エピローグ(2)


     ★     


 冬が来る前に転居する。大雪の中で荷物を運びたくないから。

 当面は松本市内のマンションを借りる。ユメの小学校が決まるまでに良さそうな家を見つける。

 香奈は今までどおりWEB制作の仕事を続ける。ユウイチの再就職先は配管関係のCADスキルが活かせるところを探す。

 来年の冬には佐奈川とみんなで長野県内のスキー場を巡る──。


 香奈がぼんやりと窓の外の大阪ビジネスパークを、あのキラキラした光の集合体を眺めている間に、佐奈川とユウイチがどんどん未来予想図を描いていく。五年後、十年後、その先へ。


「楽しそうやなぁ」

「だよねっ」


 香奈としては膝枕で寝息を立てている娘に話しかけたつもりなのに、対面に座る佐奈川が親指を立ててきた。

 尊敬してやまない弁護士が双眸に宿す『正義』の二文字が、今だけは受け入れられそうにない。


 香奈は愛娘を抱き上げ、二人で寝室の布団に横たわる。

 リビングの会話が途切れてくれない。


「香奈ちゃん、お疲れみたいだね」

「先生もお疲れでしょ。何から何までありがとうございます。役所に出す紙にも名前書いてもらって」

「お礼なんていいよ。ユウイチ君。ワタシら、マブ友達ダチじゃん」

「光栄です」


 香奈の思考はまどろみに包まれる。


 気づいた時には日付が変わっていた。愛すべき娘の足を鎖骨の上から払い退け、彼女はジャージを羽織り、喉の渇きを癒そうと台所に向かう。


 ユウイチがソファで眠っていた。

 いびきがうるさくないのはこいつの長所の一つやな。香奈は二組のコップと麦茶の冷水筒ピッチャーを携え、彼の左隣に腰を据える。


 テレビの通販番組を消すと、一気に静かになった。録画機器の排熱音、冷蔵庫が氷を生み出す音、今里筋を走り抜けるタイヤのこすれ、麦茶が氷を揺らす音。

 穏やかなのに少し急かされているような。そんな街の空気を取り込むように、香奈は穏やかに息を吸う。


「起きたら?」

「起きた」


 ユウイチが起き上がる。香奈がぶっきらぼうに差し出した麦茶を飲み干し、彼は表情を変えずに「ありがとう」とうなづいた。


「こちらこそ」


 いつもありがとう。


 彼女がパチンと冷水筒のフタを閉めると、ユウイチの左腕が肩に伸びてきた。あの件以来、少しずつ躊躇ためらいが無くなってきている。

 香奈は反射的に口元を一文字に結んでしまう。言葉がこぼれてしまわないように、心持ち歯を食いしばる。

 身体に触れられること自体に拒否感を覚えるわけではない──そういうことやない。セックスだってあれからユメがおらん時に何回なんべんもやっとるし。そうじゃなくて。


「山田、なんかイヤなことでもあったんか?」

「……なんで?」

「たまに辛そうな顔してるやろ」

「よぉ見てるなあ」

「そら、まあ」


 ユウイチの照れた様子に場が和む。

 少しだけ気が軽くなった。香奈は彼の指先に触れ、唇を緩める。


「やっていく自信がないねん」

「自信?」

「うん。香奈になってから五年間、ずっと母親やってきたけどな。たまに思うねん。他の家のママさんみたいにユメのことを一心に愛せてるんかなって」

「いや、お前そんなことは」

「ぶっちゃけ穂乃花ほのかとか隼人はやとと比べて、どっちの命を救いたい? って訊かれたら、すぐに答えられへんし。ああ。今のユメにうたらアカンで」

「当たり前やろ……言えるかいな……」


 ユウイチを困らせてもうた。

 香奈は内心で後悔しながらも話を続ける。どうせなら本音を全てぶちまけてしまいたい。全てを。


「せやから、自分がちゃんと『あーやん』になれてるとは、あんま思ってないし。れてるとも思わんし。その調子でいくと、たぶん一生、おれは女性おんなにはなられへんのちゃうかなって」

「…………」

「それが何というか、お前に申し訳ないねんな。ユウイチの期待に応えられへんのが、香奈になってあげられへんのが、けっこう辛いねん」

「そんなん求めてへんわ」


 ユウイチの左腕が離れていく。

 思わず振り向くと、彼の真剣な眼差しが台所の常夜灯に照らされていた。香奈は息を呑む。何を言われるんや。

 わずかに間を置いて、ユウイチが口を開く。


「山田は山田のままでええ。そのままでええねん」

「ユウイチ」

「たぶん山田おまえには理想があるんやろな。理想より『正解』って言うたほうがええか。香奈なら、母親なら、こうあるべき、みたいな。そんなん気にすんなや。お前らしく生きたらええやんけ」


 彼の両手が香奈の肩を柔らかく叩いてくる。


「もしお前がユメちゃんいらんなら、オレがもらったる。ユメちゃんが大切なら、二人で育てたらええ。どっちにしても山田の人生や。他人の『正解』をなぞることないやんけ」

「ユウイチ……」

「前にも言うたやろ。また大学生やりたいなら大学行けばええし、お前が合コン行きたいなら行こうや」

「行けるわけないやん」

「お前が一緒にいてくれるなら、オレは一生一緒におりたい。そんなけの話や。ありのままでええねんて、ほんまに」

「急に三木道山みきどうざんやん……笑うからやめてや……」


 香奈は笑いながら目を伏せる。

 強引にでも話を変えないとバレてしまう。こぼれてきた涙が。胸の鼓動が。火照った顔が。

 鼻をすすったらティッシュの箱を差し出された。即バレしとるやんけ。

 ああ。ユウイチはええ奴やなあ。


「あーやん」


 愛らしい声が寝室から聞こえてくる。迷いのない足取りで近づいてくるのは、いかにも起きたばかりで寝癖だらけの愛娘だ。


「あーやん、泣いてるん? 大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。あくびしただけ」

「トイレ行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 香奈はやや急ぎ足のユメに手を振る。パジャマのズボンがずり落ちていて、廊下で転ばないか心配になる。

 ふと、ユウイチと目が合う。


「なあ山田。さっきの話やけど、オレがユメちゃんもらってええんか?」

「たまにあげたくなる時もあるけど、絶対に後悔するから絶対にあげへん」

「オレのほうがユメちゃんのこと好きかもしれへんぞ」

「だとしてもあげへんわ」

「もしオレらが離婚することになったら、佐奈川先生に頼んでユメちゃんの親権勝ち取ったろ」

「お前と別れるわけないやろ……」


 香奈は言い終える前に顔を背けてしまう。明らかに口が滑った。

 そういうことじゃないねん。好きとか愛とか、お前とはそんなつもりじゃなくて。ただただ、自分の近くにユウイチがおれへん日が来てほしくない……ただそれだけやのに。


「……オレも山田と別れるつもりないぞ。ユメちゃんが成人しても、お前とはずっと」

「ああ、もう! ユメ、よ戻ってきてぇ!」


 秋の夜長に、まだトイレの音は流れない。




(あなたのいない日・完)









 終わりました。自分の中の予定より時間が掛かってしまい、なかなか上手くいかないなあと反省しきりです。


 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

 また次回作でお会い致しましょう。


 2022年7月11日 生気ちまた

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