あなたのいない日(3)
★
五年前。鶴橋駅のプラットホーム。
大学生の
大学の一限目が始まるまであと三〇分しかなかった。ギリギリの時間に焦燥感を覚え、列の先頭で地団駄を踏んでいた時。
「あっ」
JRの改札口から下りてきていた女性が、不意に階段で足を踏み外した。彼女は子供を守るように抱きかかえ、何段も滑り落ちてくる。
山田は咄嗟に受け止めようとしたが、相手の勢いを抑えきれなかった。
衝突。気づいた時には──
全身の擦り傷が痛む。腕の中で赤ん坊が号泣している。天地がクラクラしている。
駅員の男性に右手を引き上げられ、どうにか立ち上がると、ホームから突き飛ばされて線路に落ちた青年が見るも無残な姿になっていた。
目の前で
香奈は理解が追いつかず、卒倒した。
恐怖映画や強烈な悪夢を見ているようだったが、搬送先の病院で目が覚めても彼女は浅井香奈のままだった。
警察の事情聴取には(当然ながら)まともに答えられず、逆に名前と住所を教えられた。医者からはストレス性の記憶障害と診断された。
香奈の味方を称する女性弁護士が唐突に現れ、彼女の尽力により乳児の存在を理由として勾留されずに済んだものの、過失致死の被告として起訴されることになった。
おかしいやろ。殺されたのは
香奈の心からの叫びはまともには受け止められず、
その間、腕の中で赤ん坊は泣き続けた。
弁護士の車で自宅のアパートに帰された香奈は、生前の香奈が元旦那や家族から受けてきた数々の仕打ちを聞かされた後、狭苦しい部屋で真っ先に自殺を考えた。早く終わらせたい。悪夢から解放されたい。
台所の包丁で胸を突けば、きっと終わる。
「えへえへ」
「!」
彼女を思いとどまらせたのは赤ん坊だった。今、自分が死んだらこの子がどうなってしまうのか、想像できる程度には彼女はまだ正気を保っていた。
せめて、利き手でスプーンを持てるようになるまでは世話したらなアカン。
香奈は包丁を棚に戻し、ひとまず
全てにおいて男子学生にとっては未知の領域だった。
赤ん坊に乳首を咥えさせても母乳が出てくることはなく、台所を
子供が眠ってから香奈のスマホで育児関係のウェブサイトを巡り、今後やらなければならないこと・毎日やっていくことをリストアップした。
わからないことが出てきたら、お向かいのおばさんに訊ねた。
それこそ、おはようのオムツからおやすみ後の夜泣きまで──香奈としての生活は
のちにユウイチと偶然の再会を果たすまで、彼女はただただ母親に徹し続けた。
★
今夜はあの子がいない。
香奈はテーブルのゴミをビニール袋に入れながら、愛娘の顔を思い浮かべる。もう布団で寝息をたててるんやろか。一人で寝れるんやろか。
たしかにユウイチの言うとおり、あの転落事故がなければ、彼女は山田として生きていただろうし、あの子がいなければ、彼女は自分の生活を捨てずに済んだかもしれない。山田には戻れなくても、時間をかけて大学生に戻ることはできた。
あの子がいたから母親の役割を押しつけられてしまった。赤の他人、通りすがりの男だったのに。
だからといって、あの子の存在を呪うことはない──子育てが落ちついた今となっては。むしろ、あの子がいてくれたから包丁で自殺せずに済んだ、どうにか生きてこれたんや、と前向きに捉えている。
(いや、あの子だけのおかげとちゃう)
香奈はビニール袋の紐を結ぶ。
佐奈川先生(弁護士)の力添えがあったから勾留されずに済んだ。裁判も任せられた。何よりWEBの仕事が成り立つまで行政の支援を受けられた。
そもそも彼女の手助けがなければ、生前の香奈は
(あの先生には頭上がらんわ……もちろん、こいつにも)
「よいしょー」
台所でグラスを洗い終えたユウイチが、ついでにシンクの掃除もしてくれている。
彼と佐奈川は何度か顔を合わせたことがあり、香奈のいないところでも電話で話したりするという。何を話し合っているのか……までは香奈の知るところではない。
テーブルの上はすっかり片づけられた。洗い物も終わった。窓からの風も相まって、室内が寂しくなる。
今夜はあの子がいない。じきに自分だけになる。ユウイチがワイシャツのボタンを留めていた。あれはユメの話によると帰宅の前触れだ。
香奈はソファにもたれかかりながら、ここであいつを引き止めるのはズレてるぞ、と自らを戒める。
子供が「もっと遊んで」「帰らんといて」とおねだりするのとは扱いが変わってくる。仮にも未婚の男女だけに、余計な誤解を招きかねない。
「ああ。もうちょっと
「えっ」
「アカンか? さっきえらい怖がってたから、ユメちゃんもおらんし、独りぼっちにしたるのは可哀想かなと思ったんやけど」
「ワイシャツのボタン……」
「お前はユメちゃんか。涼しなってきたから付けただけや」
ユウイチは冷蔵庫から百円のわらび餅を持ってくる。きな粉の匂いがした。
窓際の風鈴が鳴る。子供が幼稚園で作ってきたものだ。もしあの子がここにいたなら、いつものように香奈とユウイチの間に座っていたなら、率先してわらび餅を食べていたことだろう。不在だからこそ存在を大きく感じる。
香奈は久しぶりにきな粉の味を楽しんだ。何も変わらない味。
彼女の傍らではユウイチが麦茶を飲んでいる。
彼女の口元には自然と笑みがこぼれる。
「いつも、ありがとうな。ユウイチ。ほんまに助かってる」
「おう」
「
「そん時は晩飯をご馳走なってるやろ。いつも美味しいご飯をありがとう。これでチャラやな」
「チャラにはならんやろ」
「山田の飯は美味い。毎日食べたいくらいやわ」
「別になんぼでも来てくれたらええで。ユメも喜ぶやろし。一人分の材料代はもらうけど」
「それくらい出すわ。オレ、入社三年目にしてはけっこうもらってるんやぞ」
「はいはい。ウチの旦那は甲斐性ありますなあ」
香奈は冗談めかして笑ってみせたが、ユウイチのほうが何とも悩ましい顔をしていたので、ごまかすようにわらび餅に爪楊枝を刺す。二本目も刺す。
ウチの旦那。もといユウイチについて、幼稚園のママ友たちには説明が面倒くさいので「彼氏」ということにしている。元々はただの友人どころか、大学時代には同じゼミの顔見知りでしかなかった。
今のように友人として深く関わるようになったのは彼女が香奈になってからだ。
布施での偶然の再会から三年経つ。あれからずっと何かあった時にはユウイチに助けてもらってきた。大男の時も。いつでも。どこでも。
──なんでそこまでしてくれるん?
彼女はなるべく考えないようにしていたが、世話になるたびに胸の奥底に罪悪感がこびりついてきた。
もちろんユウイチが打算抜きにただただ「良い奴」である可能性もある。そのほうがイメージには合う。しかし、もし仮にそうでないのなら。
彼の目が香奈を捉えていた。
「正直、
「お、おう」
「今日はワンチャンあると思って来たわ」
「ほんまに正直やなあ……」
香奈は思わず笑ってしまう。
それでごまかせたら良かったが、ユウイチは両手の指を合わせながら話を続ける。
「でもな。来てみたらエアコン壊れとるし、明らかに気の抜けた
「そう思うわな」
「でも外では吞みたないとか
「先生はともかく比屋根家の姉妹は飲み会に呼ばれへんわ、未成年やのに」
「ほんならオレだけ呼んだのは何でなんや」
「それはまあ……
「そうかいな。はあ。ユメちゃんがおらんだけやのに悶々としてもうたわ。やのにお前は下着姿でウロチョロしよって」
「いや、これ下着と
「……そうなんか」
「うん」
二人の会話が途切れる。
わらび餅を食べきると、目の前にやることがなくなってしまった。
時計の針は午後十時を指している。
(なんや気まずいし、ユウイチには
香奈はジャージのチャックを下ろし、ソファから立ち上がる。
「シャワー浴びてくるわ」
「えっ」
目を丸くしているユウイチを尻目に、香奈は脱衣所に向かう。
彼女が
あんなんアレやん。タイミングめちゃくちゃマズイやん。
香奈は風呂場の曇った鏡を手のひらで拭き取り、
(こうなったら寝る前やから入っただけや! って平然と押し通すしかないわ)
彼女は念入りに身体を洗い、焚かないつもりだった風呂の湯を張るなどして時間稼ぎを図ろうとした。
髪の毛を乾かし、彼女が気が進まないながらも脱衣所からパジャマ姿で出てきた時、当のユウイチはリビングのソファで眠っていた。
香奈は苦笑する。待たせすぎたらしい。作戦は一応成功といったところか。
「……今日は何やかんやで振り回してもうたな。いや、いつもか」
彼女にはユウイチの気持ちがよくわかる。どんな相手であれ、二人きりの時にはほんのちょっとは期待や雑念を抱いてしまうものだ。たとえ恋愛対象ではない相手であっても。往年の山田にも同様の経験はあった。
「まあ、おれには無理な話やし、これで勘弁したってくれや」
ソファの近くで膝を突き、香奈は恥ずかしさを堪えながら……恩人の右頬に唇を添える。
どういうわけか、直後に目が合った。彼女は脱兎のごとく飛び
「あわわ……なんで起きてんの!?」
「お前、べちゃくちゃうるさいねん……ビックリしたわ……」
「こっちがビックリしたわ!」
「ほんまにワンチャンあったとは」
「無いわ! 日頃の感謝と申し訳なさをちゅ、中和したかっただけじゃ! アホ! も、もう寝るから
「あ、おい待てや」
「おやすみ!」
香奈はふすまを閉めて布団に突っ伏した。
アホや、気の迷いや。何でこんなことに。
こんなん、おれだけでは処理しきれへん。明日からどないしたらええねん。
ああ。あの子がいてくれたら。ユメ、
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