心の折りかた(3)


     ★     


『……それで少し追いかけてみたんですけど、その人あっちゃこっちゃ歩き回って地下鉄でどこかに行っちゃったんです。誰にも会わずに』

『今日また見かけた時はビックリしました』

美海みなみを園に送ったら路駐の車にてて』

『もしかしたら、あの人が会いに来た相手って』

『香奈さんなのかなー? と』

『香奈さんって兄弟いてるんですか?』


 九月一日。朝。

 ユウイチは会社を飛び出した。近くにいたタクシーのドライバーに「蒲生四丁目」と告げ、スマホで香奈にメッセージを送り、山田家の弟に電話をかける。出ない。

 妹のほうは出てくれた。


『おはようございますー』

穂乃花ほのかちゃん、今すぐお兄ちゃんのマンションの玄関を見張ってくれへんか。山田が帰ってきたら電話してくれ。急用やねん」

『ふわぁ、了解でーす』


 電話を切る。ユウイチはプリウスの車内で料金表示を見やる。まだワンメーター。長堀通ながほりどおりが混んでいる。

 不思議と焦りを感じなかった。何でやろ。我ながらめっちゃ冷静や。明日以降の引き継ぎとか、段取りとか、余裕で考えられてまう。遅刻を通り越して昼休みまで寝てもうた時みたいや。本当ほんまに何でやろ。山田がヤバイってわかってるのに。脳髄が冷えきっとる。


 ユウイチのスマホが揺れる。


『うちの兄っぽい人が帰ってきました。今、自転車を車庫に入れてます』

「ありがとう隼人はやと君。穂乃花ちゃんは?」

『慌てて大学行きました。ズボラなあいつを起こしてもうて、ありがとうございます』

「そうか。ちなみに君のお兄さんは独りなんかな。隣に誰かおれへん?」

『別にいませんけど。何か理由あるんですか』

「いや。大丈夫や。助かった」


 まだ大男は接触してきていない。ユウイチは通話を終え、アドレス帳の中から「さ」行の弁護士を探す。


(先生に報告しておくべきや)


 そう思いながらも発信に踏み切れない。冷静だからこそ考えすぎてしまう。自分がやるべきこと。やりたいこと。

 窓の向こうに大阪城の六番櫓が見えてきた。天守閣と大手門も視界に入ってくる。府庁の傍らを抜け、商用車のプリウスは地下駅から上がってきた京阪電車と並走する。


 手元で振動。双子の弟だ。


「もしもし」

『あの……俺の部屋には向かいのマンションを覗く用の双眼鏡があるんですけど、もちろんホノカのもんなんですが』

「なんか見えた?」

『ホノカがいつも見張っとる六階の廊下に、ずっと立ってる男がおるんです。ピンポンしてる? あそこって、もしかして』

「ありがとう隼人君。オレが注文してた荷物が届いたみたいや」

『はあ!? なんじゃそりゃ──』


 ユウイチは通話終了のボタンを押した。

 あの子らを巻き込むわけにはいかんねん。


 フロントガラスの向こうに洗面台工場の看板が見えてきた。新喜多大橋を渡ったあたりでドライバーに五千円札を手渡し、十三階建てのマンションの足元に駆け寄る。六階の様子は判然としない。


「8・4・9・2」


 マンションの大家が航空戦ゲームのファンらしく、作中の「存在しない部隊番号」に由来するという暗証番号をエントランスの筐体に打ち込む。そんな逸話を思い出せるくらいには頭に血が上っていない。


 オレは基本的に良い奴や。薄情者やない。せやのに友人の危機に怒りも焦りも沸いてけえへんのは、多分、本心では腹を決めてたから。

 ずっと対策を練ってきたからこそ、何遍なんべんも反省してきたからこそ、今さら不安を感じる余地がないんや。

 あの時ああしていれば──それを「やる」時が来ただけ。


 でも、その前に香奈やまだが殴られてたら?

 いたぶられていたら?


 血の巡りが早くなる。

 大丈夫や。メッセージ送っといたやろ。あいつが来たら玄関で引きつけといてくれ。オレが殴りかかるから、その隙に後ろから──。


 ユウイチはエレベーターを降りた。人影の見えない共用廊下。見慣れたはずの光景に少し肺が苦しくなる。


(あいつ、部屋の中に入れてもうたんか!)


 吹きすさぶ風に太陽の熱が含まれていた。まだ秋と呼ぶには早すぎる。

 彼は駆け出す。

 四号室。何度も通ってきた鉄扉ドアに合鍵を刺し、右手の靴箱の奥から特殊警棒と催涙スプレーを取り出し、廊下を蹴ってリビングに向かう。


「!」

「ユウイチ」


 彼の目に飛び込んできたのは、フローリングの床に突っ伏した背広の男と──利き手に凶器を携えた香奈の姿だった。



     ★     



 今朝、香奈のスマホに見知らぬ番号から着信が入った。

 一応出てみたら母親の声がした。着信拒否を咎められ、あの大男と再婚するように迫られた。


(着信拒否なんかしてへんけどな……被害妄想?)


 香奈は失礼のないように急用を装って電話を切り、始業式を控えた娘のほっぺに三回キスをしてから、自転車に跨がって幼稚園の校門を後にする。


 交差点の信号を待っていたあたりで、ユウイチからメッセージが届いた。


『山田。比屋根家の長女さんと喋ったか?』

『路中の車に絶対近づくな』

『あの男が蒲生におるらしい。もし追いかけてきたら、マンションの部屋の前で足止めしといてくれ。今後のために確実に捕まえよう。やる時には合図出すわ』


 心臓が止まりそうになった。

 何度も後ろを振り返りながら自転車を漕ぐ。本当なら近くの城東警察署に逃げ込みたい。あんな奴と関わりたない。怖いねん。去年こめかみを殴られた記憶が生々しいねん。


 それでも香奈はマンションに戻った。必死でエレベーターに駆け込み、六階の自室に閉じこもる。

 わかってる。警察署に逃げたら、あいつもどっかに逃げてまう。おれの部屋に誘き寄せたほうがええんやろ。


(わかってんねんけど、身体が震えてまうねん)


 インターホンが鳴った時、香奈は悲鳴を上げてしまった。マンションの玄関口ではない。部屋の前にあいつが来ている。

 どうせ住民の出入りに混じってエントランスを抜けてきたんやろな。ここのオートロックなんかザルみたいなもんやし。郵便受けに「604」「浅井」って表示されてるし。誰でも家の前には来れるわ。


 コンコンコン。ドアを叩く音。

 香奈は無視を決め込んだ。すぐにユウイチが来てくれる。警官と一緒かもしれへん。おれは待つだけでええねん。ソファでゆっくりコーヒーでも飲んどいたる。


「香奈! 出てくれへんかったら、幼稚園のユメに会いに行くぞ!」


 最悪の脅し文句だった。

 佐奈川の忠告が脳内を駆け巡る。大まかな居場所を知られたら、次に幼稚園や保育園を探られるだろうね。子供の送り迎えで君を見つけられるから──先生はすごいわ。当たってもうた。


「香奈、出てきてくれ!」

「……帰ってください!」

「なんでや! 今日は相談に来たんや! もうお前とケンカするつもりないねん。わしも年取った。色々辛いめぇにもあってやな。生き方を反省して、今度こそ香奈とユメと、家族でやり直したいと思ったんや!」

「再婚したんとちゃうんか! そっちでやり直せや! アホ!」

「なんや偉そうに! ……って昔のわしなら怒鳴ったやろな。もう疲れてん。落ちついたわ。穏やかに話し合おうや。家族やないか。ほら。このとおり頭も剃ったんやで。ユメならやさしゅう撫でてくれるやろか」


 ドアの向こうでは頭皮を掻いているのだろう。

 香奈は二の腕を叩き、覚悟を決めた。

 娘のところには行かせへん。あの子とあいつにちぃ以外の接点を持たせたくない。おれが足止めする。

 大男を部屋に迎え入れる。鍵を開けたら、すぐに玄関から飛び退いた。両腕で打撃に備える。


「なんや……もう殴ったりせえへんうとるやろ。久しぶりやなあ、香奈」


 大男は背広姿だった。彼なりに誠意を演出したつもりなのかもしれないが、香奈の身体を物色するような目つきで台無しになっている。

 本当ほんまに何でこんな奴が何回なんべんも結婚できるんやろ。


「再婚の件は母親に教えてもらったんか? あれは言い寄られたからや。わしにはお前らおるさかい、別に乗り気や無かってん。ブスやったし」

「…………」

「香奈、嫉妬してるんやな。かわええなあ。まあBカップのお前よりちちはデカかったけどな、尻は小っさいしアソコは──」

「…………」


 彼女は一切口を閉ざしたまま、震えた足でキッチンに向かう。

 台所の引き出しから凶器を取り出す。手汗で床に落としてしまいそうになったが、相手は気にも留めていない。呑気に部屋の中を眺めている。

 たぶん香奈よめが歯向かってくるなんて少しも考えてないんやろな。香奈はステンレスの流し台に映る、おぼろげな彼女の輪郭を見やってから、小さく息を吸った。


「ええ家やんけ。三人でも住めそうや。香奈は」

「くたばれ!」


 凶器の先端を相手の脚に突き当てた。大男が苦悶の表情で崩れ落ちる。それに巻き込まれないように距離を取りつつ、今度は相手の背中に押し当てる。呻き声。


 玄関で物音がした。


「ユウイチ」

「はあ、はあ」


 友人の乱れた服装、辛そうな息づかいに香奈は安堵する。

 来てくれた。助けに来てくれた。

 途端に腰が抜けそうになり、彼女はアイランドキッチンに寄りかかった。ああ。日常が戻ってきた。


 ユウイチのほうは膝に手を突き、肩を上下させている。


「はあ、はあ」

「会社から走ってきたん?」

「タクや。遅なってもうたな。すまん。無事で良かったわ」

「警察は来てへんの?」

「まだ呼んでへん。とりあえず、そいつ動かれへんようにしよう」

「わかった」


 香奈は手持ちのスタンガンをポケットに入れ、キッチンの引き出しからインシロックの袋を取り出す。プラスチックの結束バンドだ。

 まだ力が入らない様子の大男の手足をユウイチが括りつけていく。


「なんや、どこのモンや、お前……うぐっ」


 うるさい口にはガムテープを貼る。耳には旅行用の耳栓。

 さらに布団でぐるぐる巻きにしてトラロープでしばっておいた。


 香奈は思わず感想を漏らす。


「太巻き寿司や」

簀巻すまき言うねん。こんだけ巻いといたら大丈夫やろ」

「あとは警察呼ぶだけやな」

「山田」


 名前を呼ばれ、ユウイチに抱き締められた。

 汗の匂いと布地の手触りが心を落ちつかせてくれる。ありがとう。いつもおれを助けに来てくれて。本当ほんまにありがとう。泣けてきたわ。


 香奈は名残を惜しみながらも身を離す。台所のスマホに手を伸ばそうとしたら、ユウイチに腕を掴まれた。


「警察呼ぶのは後にしてくれ」

「え? なんで? 不法侵入で連れてってもらおうや」

「お前が一生困らんようにしたる。せやから終わるまで待っといてほしい」


 ユウイチの目が据わっていた。

 何をするつもりなん。

 香奈は怖すぎて訊ねられない。

 一生困らんようにするって。そんなん。


「やめえや!」

「元々マンションの廊下から下に落としたるつもりやってん。もう二度と、そいつと会わんで済むやろ」

「ユウイチにも会われへんようなるやん!」

「せやな。その間にお前にてぇ出してくる奴おるかもしれへんから、言うとくわ。結婚してくれ」

いまぁ!?」


 香奈は叫んでしまう。

 どない考えてもタイミングおかしいやろ!?


「今しかないやんけ。ずっと塀の中におるねん。出てきた時には多分オッサンやぞ」

「おれもおばさんになってまうねんで。ユウイチより二つ上やねんから。その。お前としては勿体ないやろ」

「ほんなら……」


 ユウイチが再び近づいてくる。

 彼の手が何を求めているのか、香奈には肌感覚でわかってしまう。


 そうか。

 そこまでしてまで欲しかったんか。この身体が。コレが。

 こいつ、アホやんけ。


 香奈はユウイチの頬を引っ叩いた。全力で平手を喰らわせた。

 バチンと気持ちの良い音がした。


「ええ加減にせえ! おれの気持ちも考えろや!」

「山田……」

「結婚ぐらいなんぼでもしたるわ! 一緒におったる! セックスだってしたる! こっちはユウイチがおれへんひぃを想像でけへんねん!」

「…………」

「おれを独りにすんな!」


 香奈は自然と涙がこぼれてくる。鼻声になってしまう。

 多分とても他人に見せられた顔じゃなくなってる。


 せやのにユウイチが近づいてくるから、両手で押しのけたら、ユウイチの左足が布団の塊をギュッと踏んでもうたらしい。


「ううっ! ぬうううっ!」


 敵意剥き出しの両目ににらまれた二人は、何となく顔を見合わせる。

 香奈が笑う。


「くふふ。そら睨まれるわ。おれもユウイチも」

「……恨まれたら面倒やぞ。根に持ちそうなツラしとるし」

「おれなら心折れてるけどなあ。だってヨリ戻すつもりやったのに、何やかんやで床に転がされてるんやで? もう脈無いわってアホでもわかるやん」

「心を折る……完全に……」

「どしたん?」

「山田」


 香奈の肩に彼の指先が伸びてくる。傾げた顔が近づいてくる。

 抵抗する間もなく、彼女が呆気に取られているうちに。唇を奪われてしまった。足元の唸り声が心臓の音でかき消されていく。他には何も聞こえなくなる。

 おれ、ユウイチとチューしとる。


 互いに息をつき、ユウイチの指先が香奈の胸に触れたところで「頭にチンポついとんか!?」と彼女の中段蹴りが入った。

 ユウイチはまたもや布団を踏んでしまい、盛大に尻もちをついていた。


「いった……いや、こいつにイチャイチャしてるとこ見せつけたら、もっと心折れるんちゃうかなって……」

「ユウイチ、本当ほんまにマジでそういうとこやからな!? ワンチャンの時にしても、何かしら理由付けたら何でもアリちゃうぞ! 言い訳しながら迫ってくんなや! 何でチューせなアカンねん!」

「お前とチューしたかってん」

「い、今ストレートはズルいって……」


 彼女は目を背ける。照れてもうた。キモいって言い返せへんかった。

 ユウイチが床から立ち上がってくる。


 後ずさり。香奈の背中が白い壁に当たった。左の廊下に逃れようにも、ユウイチが前腕で先回りしてきた。

 壁ドンなんて古典的やんけ。

 香奈の苦し紛れの挑発が唇で塞がれてしまう。


「んぐっ」


 次いで彼の唇が首筋を這う。自分がキスしたいところにキスしているらしい。やりたいようにやる。そんな意志を香奈は感じ取った。

 彼女のブラウスの下に手が入り、下着ブラを乳房の上にズラされる。小ぶりな胸がユウイチの手のひらに収まる。彼の指が先端を捉える。止まりそうにない。


「お、おい。やりすぎやぞ。本気で殺すつもり、やったから、タガが、外れてもうとるんか?」

「今日お前とやるために殺すつもりやってん」

「正直者やん!」

「そのポケットのスタンガンで止めてくれ。オレは抑えられへん」

「…………せやな」


 香奈は指先を腰の辺りに伸ばし──ゆっくりとベルトを外した。乱れた動きの中で自然とジーパンが床に降りていく。

 露わになった白い肌をユウイチが持ち上げる。

 ソファに寝転がり、互いの衣服が空を舞う中、香奈がユウイチに人差し指で注文をつけた。


「なんや山田」

「その。こんな時に山田呼びはやめてほしいねんけど。やっぱり、おれとしては恥ずかしいわ」

「ほんなら何て呼んだらええ?」

「好きにしたらええやん」

「香奈、好きや」

「アカンアカンアカン! なんかアカンて! 顔も見やんといて! 恥ずい!」

「注文多いわ! せやったら、壁にてぇ突けや!」

「そんなん上級者やん! 人生初乗りのジェットコースターめぇ閉じて乗る奴、おる!?」

「いや、わりとおるんちゃう?」

「せやな……うん……」


 ぎこちなく、はにかむ二人。あとは流れに任せることにした。

 心臓の音、ソファの布ずれの音、肌が跳ねる音、吐息、漏れた声が、あらゆる生々しい音に独特の奥行きを与えていく。

 何のためにこんなことしてるんやろ? 何でおれはスタンガン使わへんかったんやろ? と香奈が少し我に返るたびに愛を囁かれ、悩んだり考えたりするのがバカらしくなってくる。

 鈍かった感覚が昂ぶり、人間の表面が熱を帯び、感情に押し流されていく。挿し込まれる。目の前の男が存在感を増していく。ユウイチが近くにいる。ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。キスをせがみ、せがまれ、首に手を回し、名前を呼び合う。


 どうしようもなく喉が渇いた。

 香奈がパーカーを羽織り、台所で水道水をがぶ飲みしていると、ソファのユウイチが誰かに電話をかけていた。


 やがて悲壮な表情で現れた正義の弁護士は、玄関で出迎えた二人の顔を見るなり「えっ!? ドン引きなんだけど!?」と自身の肩を抱いた。


「ヤってからワタシを呼んだの!? なんで今ヤったの!? えっ!? 本気でわけわかんないよ!?」

「先生、声大きいです」


 ユウイチのツッコミに、香奈は小さく笑った。

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