比屋根一族の陰謀(2)
★
午後。幼稚園の校舎から歌声が聴こえてくる。
当初は拙かった年長組の『むすんでひらいて』も日々練習を重ねるうちに音程が揃いつつある。
やがて終わりの会が始まった。
スマホで時刻を確認してから、彼女は目を閉じる。胸のあたりまで伸びた二つくくりの黒髪が北風に煽られ、唇に毛先が入り込んできた。街路樹のクマゼミがジャージャーとうるさい。あと日差しが熱い。
「まなちゃん! ちょっと!」
自転車のブレーキ音。大野ママに話しかけられた。愛海は瞑想の時間を終える。
「大野さんこんにちは」
「そんなペンキまみれの壁にもたれてたら、あんた洗う時大変やで!」
「うわっ」
彼女は慌てて茶色の壁から距離を取る。大野ママに背中を見てもらったら、笑顔で親指を立ててくれた。もう乾いていたらしい。
ホッとする愛海たちの元に別のママが近づいてくる。おっとり系美人の飯田ママだ。シースルー生地のワンピースを日傘で守っている。
「まなちゃん、こんにちは~。大野ママ、そこ塗装屋さん来てたん先週やで~」
「あれ? せやったっけ?」
「あんた忘れっぽいな~。お泊り保育の前後に来てたやんか~」
「あかんわ、もう年やわ」
「もう大野ママ、あんたうちより年下やないの~」
えっ。
いかにも大阪のおばちゃん予備軍といった風貌の大野ママに対し、飯田ママがあまりにも若々しい見た目のため、愛海は絶句してしまう。
飯田ママ。旦那さんがおらんかったら『新ママ候補』に挙げていたのですが、うちのお父さんとは色々と釣り合いそうにないですね。
やっぱり香奈さんが有力候補です。愛海は小さく
当の香奈は園児たちが出てくる時間になっても姿を見せず、どうやら今日も夕方まで預かり保育の予定らしい。
大野ママと飯田ママが心配していた。
「浅井ママおらんなあ。ネットのお仕事が忙しいんやろか」
「シングルやと大変なんやろね~」
「預かり保育だってタダとちゃうし、ひと月で一万円くらいするやろ。大丈夫なんかなあ。はよユウイチくんと再婚したらええのに」
そうはさせません。決して口には出さないが、愛海の意志は固い。
あの二人が付き合っていないと確定したからには、私は私の理想とする
幼稚園の玄関から天使のような妹がふてくされた顔で出てくる──もう二度とあの子の存在を呪わないために。
「イヤやッ!! まだ帰りたくないッ!!」
愛海の妹・
何となく理由には予想がついたが、美海はスカートの裾を抑えながら
「なんで? おうちに帰りたくないの?」
「まだユメちゃんおるもんッ! ユメちゃんとお絵描きするねんッ!!」
やはりそうでしたか。
校門のほうを見れば、当の
以前は天真爛漫で赤ちゃんをそのまま大きくしたような子でしたが、先月あたりから人柄が変わったように見えます。まるでやれやれ系主人公のような……変なアニメでも観たのでしょうか。いずれ私の妹になるかもしれないだけに、ちょっと心配です。
愛海はユメやママ友たちに手を振りつつ、もう片方の手で妹を引っ張る。
「イヤやッ!」
「明日遊べばいいでしょう」
「明日、終業式やもんッ! 夏休みやもんッ! 美海は幼稚園行かんもんッ! ユメちゃんは行くのに……もう会われへんもんッ!」
ついに妹は半泣きになってしまう。
そうですね。
おかげで私の夏休みはずっっっっっっと子守り確定です。お父さんは週に一度しか休めませんし。あの人が家にいたとしても何の役にも立ちませんが。
全く。本当に──愛海は右手の握力を弱める。妹を手放さない程度に。
(いけません。私の宝物をまたしても呪ってしまいそうになりました。あなたさえいなければ、そんなん全然本心とちゃうのに……)
彼女は空を見上げる。
自分が部活に入れないのも、友達と放課後に遊べないのも、日々生活の後始末に追われているのも。
全部妹のせいじゃない。お母さんがいないからだ。
「進捗しなければ……年内には必ず、私の天才的な策略で……」
「お姉ちゃんッ! ハキハキ喋ってッ!!」
「みなちゃんもお母さん欲しいやろッ!!」
「欲しいッ!!」
まだ幼い妹の力強い同意に、愛海は満足げな笑みを浮かべる。そうです。比屋根家みんなで頑張りましょうね。
★
城東商店街の美容室『ルーフ』の二階にはキッチンと布団が並んでいた。他には姉妹の私室代わりのウォークインクローゼット、パソコン台と化した小さな本棚、トイレ、テレビ等がある。
帰宅早々、愛海は妹からプール授業でたっぷり水を含んだ袋を預かり、窓際の洗濯籠に投げ入れた。あとでまとめて回します。彼女は階段を下りる。
店主は暇そうに雑誌を読んでいた。
「お父さん」
「おお。愛海、今日の晩飯どないする?」
「キノコのオムレツと味噌汁作る……そんなことより今朝のあれ、なんなん? やる気あるんですか?」
「オムレツええなあ。あの人の件か」
「浅井香奈さん。二十六歳。独身の子持ち。料理上手。めっちゃ良い人」
「ああいう常に身構えてる感じの人は、あんまり話しかけへんほうがええぞ。向こうが話したい時に合わせたほうが」
「言い訳せんといて。まずは会話せんと、お互いのことわからんまんまやん。初めは全くの他人でも、打ち解けていくうちに別の一面を知るようになっていって、いつの間にか惹かれあう……なんてことも、ありえるわけやし」
「ブフッ」
「なんで笑うんな!」
父に笑われてしまったせいで、愛海の肌は一気に赤くなる。
ううっ。たしかにちょっと恥ずかしいことを言ってしまった気がします。肉親に恋愛論を語るなんて。彼女は扇子で顔を冷ます。
「すまんすまん。でもな、俺が思うに、あの人は今そういうのを求めてないねんな」
「私はお母さんが欲しいんです」
「相手の都合を考えな。何ごとも押しつけたらアカン」
「私には……モテモテやったお父さんでも、何とかならへんの?」
「うぇー」
浪平は雑誌を閉じて、気まずそうに目を泳がせた。
愛海にはわかる。これは『格好つけたいけどつけられへん時』の顔です。
「あのな……お前のお母さん、
浪平は壁に飾られた結婚式の写真に目を向けつつ、顎髭を指先でいじくる。
比屋根渚。七年前に亡くなった女性は、今も写真の中で嬉しそうに笑っていた。
娘の愛海は思索の末、答えを導き出す。
「つまり香奈さんがお父さんのことを好きになれば、万事上手いこといくわけですね」
「おお……まあ、せやな」
「であれば、やはり接点を作らないといけません。さっきは一笑に付されましたが、この店に来るたびに会話をたたみかけ……いや。それだけではユウイチさんを超えられません。ここは攻めの一手といきましょう」
「ユウイチ?」
「香奈さんの偽装彼氏です。当日は私があの方を引きつけますから、お父さんは全力で香奈さんと接点を作りまくってください」
「え? 彼氏? 当日? なんや知らんけど、え? 何の話や?」
「今、言うたやんか! 来週の土曜日、断水の日にみんなでバーベキューに行きます! 鶴見緑地へ!」
「俺なんも聞いてへんぞ!?」
目を丸くする父に対し、愛海はため息をつく。
(父といえども天才の頭の回転にはついてこれませんか。仕方ありません。企画や口実、予約、当日の用意まで私が代行しましょう。いつものように)
彼女は美容室のカレンダーに印を付ける。香奈さんの浪平評は『イケメン』つまり好印象。なるべく近くに居続ければ、そのうちキッカケも生まれるはず──含み笑みを浮かべ、階段の一段目に足をかける。
「愛海!」
「何ですか」
「いや、話変わるけど。今日は期末試験やろ。どうやった?」
「……赤点は回避できそうです」
彼女は急紅潮した頬を両手で隠しつつ、気まずそうに目線を泳がせた。
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