千林納涼(1)


     ★


 ワンチャンって何やねん。

 ワンパンの間違いとちゃうんか。あいつが殴ってくるとは思わんけど。なら、ワンタンか。エースコックのワンタンメンを期待してたなら作ってほしいって素直にうたらええやろ。


「何やねん、ほんまに。ワンチャンって」


 香奈は台所で呟く。

 彼女は一昨日の夜の「出来事」を処理できずにいた。ユウイチに言われた一言、酔いに任せた自身の行動。

 思い返すだけでも恥ずかしく、理解できず、とにかく腹立たしい。


 怒りを込めてフライパンを揺らし、卵を入れたばかりの焼き飯にソースを回しかける。

 あとは刻みネギをぶち込んで水気が飛ぶまで炒めたら、昼御飯の完成。


「ええ匂いやぁ」


 香ばしい空気に愛娘が誘われてきた。先ほど布団から出てきたばかりなので口元にはよだれの跡が残っており、お気に入りのイチゴ柄のパジャマは十二時間かけてヨレヨレにされている(おまけにズボンの裾まで踏まれている)。それでもまだ眠り足りないのか、しきりにまばたきを繰り返していた。

 そのくせ右手にはちゃっかり子供用のスプーンを携えていて──香奈はあまりの愛おしさに、脳内の怒り成分を消し飛ばされてしまった。

 うちの娘、可愛すぎるねん。


 香奈はシャモジでフライパンを叩き、米粒と合挽ミンチを一粒も残さずお皿に移す。


「はい。ユメのぶん。あんたの好きな焼き飯やで」

「あーやん、紅ショウガはー?」

「切れてるわ」

「そうなんや」


 ユメは首をすくめる。やれやれ、とは口に出さないまでも、ちょっと呆れたような仕草。

 まだ五歳児やのに、大人っぽく振る舞おうとしとる!

 可愛い! 誰の真似なんやろ!

 お泊り保育で新しい友達でも出来たんかなあ?


 香奈はローテーブルの前であぐらを組み、傍らの愛娘を眺めつつ、焼き飯に口をつける。

 熱い。唇の端から湯気が漏れてしまうほどに。


 自分の分は胡椒を効かせていることもあり、汗が出てきてしまう──ちなみに室内のエアコンはまだ修理されていない。

 ダラダラと汗をかいているのはユメも同じだった。

 あの夜でさえ、あれだけ暑かった。日中の摂氏三十五度に子供が耐えられるだろうか。香奈はモグモグしながら悩む。


(幼稚園が休みやからなあ。まあ先生たちも一泊二日、ずっと子供の相手させられて、そりゃ次の日くらいは休みたいやろうし仕方しゃあないけど……)


 仕方ないけど、ひたすら汗が出る。

 麦茶と氷では止められそうにない。


「ユメ、お皿洗ったら、千林せんばやし商店街行こか」


 香奈は涼みに行くことにした。



――――――――――――――――――――


『あなたのいない日』 作:生気ちまた

 第二話 千林納涼


――――――――――――――――――――



 京橋駅で京阪電車『普通・萱島かやしま行』に乗り込む。平日の昼間なので乗客は少ない。涼しい。

 目的地の千林駅まで四駅。香奈はロングシートに座る。

 ユメのほうはドアの前に立ったまま。じぃっと車窓を眺めている。久しぶりの電車を満喫するつもりらしい。

 香奈はそんな愛娘の様子を楽しませてもらうことにする。

 おお。反対方向の電車に手を振ってる。ふふふ。


『気楽な縁結び 結納一直線ゆいのうストレート 二〇代・三〇代のあなたへ』


 ふと、ドアに貼られた文字が目に入った。ありふれた結婚相談所の広告だが、今の香奈にとっては奇妙な新鮮味がある。


(全く関心なかったけど、あれって、おれでも行こうと思えば行ける所やねんな……)


 当然ながら行くつもりなど一切ない。出会いなんて全く求めていない。

 ただ、あの住所に足を運び、相談員に依頼をすれば「相手」の男性を紹介されるということ自体が、ちょっとした「発見」だった。

 彼女が香奈になってから五年。まだ五年だ。


 森小路駅で二人組の女子高生が乗車してくる。


「でな、その流れでリュウジに告られてん」

「えーマジで? やっと?」

「ほんまにやっとやんな! ウチ、ずっと待ってたからさー、なーんも感動せんかったわ」

「あいつ待たせすぎやわ」


 告られた──香奈はドキッとする。

 まさかユウイチのアレも、もしかしたら一種の告白やったんやろか。お前となら後腐れなくエッチできそうとか、溜まってたから出したいとか……そういう下衆な考えではなく。

 ずっと内に秘めていた……愛の告白。

 だとしたら?


 香奈は座席で頭を抱える。


「ワンチャン……ワンチャン……ううう……」

「あーやん、もしかしてペットショップ行くん?」

「行けへんわ」


 というか、ウチのマンションは犬猫禁止や。

 即答にガッカリした様子の愛娘の手を引いて、香奈は緑色の車両を降りる。

 千林駅は相変わらず素朴な駅だった。スピーカーから鳥の鳴き声が垂れ流され、椅子のペンキが剥げている。



     ★     



 大阪このまちにおいて千林商店街は独特の地位を占めている。都心部から外れた下町の庶民的な商店街の代表格、もとい「おばちゃんの街」として名高い。

 有名な街だけに地元メディアも取材と称してテレビカメラを回し、地球が滅んでも生き残ってそうな強面の中年女性たちにこぞってフォーカスを当てる。

 うちらのイメージの三割は千林で作られとるんや、とは香奈のママ友・大野ママの弁だった。


「失敗した」


 香奈は駅を出て早々に呟く。

 涼むつもりなら商店街ではなくショッピングモールに行くべきだった。あっちは全館空調、千林こっちは雨避けのアーケードがあるだけ。

 路面の店舗から冷たい空気は流れてくるものの、常に涼しいとは言いがたい。熱気が国道の方向から波及してくる。


かどの喫茶店で時間を潰そか。でもユメが退屈してまうしなあ。どないしよ)


「あーやん、あつい。どこ行くん?」

「せやな。あんたの服でも見に行こか」


 香奈はお店をハシゴすることにした。なるべく店の中にいれば、路上の熱から逃れられる。

 彼女としては完璧な作戦のはずだったが……いかんせん店内に入ってしまうと、欲しいものをたくさん見つけてしまう。

 子供の肌着、靴下、乾燥湯葉、筒井康隆の短編集(古本)、仕事関係の実用本、泡石鹸ハンドソープの詰め替え、化粧水、パインアメ。

 香奈の財布はあっというまに寂しくなってしまった。代わりにマイバッグがパンパンになっている。


「実は今度、リュウジの家で勉強会すんねんけどさー」

「そんなん絶対コレ要るで! 自己防衛! 女は自衛せんと!」

「なんでハルカがそんなに必死になるんよ、ウケるて。だいたいリュウジにそんな度胸あるわけないやん」

「あんなんでも男やねんで! 隙あらばヤりたいおもてるわ!」

「あんなんって……まあ、念のために姉ちゃんの棚からゴムもらっとくわ」

「……それさー、バレたら言い訳ヤバない?」


 さっきの女子高生たちが小箱を片手にはしゃいでいる。

 香奈は深く考えないようにしていたことを思い出してしまった。


 あいつは持ってきてたんやろか、アレを。

 こっそり。財布とかに挟んで。

 目的の用途を果たすために。つまり、その。


「うぐぐ」

「あーやん、平気? 頭痛いん?」

「大丈夫やで。もう要るもんうたし、ちょっと歩き疲れたから、喫茶店で座ろか」

「せやなー」


 ユメが明るく答えながらも「やれやれ。大人ってやつはすぐに疲れてしまう」といった様子で首を竦めたことに、香奈は温かな喜びを覚える。

 子供の成長は微笑ましい。たとえ自分おれの子供でなくても。


 不意に近隣の産婦人科の広告が目に入ってくる。

 安心・安全な『お産』。千林レディースクリニック──。


「オラァッ!!」


 香奈は自身の二の腕を平手打ちした。白い肌が赤くなる。ヒリヒリと痛む。おかげでノイローゼにならずに済みそうだ。


「あーやん……?」

「大丈夫。かぁ殺したった」


 彼女は笑顔でごまかした。

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