 手伝う?」

「いや、お前に見とれてただけや」

「いきなりキモいこと言うなや……痛っ!」


 香奈が慌てて小指を流水に浸す。包丁で少し切ってしまったようだ。若干恨めしそうな目でユウイチをにらんでくる。


 なんか、スマン。

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