今はまだ、あなたのいない日(3)
★
青空が映える山間の夏。とある金曜日。
大阪から冷凍の豚まんを携えてやってきた
「がっ……で、出来たのぉ!?」
「はい」
「来る前に言ってよ! お祝いの品持ってこれたじゃん!」
「先生に
香奈は嘘をついた。
本当は単純に言い出せなかっただけだ。
当然ながら大阪にいる弟妹たちにも教えていない。
あいつらには多分一生言わんわ。香奈はコミカルな表情の女性弁護士をリビングまで案内する。
「お、お茶とか逆にワタシが出すよ。香奈ちゃんは座ってて座ってて」
「先生。いうてまだ3ヶ月ですよ。病人扱いせんといてください」
香奈は冷蔵庫からポットを取り出す。
火照った身体には冷たい麦茶が効く。佐奈川はあっという間に飲み干してしまった。
「ふう。とりあえず、おめでとう香奈ちゃん。生まれるのはいつ頃?」
「来年の1月ぐらいです」
「早生まれだね」
「はい。2月生まれのユウイチが『オレと同じハンデ組や』とか、ほざいてました」
「たしかにワタシも1月生まれだけど……小学校までは心身の成長に差が出ちゃうよねえ。4月生まれのセンパイたちと比べちゃうとさ。その代わりアラサーを抜けると逆に同級生より若いじゃん、って有利に立てるよ。つまりトータルではお得と言えますねん、これが」
弁護士がドヤ顔で親指を立てた。
香奈は笑ってしまう。
「相変わらず先生、大阪弁下手ですね」
「横須賀育ちだもん。ちなみに男の子? 女の子?」
「男子でしたわ。ユメは妹が欲しい
「そっかあ」
佐奈川は柔和な笑みを浮かべつつ、廊下の壁に掛けられた小さな家族写真を見つめる。
花嫁・花婿・愛娘。全員が情熱的に抱き合う様子が保存されていた。
佐奈川の唇から安堵の息が漏れる。
「本当におめでとう。色々あったけど、香奈ちゃん、ハッピーエンドだね」
「ハッピーエンド?」
「あの頃を思えばさ。香奈ちゃんがすごく幸せそうで良かったよ。本当に。ああーなんか泣いちゃいそう」
スラックスのポケットから灰色のハンカチを取り出す佐奈川。
ポロリと涙がこぼれている。
ハッピーエンド。めでたしめでたし。幸せに暮らしましたとさ。
彼女の繰り出した表現に、香奈は釈然としない。
はたして、これが幸せな結末と言えるんやろか。
佐奈川先生に他意がないのはわかる。きっと本気でそういうふうに見えたんやろ。実際、
ただ。やっぱり、今でも考えてしまう。
あの時、あの近鉄鶴橋駅のプラットホームで、あの列に並んでなかったから。階段を転がり落ちてくる母子を避けられたら。
本来の人生を味わえず、自分という存在が世の中から消え去り、おかげで未だに何もかも「自分ごと」にならない。
それが
佐奈川先生には伝えようのない話やけど。どうなんや。いつまでも
香奈はシャツの上から、自分自身のお腹をさすった。まだ目立たない。だが新年のお笑い番組が流れる頃には臨月を迎える。
カレンダーをめくった先に予定日・そして誕生日が刻まれることになる。
香奈にとっても。生まれてくる子にとっても。きっと死ぬまで忘れられない日になる。
「先生。多分なんですけど。わたしが死ぬ時には、まあ幸せな人生やったなーと思えるはずなんですよ。そんな予感はしてるんです。女のほうが寿命長いですし、ユウイチはそん時死んでるかもしれませんけど、ユメがおって。きっとこの子も傍におって」
「うん」
「そんでまあ……ただ何というか。今はまだ自分としてはハッピーエンドではないんです。まだ何も終わってない、といいますか」
「ハッピーだけど、エンドではないってこと?」
「ハッピーでもエンドでもない。やっぱり、あの時ああしてたらって考えてまうんですよ。どうせこの子が生まれたら、忙しゅうて全部吹き飛びそうやけど……ふとした時には、悔やんだり、悔しかったり。してまうんです。色々と。先生には幸せそうに見えても、わたしは……」
不幸や。
そうとも言いきれないのが香奈としても難しい部分だった。
三人で過ごす穏やかな日々にはそれなりに満足している。些細な悩みが全身にへばりついているだけだ。
ともすれば他者にはマタニティ・ブルーで片付けられてしまうかもしれない、その程度の「憂鬱」に苛まれている。
「わかるよ」
佐奈川の表情がほんの少し仕事の色に染まっていた。
わかるって
香奈は少し身構えたが、なぜか対面の女性はふわっと脱力するような仕草を見せてきた。背もたれに上半身を預け、小さく息を吐いている。
「わかるよー。ワタシも毎日後悔ばっかしてるもん。仕事柄ってのもあるけどさ。ずっと大昔に……中学の時にね。なんか下級生の男子どもに取り囲まれて、ブスだのキモいなど言われまくった時期があってね。学校行けなくなっちゃったの」
「えっ」
「それからずーっと部屋でゲームばっかしてたんだけど。よくよく考えたら学校行っても良かったなって思い始めてさ。悪いのは完全にあいつらでしょ。なのにワタシが学校追い出されちゃった。それが悔しくて悔しくて。あの時のワタシを助けられる自分になりたくて……なっちゃったわけさ!」
彼女はシャツの左胸の辺りを叩く。
今日はオフなのでバッジを付けていないらしい。
「初めて聞きました、先生の昔話」
「楽しい話じゃないからねえ。まあワタシが言いたいのは、香奈ちゃんも自分がやりたいようにやったらいいと思うよ、ってことかなー」
「それユウイチも
「わはは。さすがに合コンはダメでしょ。ユウイチ君ったら。ワタシなら香奈ちゃんが浮気したら何万円取れるかなあ。イヒヒ」
佐奈川がケラケラと笑う。
香奈は少し引いてしまった。
(先生、
香奈は少し気が楽になる。
それは多分、
★
駐車場の片隅にポルシェが
親しき依頼人の「おめでた祝い」を現地調達するため、佐奈川は近隣のショッピングセンターに向かおうとしていた。
愛車の鍵を振り回しながら歩道沿いのバリカーを乗り越え、彼女は意気揚々と運転席に乗り込もうとする。
「ジャスティス!?」
背後から子供の声がした。
振り返れば、学校帰りのユメが満面の笑みで駆け寄ってくる。赤色のランドセルが上下に跳ねていた。
以前香奈から聞いた話では長野県の学校は夏休みが余所より短いらしい。八月下旬に授業が始まるなんて発狂もんですわ、と大阪人の彼女は笑っていた。
佐奈川は猛スピードで突っ込んできたユメを抱き止める。
「ユメちゃん、お
「ジャスティスも久しぶり! なんで長野おんの?」
「みんなに会いに来たんだよ。ユメちゃん、弟が出来るんだってね」
「うん! コウ君やで!」
「こうくん?」
笑顔で首を傾げる佐奈川のために、ユメはわざわざランドセルから自由帳を取り出して「
漢字の傍らには力強い筆致で赤ん坊(?)の絵が描かれていた。名前のほうは
「なるほどねえ。そっかぁ」
「コウ君が生まれたら、ユメお姉ちゃんになるねん!」
「なんだ幸せなんじゃん」
佐奈川はポソりと呟く。
当然ながら子供の未来を願う命名であり、今の香奈たちの状況を示しているわけではない。
しかしながら佐奈川としては、廊下の壁に掛けられた家族写真がチラついてしまう。
同時に香奈が原因となった鉄道事故の被害者が、たしか
「………………ユメちゃん。お母さんには伝えておくからさ、今からわたしと一緒にドライブしよっか」
「するする! またジャスティスとユニバ行くー!」
「あはは。イオンでアイス買ってあげるね」
「ハーゲンダッツや!」
ウキウキした様子でポルシェのチャイルドシートに乗り込む小学生。
佐奈川は誘拐犯になったような気分になりつつ、香奈にメッセージを送っておく。少し文面に悩んでしまったのは、ここだけの秘密だった。
(あなたのいない日 後日談・完)
あなたのいない日 生気ちまた @naisyodazo
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