エピローグ(1)


     × × ×     


 二人が結ばれたからといって、映画のように全部が丸く収まるわけではない。

 ただ、いつでも寄りかかれる背中が家の中にあるというのは、香奈にとっては思いのほか、ありがたいものだった。

 厳密には彼女の愛娘が必ず間に割って入ってくるため、いつでも……というのは少し語弊があるのだが、気軽に安心できることに変わりない。


 休日は三人で出掛けることが多くなった。どこかに行こうと前もって計画を立てる時もあるが、もっぱら香奈の行く先にユウイチがついてくる形だ。


「比屋根家で髪の毛切ってもらうだけやで。別にユウイチまで来んでええのに」

「お前が座ってる間、誰がユメちゃんと遊んだるんな」

「大親友の美海みなみちゃんおるやん」

「まあ……ついでや、ついで。ケビン・コスナーや」


 ユウイチが映画『ボディガード』の役者の名前を呟きながら、ユメの左手をさりげなく掴む。

 自転車だらけの城東商店街で三人並んだら往来のジャマになってまう。香奈は二人の後ろに下がりつつ、足元の汚れたタイルに視線を落とす。


 ユウイチがきぃ遣ってくれてるのはわかる。あの日からマンションで居候してくれてるのも、こうやって一緒に来てくれてるのも、本当ほんまにありがたい。あんな事件があったのに自分が外でビクビクせずに済んでるのは、ユウイチのおかげや。全部ひっくるめて感謝してる。

 ただ、このまま『状況』が積み重なってしまうと……いつか恩を返しきれなくなりそうで、怖いねんなあ。

 こいつが晩飯だけでは満足でけへんのは、もう十分わかってるし。

 香奈はイヤなため息が出そうになる。


「あーやん」


 ユメが脱落を責めるような口ぶりで右手を伸ばしてきた。もうすぐ店に着くのに。仕方しゃあないなあ。


 三人で手をつないで『ルーフ』の前までやってくると、軒先で水やりをしていた女子高生が「ああっ!!」と指差してきた。

 あまりの大声に、ユメの手がビクッと反応する。

 香奈もビックリしてしまう。


「な、何? 虫でもおる?」

「いえ……仲良さそうで羨ま……微笑ましいなあと思いまして。えへへ。ご予約の浅井香奈さん、ユメちゃん、どうぞどうぞー」


 制服姿の美少女に案内してもらい、香奈は店内のこじんまりとした椅子に座る。五歳児は二階の子供部屋に猛ダッシュしていった。店主の姿はまだ見えない。


 目の前の鏡には少し疲れ気味な女性の顔と、その後ろで楽しげに笑うユウイチの姿が映っている。

 そんな彼を熱心に見つめる女子高生の表情を、香奈はあえて視界に入れない。世の中には見ないほうがいいものもある。

 おのずと愛海の持ち物のほうに目が行く。あれって多分。


「長女さん、楽器始めたんや」


 香奈より先にユウイチが訊ねていた。


「はい。浪平が昔使っていたトランペットです。部活で使うんです」

「吹奏楽部かぁ」

「まさかぁ。うちの吹部すいぶは超ブラックで有名なんで……実は友達がバンドやってまして、今回ラッパ入りの曲があるとか何とかで、元鼓笛隊だからって強引にやらされてます。文化祭近いですし、日曜やのにこれから練習なんですよ」

「へえ。長女さんが出るなら見に行きたいな」

「ぜひぜひ!! 文化祭の招待券、用意しておきますから!」

「ありがとう。良かったら香奈に渡しといて」

「……はい」


 声色から愛海の落胆ぶりが伝わってくる。テンションの落差に笑ってしまいそうになったが、香奈はグッと堪えた。

 ユウイチも女心がわかってへんなあ。あんな可愛い子に誘われて、もしかしたら一緒に文化祭を回れたかもしれへんのに。失われた青春をきっとリバイバルできるのに。


「……おい山田。長女さんの文化祭、来月の第二日曜日らしいわ。まだこっちおるやろ。高校の文化祭なんて滅多に入られへんぞ。ユメちゃん連れていこうや」

「う、うん」


 いきなり耳打ちされて生返事しかできない。


(お前はそれでええんか。本当ほんまに……)


 香奈が鏡に映る女性の微妙な表情から視線を逸らしていると、奥の部屋から店主が出てくるのが見えた。

 その傍らにはどこかで目にした顔。店主と同じくらい長身の女性で、凛々しい眉に自信がみなぎっている。あれはたしか。


「え、日高さん?」


 またもやユウイチに先を越されてしまう。

 日高と呼ばれた若い女性は「誰?」と首を傾げているが、いつぞや佐奈川から送られてきた写真に映っていた人物であることは香奈にもわかる。それから比屋根家主催のバーベキューにも顔を出していた。


「あー……そっちのお姉さんは焼きそばを作ってくれた人やんね。あんたのことは見たことないわー」

「村田の友達や。野口雄一。佐奈川先生と一緒に飲んだやんけ、合コンで」

「あああ。村田さんの。あはは。あの人の周り、色んな人おりすぎて覚えられへん。まあ、もう会うことないと思うけど」


 日高は店主の頬に軽く触れると、そのまま奥の部屋に戻っていった。

 店主の娘がアンニュイな面持ちでため息をついている。


(たぶんパパに恋人が出来て寂しいんやろな。しかも平日の昼から家に連れ込むなんて、年頃の娘としては複雑なはずや)


 香奈は店主にケープをかけてもらいながら、少しでも女子高生を励まそうとする。


「愛海ちゃん。わたしは愛海ちゃんの味方やからね」

「いいえ。香奈さんは敵です」

「なんで!?」

「やや不本意ではありますが、お父さんに鳥を落としてもらい、一羽は手に入れました。あとは本命の兎を狙うのみです」


 明白な宣戦布告。鏡越しではあるが正面から、まっすぐに突きつけられる。

 香奈にはどう返したらいいのか、わからない。


 会話の含意をいまいち受け取れていない男たちに笑顔を振りまき、女子高生は楽器用のケースを肩にかけると、何やら満足そうな様子で店先の自転車に飛び乗っていった。


 ユウイチが頭を掻いている。


「長女さん行ってもうた。オレら、蒲生から引っ越すって話、したかってんけどな」

「……そうなんですか?」


 店主のハサミが止まった。


「例の件がありましたもんで。香奈とは籍も入れますし、田舎で新生活始めます」

「へえ。寂しくなりますね。愛海も美海もビックリするんちゃうかな……」

「変な言い方ですけど、ほとぼりが冷めたら戻ってくるつもりですよ。香奈は蒲生四丁目このまちが好きみたいやから」

「そうしてもらえると美容室としても助かります。客少ないから」


 冗談めかして笑う店主に、奥の部屋の日高から「浪平もっと頑張ろなあ」とツッコミが入る。

 すかさず店主のほうが「よ弁護士なって俺らやしのうてや」と返し、ユウイチがつられて笑みをこぼしていた。


 香奈は少し俯く。

 楽しげな空間でたった一人、渋い顔の女を見ていられなかった。



     × × ×     



『ええなぁ。ウチもおにぃみたいに『理解のある彼くん』捕まえたいー』

「言葉にトゲを感じるんやけど……」

『おねぇって呼んだほうがいい?』

「それは……やめとこか」

『おにぃはユウイチさんのどこが好きなん? 顔?』

「さっき説明したやん……あいつと籍入れるんは名字変えるためやって。逃げた先を辿られへんようにしたいねん。佐奈川先生の指示や。本気で結婚するんとちゃうねん」

『ユウイチさんはおにぃのことめっちゃ好きやのにー。引っ越すために仕事辞めはってんやろー?』

「…………ほんまやな」

『おにぃ、田舎ってどこ行くん?』

「それは穂乃花にも教えられへん。悪い奴からユメを守るためやから勘弁してや」

『イヤや! 寂しいやん! 毎週会いに行くもん!』

「またユウイチからタクシー代もらうつもりなん?」

『あ、けっこう遠いんやー』


 受話器の向こうで妹が指を鳴らそうとして空打ちする。同室の弟が「ヘタクソ」と突っ込む声が聞こえてくる。

 遠いところやで。本州の中心で蕎麦そばの名産地やで。

 香奈は心中でそう告げつつも、自分が妹たちと離れられることに少しだけ安堵していた。



     × × ×     


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