今はまだ、あなたのいない日(2)


     ★     


 市内の洋食店で料理をいただき、郊外のマンションまで車で戻ってくる。

 3人とも数時間に渡って姿勢を正していたせいか、表札の「野口」が見えたあたりで疲労が限界を迎えていた。


 香奈は強引にユメを風呂に連れ込み、髪の毛を乾かした時点で子供部屋の布団に投げ入れた。

 あとはもう知らんとばかりに缶ビールのプルトップを開ける。子供の寝息をさかなに呑む。そして寝る。明日のことは明日考える。


 ユウイチも同じような発想だったらしく、飲み終えた缶をゴミ箱に捨てていた。


「寝よか」

「おう」


 パジャマ姿の2人はリビングから寝室に向かう。

 ユウイチが伊那いな地区のニトリで仕入れてきたダブルベッドが「野口夫妻」の寝床だった。

 彼らは目を合わせる。アルコールに酔うほど呑んでいない。

 だから理性的に話を逸らすことが出来る。

 香奈はベッドの左端に横たわり、名目上「旦那」ということになっている同居人に告げる。


「なあ。明日ユニクロ行きたいわ。ユウイチ。悪いけど車出してえや」

「ユメちゃんの服でもうたるんか?」

「おれの下着や。言うたらアレやけど、ちょっと太ってもうた。ドレス脱いでから付けなおす時にスタッフさんからサイズうてない言われて。えらい恥ずかしかったわ」

「わかった」


 ユウイチが背中越しに了承してくれる。

 こいつなりにセンシティブな部分には触れんようにしてるんやろな。逆にこいつのほうが香奈おれの体調とか理解してそうやけど。

 香奈はパジャマの上から自身の乳房に触れる。

 元々かなり細身な方やし、多少太ったくらいでちょうどええんかもしれへんけど……これはえたというより日頃の行いが反映されてるんとちゃうか。

 臆面もなく言えば、背中の向こうにおる男に揉まれ続けたせいや。半年以上も。


 香奈は布団の中で半身をよじらせ、目尻で「旦那」の様子を窺う。視界には大きな背中と首筋しか映らない。

 向こうも少し疲れてるんやろか。彼女は何の気なしに訊ねてみる。


「あれ、今日はせえへんの?」


 ユウイチは反応を見せない。

 彼女は猛烈な焦燥感に苛まれた。

 おれアホやん。ただ確認したかっただけやのに。そんな言い方したら。


(こっちから誘ってるみたいやんけ!!)


 彼女は布団の中で悶絶する。


 いわゆる「営み」についてはユウイチから来る分には(身体的な理由がないかぎり)断らないようにしていた。

 ユウイチは香奈とやるためなら人殺しを辞さへん奴や。

 常にやりたくてやりたくてしょうがないんや。

 新居に引っ越す際に子供部屋と夫婦の部屋を分けたのも、多分そういうことだろうと香奈は理解していた。

 香奈の方から求めたことは一度もない。

 彼女おれは相手の要望に付き合ってるだけや。ずっと一緒にいてもらうために……。


 モゾモゾ。ユウイチの背中が少し動いた。


「子供の話なんやけど」

「い、いきなり本丸やな。ユウイチらしいわ」

「ユメちゃんにとって……本当ほんまに妹がおったほうがええんやろか」

「本人は欲しいみたいやけど」

「もし出来ても。その。父親がちゃうわけやろ。オレがもし新しい子供にばっかり気が向いてもうたら不幸やん」

「まあ……それはおれもそうやな。自分で実際に……う、産んでもうたら。ユメより可愛がってしまうかもしれへん」 


 香奈は嫌な想像をしてしまう。

 ユメを産んだのは山田と入れ替わる前の浅井香奈だった。血縁上の父親は思い出したくもないクズ。当然ながらユウイチの実子ではない。

 戸籍上は野口夢のぐちゆめになっとるけど。

 たしかに次に生まれてくる子供とは、一線を画してしまう可能性は否定できない。


 同時に香奈としては──母親である自分よりもユウイチのほうが先に「不安の種」を見つけていたことに、強烈な自己嫌悪を抱かざるを得なかった。

 やっぱり自分おれはあの子の母親あーやんにはなりきれへんな。

 本当は愛してあげるべきやのに。あげたいのに。

 いつまで経っても心が追いつけへん。


「いっそのこと、ユメにはおれたち以外の家族がおったほうがええんかもな……」

「おらんほうがええかもしれんぞ……」

「どうなんやろ……」

「ユメちゃん……」


 背中越しの会話。

 互いに向き合うことなく。それぞれなりに。二人は幼子の行方を案じる。

 やがて答えが出たらしい。


「山田」


 モゾモゾ。

 ユウイチが香奈のほうに身体を向けてきた。応じるように香奈も少しずつ身体を転がす。

 おのずと布団の中で軽く抱き合うような形になった。

 香奈は息を止める。いつもよりユウイチの目が近く感じられた。何のつもりなんやろ。彼女は相手の言葉を待つ。


「お前は……山田自身はどうなんや。子供のこと」

「おれ? おれは……そら産みたいとか一切思わんで。絶対に大変やん。初産のほうがヤバいらしいけど。下手したら死ぬかもしれへんし。やっぱり痛いのは勘弁やわ。飯田いいだママみたく悪阻で苦しむのもアレやし」

「せやなぁ……」


 ユウイチが口をつぐんでしまう。

 それだけで彼の気持ちがわかるくらいには、香奈も付き合いが長くなってきた。思えば再会して3年、4年になるんか。


 こいつは子供が欲しいらしい。

 女房との間に作りたい。設けたい。お腹を孕ませたい。家庭を築きたい。

 生き物の欲望であり大人の希望ゆめがユウイチにあるのは、長らく男性をやってきた香奈にも理解できてしまう。

 自分も昔はそうしたかった。


本当ほんま難儀なんぎな女を好きになったもんやな、ユウイチは。こいつなら、もっとまともな嫁さんを捕まえられたやろうに……)


 彼女は目の前で結ばれたままの唇を、舌先でほぐしてやる。

 乾いた表皮がザラザラとささくれていた。続けるうちに水やりしている気分になってきた。

 ユウイチがビックリしている。


「えっ……ええんか、山田」

「アホか。おれがしんどいだけやのに産みたいわけないやろ。ただ、一緒にいてくれるユウイチの希望にはなるべく沿ってやりたいねん。おれとしては」

「どういうことや、それ」

「お前のためなら嫌々いやいや産んでやらんこともない、的な。それだけの話やわ。……すぐに理解せえや、もう」


 香奈は顔を背ける。

 子供を作る。いざとなると自分の心が耐えられそうにない。ユウイチが強引に求めてきたという形を取らないと、彼女の中で納得感コンセンサスが吹き飛んでしまう。

 相手に背中を向ける。香奈は体中が赤くなっているような気分になる。

 早くしてくれ。このままやとマルマインみたいに破裂してまう。

 彼女は思わず膝を抱える。彼の指圧は未だ感じられない。


「……おい。ユウイチとるんか」

「待ってくれ。さっきのユメちゃんの話。まだオレとしては収まってないねん。あの子にとって本当にええことなんか。山田もそうや。お前が作りたないなら、オレのほうから押しつけるのはアカンやろ」

「手伝ったるからお前が責任取れ、言うとんねん」 


 薄闇の部屋、寝具ベッドの上。

 香奈にはこれ以上のことは言えない。

 布擦れの音。ユウイチが上からおおい被さってくる。

 のしかからないように香奈の左右で手を突いてくれている。シーツに引きつったようなシワが生まれる。


 二人は再び目を合わせる。

 どちらが先かわからないタイミングで、互いに笑ってしまう。


「ぶふふっ。オレら、雰囲気の欠片もないなあ」

「ほんまや」


 香奈はパジャマのボタンを外し始めた。

 白い肌が少しずつ露わになる。


 ユウイチが彼女の懐に指先を滑り込ませる。薬指の指輪だけが冷たい。

 彼の生温い唇が、彼女の焦げた部分をついばむ。力強い左手が乳房を弾ませる。

 彼女の耳が赤くなる。


「香奈」


 人前で話す時と、行為の時だけ、彼は彼女をそう呼ぶ。

 彼女はそれが恥ずかしくて仕方ない。怖い気持ちも常にある。視界の底が抜けるような心細さもある。しかし彼を止めることはなかった。

 互いの複雑な心情が、血潮に色を添えていく。

 冷房。汗。首筋の吸いつかれた痕。唇。毛。虹彩。上気した頬。右手首の腱。臀部。固い胸板。耳。


「付けへんぞ」


 ユウイチの宣言に香奈はツバを飲み込む。今日は大丈夫やと思うけど。本当ほんまにここまで来てもうたんやな、おれら。

 力強い指先が腰骨の辺りをつかんでくる。

 手つきと表情、体勢からユウイチの性格が伝わってきた。儀式やないんやから。彼女は笑ってしまいそうになるのをグッと堪えたが、代わりに吐息が漏れた。

 ああ。今日は大丈夫やと思うけど。あんまり太りたくないなあ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る