比屋根一族の陰謀(3)
★
愛海ちゃんからバーベキューに誘われた。
香奈は夕飯の洗い物を終えた後、デニムパンツのポケットからスマホを取り出す。メッセージアプリを起動。『ユメちゃんファンクラブ(4)』を選択。やはり勘違いではない。
自然と笑みがこぼれるが、いかんせん「行く!」と即答できそうにない。
『来週の土曜日、お店が休みなので家族でバーベキューに行くのですが、よろしければ一緒に行きませんか?』
『食材の用意は比屋根家で持っていきます!』
『場所は鶴見緑地です!』
文面だけなら断る理由は見つからない。休日に近所の緑地公園で肉を焼く。比屋根家の姉妹と交流できる。こんなん楽しいに決まってるやん。ビールとか持っていくしかないやん。香奈の口角は自然と上がっていく。
問題は面子だった。
佐奈川先生が『行く行く行く』と即答しているのはええとして、ユウイチまで『バーベキューええなあ』と答えとる。
もうちょっとだけ時間が欲しいねん。
『バーベキューええなあ』
『ユウイチさんも是非!』
うぐぐ。愛海ちゃんに誘われたなら、あいつは参加確定やな。
香奈は文面以外から断る理由を探そうと試みる。冷蔵庫のカレンダーには明日以降もっぱら空白が並んでおり、来週の土曜日も例外ではなかった。
(面倒くさい
ドタキャンは絶対アカンとして。
ユメが風邪引いたなんて、いずれ
いっそ当日に習い事の体験教室に行く予定でも立てといたら……アカン。ユメがハマってもうたら、それこそ毎日の送り迎えがもっと大変になってまうやん。みんなにめっちゃ迷惑をかけてまう。
「……ユメー。今度バーベキュー行くー?」
「行くー」
リビングでアニメを楽しんでいた愛娘が答えてくれる。
あんたが行きたいなら
香奈は踏ん切りをつける。行こう。どうせいつかは会わなアカンねん。あの夜についてはお互いなかったことにしよ。
(というか、
他にも来るんやろか。
あるとしたらママ友の方々、美容室の常連さん、あとは例の佐奈川先生のお弟子さんとか? 女っけ多いなあ。さぞや肩身が狭かろう。助け舟を出したるのもやぶさかではないわ。
香奈は行きたくなる理由を見つけて、ほんのり笑みを浮かべる。行くと決めたら、やっぱり楽しみになってきた。
「ユメー」
「あーやん、やめてー」
彼女は愛娘を背中から持ち上げる。一緒にソファに座り、膝の上の五歳児を撫でる。少し汗ばんだ髪が愛おしい。太陽の匂いがする。鶴見緑地ではいっぱいお肉食べよな。
テレビには白髪の老軍人が映し出されていた。政治家に艦隊の出撃許可を求めるも、首都の守りが手薄になるとして却下されてしまう。それでは部下に十分な兵力を与えられないではないか。落胆する老人を、平凡な顔立ちの部下が「無理をしないで下さい」と労わっている。
香奈はテレビを必死で見つめている娘を解放してやった。けっこう古そうなアニメやけど、誰に教えてもらったんやろ。
★
どうしてこうなってしまったのでしょう。
わかっています。私が失敗したからです。私が『香奈さん』宛ではなく『ユメちゃんファンクラブ(4)』にメッセージを送ってしまったから。
おかげで余計な人がたくさん来てしまいました。
本来ならお父さんと香奈さんが親睦を深める
香奈さんはユメちゃんとうちの妹を連れて、子供用のアスレチックに行ってしまいましたし。いや、遊んでもらえるのはありがたいんですけど、これでは予定が──。
「長女さん」
「はいっ!!」
愛海は全力で振り返る。彼女のことを「長女さん」と呼ぶのはユウイチだけだ。ちなみに妹のほうは「妹ちゃん」と呼ばれている。
そうでした。私にはこっちの進捗もありました。香奈さんがいないうちにたっぷりと親睦を深めておきましょう。
彼女は気合の入った笑顔を浮かべる。
「何でしょう。お肉ですか。ハラミ十枚くらい焼きましょうか」
「そんなに一気に食われへん。それより香奈の奴、知らん?」
「香奈さんなら……子供らとアスレチックのほうに……」
「そっか。ありがとう。見てくるわ」
「いえいえ」
柔和な微笑みでユウイチを見送る愛海。
あきませんやん! あっちに行かせて、どないするんですか! もう!
彼女は(面倒を見ていた肉たちが焦げてしまわないように皿に移してから)トングを放り投げてユウイチを追いかける。
開放的な芝生のエリアを抜け、木々の間を進むと近頃出来たばかりの遊具類が並んでいる。
余所の子供たちが楽しそうに飛び跳ねていた。
見たことのない遊具が多いだけに、愛海もちょっとだけ童心が疼いてしまう。
(……いけません。あんなので遊んでいたらユウイチさんにガキだと思われてしまいます。まずはユウイチさんを探さないと)
彼女は周りの様子に目を凝らす。
平べったいブランコを二人がかりで揺らす男児たち、巨大シーソーの順番待ちで他のグループと揉めている美海と傍らで呆れているユメ、いい年して林の中で追いかけっこに興じる二十代の男女──ってユウイチさんと香奈さん、何やってるんですか?
「なんで逃げんねん。オレに話あるんやろ! 朝に
「あるけど、そんなに近づかんでも喋れるやんか!」
余所行きのワンピースとサンダルゆえに全力では走れず、早足で木に隠れながら距離を取ろうとする香奈を、普段着のユウイチが先回りして捕まえる。彼女の華奢な両肩を正面からガシリと掴んでいた。
相対する二人。全速力ではないとはいえ、走り回っていたせいでお互いに頬が上気している。
「あの時のことはオレがアカンかった。ほんまにすまん」
「ちゃうねん。別にユウイチに謝ってほしいわけやなくて、無かったことにしてほしいねん。その、恥ずかしゅうてたまらんから」
「なら、そうしよう。
「おう」
逆に何があったんですか。
愛海は気になって仕方がない。というより、おそらく一夜の過ちがあったとして、なぜ香奈が無かったことにしたいのか、まるで理解できない。
(そのまま家族になったほうが二人とも幸せじゃないですか。あんなにも……)
ずっと向かい合ったまま、今にもキスしてしまいそうな距離感の二人から目を逸らすと、彼女の妹たちが平べったいブランコで遊んでいるのが見えた。
ユメのほうは涼しい顔をしているが、美海のほうは見るからに不貞腐れている。
仕方ありません。ここは姉の出番ですね。
「……みなちゃん、ユメちゃん。何かあったの?」
「美海悪くないもんッ!! あいつらが横入りしてきたから怒っただけやもんッ!!」
「たしかに横入りはいけませんね。でもケンカしたらアカンよ」
「ユメちゃんがッ!! ユメちゃんが止めるねんもんッ!! いっぱいおるから相手したらアカンってッ!!」
どうやらユメちゃんが短気な妹を抑えてくれたみたいです。
当人は涼しい顔、というより老練な職人のような表情を浮かべていますが、何かのアニメの
「ありがとうね、ユメちゃん」
「…………」
ペコリと会釈を返されます。根っこは可愛い子です。
もちろん美海が怒ってしまった理由も理解できます。横入りはいけません。近くに親がおったなら、叱ってくれたら良かったのですが。
(……ああ。私のは『横入り』ではないですよ)
振り返ると、香奈とユウイチがこちらに近づいてきていた。ほんのりとお互いに距離を取り──「意識」しているように見える。いつもの気の置けない友人同士っぽい雰囲気が消え失せている。
これは確実に接吻を致しやがりましたね。間違いありません。悔しくて泣いてしまいそうです。
でも負けませんよ。香奈さん。
いつかは私の圧倒的なポテンシャル──天才的な若さがモノを言う時が来ますから。そして、あなたには私のお母さんになってもらうんです。
そうすれば、みんなが家族になれて幸せになれます。
愛海は密かに決意を固め、父の浪平にハッパをかけるべく香奈たちより先にバーベキュー場に戻る。
すっかり弱々しくなったコンロとは対照的に、浪平と佐奈川たちは盛り上がっていた。佐奈川と弟子に挟まれた浪平の笑顔は、娘の目にはいつもより下品に見えてしまう。
「お父さん。何か忘れてませんか」
「お? 予備の炭なら箱に入っとるぞ」
「……次は頑張りましょうね」
彼女は彼らの仕事の失敗談を聞き流しつつ、黙々とコンロに木炭を入れ、焦げた網を取り替える。
するとユウイチが駆け寄ってきて、焦げすぎた野菜の処分を手伝ってくれた。
おまけに「長女さん、今日はありがとう」とお礼まで言ってくれる。
それだけで愛海は機嫌が良くなってしまう。
(我ながらチョロいですね)
さらに香奈が持参してきたクーラーボックスから中華麺・ソース・タマネギ・紅ショウガ他を取り出し、余っていた豚肉と合わせて焼きそばを作ってくれた。
香奈の料理は本人曰く「適当」でも非常に美味しく、またもや愛海は幸せな気分になってしまう。
佐奈川の弟子・日高も焼きそばの味に感銘を受けていた。
「すっご。風月みたい。香奈ママさん、何入れてるんですか」
「麺がスーパーで売ってる風月のやつやから。先にキツめに炒めといて、あとはちょっとだけハイミーとケチャップを……」
「へええ」
目を輝かせる日高。そんな彼女に近づいて「俺もたまにケチャップ入れるなあ!」と謎のアピールをする大柄な男性。
足元では子供たちが必死になって茶色の麺をすすっている。
佐奈川に至っては弟子の成長を見守るような目つきで焼きそばを食べている。ひょっとすると、あれが俗に言う後方彼氏面というやつでしょうか。
「旨いなあ」
愛海の父も感心している様子だった。ふふふ。お父さんも胃袋を掴まれましたね。計画通りです。
バーベキュー場が幸福感で充たされていく。
そんな中で唯一、ユウイチだけがどこか上の空だった。
(…………)
愛海としては思うところがあるものの、かといって「二人でイチャイチャしてるところを見てましたよ」と話しかけるわけにもいかず、そもそも実際の彼らに何があったのか、まるで全くわかっておらず。
ひとまず今は「みんな笑ってますし、バーベキューやってよかった」という素朴な充足に身を委ねることにした。
作戦成功です。
★
夕方。
香奈は空っぽのクーラーボックスを携えて、蒲生四丁目のマンションに戻ってくる。彼女の娘のほうはアスレチックで遊びまわったせいか、すっかり夢の世界に囚われており、ユウイチの背中でスヤスヤと寝息を立てていた。
「ユウイチ、悪いけど布団まで運んだってや」
「入ってええんか? 山田の家に」
「当たり前やん」
彼女は鍵を開ける。
ユウイチが寝室から戻ってくるまでにベランダに干していた下着類を回収し、修理されたばかりのエアコンをギンギンに効かせておく。
そして冷蔵庫から缶ビールを二つ、取り出した。
「ユウイチも呑み足らんやろ」
「ああ、せやな」
あの時以来の乾杯。香奈はどうしても思い出してしまうが、無かったことになったからには決して口に出したりしないつもりだ。
ユウイチも同様のようで、しばしリビングには静寂が流れた。エアコンのゴウゴウという動作音がおのずと抽出される。
香奈は話したかった内容を思い出す。
「あんな。気のせいかもしれへんけどな」
「なんや」
「愛海ちゃんに誤解された気がするねん。おれらのこと」
「誤解?」
「ほら。アスレチックの近くでお前と喋ってた時、めっちゃ見られてたやろ……えっ。まさか気づいてなかったん?」
「全然わからんかった」
ごまかすようにビールを飲み干すユウイチに、香奈は笑ってしまう。どんだけ必死やったんや。こいつ。
けっこう凝視されてたから、こっちは気恥ずかしかったくらいやのに。これは二本目追加やな。
香奈は冷蔵庫から取ってきてやる。バーベキューにかなり持参したので、もうほとんど残っていない。
「ほれ」
「サンキュー。それで誤解ってのは?」
「片づけしてる時、あの子に『全然関係ないんですけど、キスってどんな味がするんですか?』って訊かれたから。ほら、あん時けっこう近かったやろ。子供ほったらかして林の中で何やってんねん、みたいな」
「山田の両肩を掴んでたしなあ」
「あの年頃の子はすぐにそういうの想像しよるからな」
香奈はそう言ってから、いつぞやの中学生男子ばりに性の情報に敏感だった時期を思い出す。
ええい。あれも無かったことにしたらええねん。
彼女はビールで喉を洗い流す。今度はユウイチが二本目を持ってきてくれた。
「ありがとう」
「おう。それで肝心の誤解ってのは何やねん」
「え? 今の話やで」
「なら、そんなん気にせんでええやろ。一応、世間的には
たしかにそうかもしれへんけど。
あの子、たぶんお前のこと好きっぽいし。あの子にはそういうところを見せたくなかってん。
香奈は言えるはずのない言葉を飲み込む。
本人のいないところで友人の秘めた想いをべちゃくちゃと明かすのはアホのやることだ。あるいは相手をよほど見下していないかぎり、出来っこない。
それに──もしユウイチのほうも乗り気になったら。
香奈の周りの様相は良くも悪くも大きく変わってしまうことになる。
(あんなに可愛らしい女子高生に迫られて、落ちひん奴おらんやろ。どない考えても
そこまで考えて、彼女の思考は止まった。
なんでそこまでしてくれるん?
ここ三年、世話になるたびに感じてきた罪悪感が胸の奥から逆流してくる。
そうやん。無かったことにしたけど。
こいつは香奈のことが好きやから、色々と手助けしてくれてるんやん。
「……チューくらいしてても、おかしないか」
「そらそうやろ。山田も大学の時とか、彼女おった時には」
「なら、する?」
これは紛れもなく『打算』。向こうが香奈に好かれたいから手伝ってくれてるなら、たまに香奈をくれてやれば帳尻が合う。
キスまでなら許す。それでユウイチとこれからも
二人はソファに座ったまま、隣同士で見つめあう。缶ビールをテーブルに戻し、香奈は両手を握りしめ、ユウイチのほうは彼女の両肩・二の腕を掴んでくる。
先ほどと同じように。
彼女は目をつぶった。
そして──両肩から前後に
「大丈夫か? 正気か? 山田、お前酔いすぎやぞ」
「お、そ、そう思うなら揺らすなや!」
「オレに付き
「いや……別にまだ……」
「ユメちゃんのところで横になっとけ。明日どっか行くんやろ。オレも今日はここまでにして、横堤に帰らせてもらうから」
ユウイチがテーブルの二本の缶ビールを飲み干し、台所まで持っていくのが見えた。そのまま「じゃあな」と玄関のドアノブが回される。ガチャリ。
再びエアコンの音が抽出されていく。
香奈はソファにもたれかかり、頭を抱えた。
★
墓石の膝元に花を供える。二つの窪みに茎を挿し、
香奈は両手を合わせた。彼女の前には『南無阿弥陀仏』と刻まれた花崗岩があり、水鉢の下には巴の家紋が浮き彫りされている。
八月初旬の日曜日。曇り空の正午。
香奈は
「あーやん。なー、これ
「なむあみだぶつ」
「んー? 誰のお墓なん?」
「ユメにとって大切な人やでー」
彼女は娘にも水をかけさせる。あんたの
安物のライターで線香の先端を焦がし、赤くなったら器具に挿れる。
彼女は再び手を合わせる。
中に収められた自分本来の肉体と、他人の魂に想いを馳せながら。
浅井香奈。ユメにとっては大切な人かもしれないが、山田隆幸にとっては必ずしもそうではない。
相手は山田から『人生の全て』を奪った代わりに『望まぬ死』を賜った。山田は現在進行形の苦難を数多く押しつけられたが、同時に宝物を譲り受けた。
諸々を差し引きすると、限りなくゼロに近いマイナスになる。
少なくとも
(浅井さんはおれを恨んでるんやろか。いつか、あの世で訊いてみたいもんやわ。恨み言には恨み言で返させてもらうけど)
すっかり軽くなったバケツに柄杓を収めて、二人は来た道を戻っていく。
ユメは上機嫌だった。
「
「せやなあ」
遊園地とは近隣の子供向け遊園地のことだ。香奈たちは毎年墓参りに来るたびに
今日の天気ならギリギリ泣かれずに済みそうや。
香奈は空いた手で愛娘の手を取る。砂利の上でぴょんぴょん跳ねていたから、そのうち転んでしまいそうで怖かった。
近辺の山並みを眺めているうちに墓地の出口が近づいてくる。
道路に降りる階段で別の来訪者たちとすれ違う。
若い男女だった。大学生ぐらいだろうか。二人ともほとんど身長が変わらず、顔立ちもよく似ているあたり兄妹──香奈は身体から血の気を失う。背筋が寒くなった。
五年ぶりやから、すぐに気づかれへんかった。
おかげで変に反応せずに済んだ。
助かった。
「……ユメ、ちょっと走るで」
「走る!」
「挨拶もないんか。人殺し」
香奈の知っている少年の声ではない。変声期を経て大人になり、かつての名残はほとんど残っていない。
それでもわかってしまうのは。
香奈は振り向けない。
なんでお前らがここにおるねん。お盆はまだ先やろ。わざわざ時期をズラしてるのに、なんで今おるねん。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます