千林納涼(2)


     ★     


 喫茶店で親子共々クリームソーダを堪能していたら、いつのまにかアーケードの上空に雲が出ていた。

 天気予報は晴のち曇りやったのになあ、と周りのおばちゃんたちが文句をたれている。


 香奈は店を出てから、カバンに手を入れる。折りたたみ傘の存在を確認。点呼ヨシ。


(いざという時に備えておけば、無駄な出費を省けるねん。例えばコンビニで六百円のビニール傘を購入したり、ついでに子供が二百円のお菓子をせびってきたり……おおまかに八百円の節約になったわけやな)


 彼女は己の『主婦力』の高まりを感じ、ちょっと複雑な気分になる。

 別に主婦にだけ求められるスキルとちゃうし、『生活力』と言い換えたほうがええな。

 ツンツン。ユメの指先が脇腹を突いてくる。こそばゆい。


「あーやん、次どこ行くん?」

「雨降りそうやからよ帰ろか」

「帰るー」

「──すみませーん。お母さん、少しだけお話よろしいですかー」


 駅の方向から二人組の男女が近づいてきた。それぞれマイクとカメラを携えており『なにわ放送』の腕章を付けている。

 テレビ局だ。

 香奈はビックリした。


(えっ……主婦力が高まりすぎて、まだ二十代やのに取材対象おばちゃんになってもうたんか……いやいや、ちゃうちゃう。そんなことより顔映されたらヤバイやん!)


 彼女は咄嗟に顔を隠す。団扇など持ち合わせていないため、日用品でいっぱいになったマイバッグを遮蔽物とした。

 おかげで右腕の筋肉がつりそうになる。


「えっ? テレビ? テレビなん!? すっごい!!」


 彼女の愛娘は、初めて見るテレビカメラに興奮している。

 跳び跳ねていて可愛らしいが、香奈の表情は険しい。


「アカンよ。ユメ、うちらは出られへん」

「なんでー!?」

「なんでって、ほら。かくれんぼの『鬼』に居場所がバレてまうやろ」

「そんなん今やってないやん!」

「ええから、ほら行くで。すみません、堪忍してもらえますか」


 香奈は取材陣を振り切り、子供の手を引いて早足で千林駅に向かう。

 かくれんぼ。追っ手に見つからないように隠れる遊び。浅井家の母子は都会の片隅で、どこかですれ違うかもしれない『鬼』から逃げ続けている。

 だからママ友のように実名でSNSなんてできないし、可愛い我が子の写真を見せあうこともできない。


「テレビ……出たかったー……」

「うちはテレビ出るの禁止や」

「えー」


 ユメはため息をつく。

 ポーズではない本気の落胆を感じ取り、香奈は胸が痛んだ。

 でも、仕方しゃあない。


「今日の晩御飯はオムライスにしょうか」

「えっ!? ほんまに?」

「ほんまに」


 ただ好物を思い浮かべるだけで機嫌を直してくれる、素直で可愛い娘に感謝しつつ、香奈は電車で帰路につく。

 何があろうと、この子だけは何としても守ったらなアカン。


「オムライス! ユウちゃんも来るんかな?」

「……あいつはしばらくえへんで」

「なんで?」


 呼びたくないからや。



     ★     



 誰かに吐き出したい。

 香奈は相変わらず熱帯夜のマンションで、愛娘が眠りにつくまで団扇であおってやりながら、悶々とした気持ちをくすぶらせていた。


 あいつのせいで思春期の中学生みたく「性」に敏感になってもうてる。

 香奈は二十六。山田おれかて、もう二十四やのに。産婦人科の広告見ただけで色々と想像してまうのはウブすぎるやろ。


 彼女はリビングに向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出した。プリンの瓶を流用したコップを一気飲み。生き返る。


「ふぅ」


 少し落ちついてから、テーブルのスマホを手に取った。

 数少ない連絡先のうち、もっとも信頼できる人物の名前をタップすれば、独特の形容しがたい女性の声が聴こえてくる。


『もしもし』

「あっ。浅井香奈です。佐奈川先生、今よろしいですか」

『面談終わったばかりだから平気だよー』 


 佐奈川暁美さながわあけみ。香奈の味方を称する女性弁護士は、訛りのない柔らかな口調で答えてくれる。


 香奈は安心し、さっそく相談に入ろうとするが──さて、どのように伝えたらいいものか。

 そのまま「ワンチャン」とうても、わかりづらい。

 別に告白されたわけでもない。多分。仮にあれが愛の告白やとしたら小学校から国語をやり直したほうがええ。

 で、あれば。


「ユウイチに迫られました」

『良い弁護士ならここにいるよ』


 佐奈川の口調が仕事モードに入る。

 ちゃうちゃう。そういうことちゃいますねん。


「せ、迫られたといっても強引に……というわけではなくてですね、ただその……ユメがいなくて、二人きりになった時に……」

『太ももでも触られた?』

「そんなことは何も!」

『イヤな思いをさせられたの?』


 電話口の問いかけに香奈は黙り込む。

 別に何もされていない。だからイヤとかイヤじゃないとか、そんなことではなく、そういう対象だと思われていたことが……気に入らんかったんやろか。自分おれは。もしくは……。


 自問自答を繰り返していたら『香奈ちゃん』とたしなめられた。


「あっ。すみません。その……ちょっとお話を盛っちゃいました。いきなり女扱いされてビックリしただけなんで」

『香奈ちゃんは元から女の子でしょ』

「それはまあ、そうなんですけど……」

『君たちに何があったのか、いまいちよくわからないけどさ。もしユウイチ君が信用できないなら、前にも言ったように大阪から出たほうがいいかもしれないよ』


 佐奈川は一年前、布施のアパートに『鬼』がやってきた後、香奈に地方移住を勧めた。


 危険から距離を取ることは恥ずかしいことじゃない。君子危うきに近寄らず、だよ。

 香奈ちゃんの仕事なら東京や名古屋、福岡でもやっていけるし。ユメちゃんが小学校に入る前に行ったほうが、あの子も馴染みやすいって。


 香奈にとっては恩人からの忠告だったが、どうしても受け入れられなかった。


「……すみません、出直します」

『また、いつでも電話してね』


 佐奈川の声色は慈愛に満ちている。昔も今も。


 香奈はソファにもたれかかる。

 自分おれが大阪を出たくないのは、まずは生まれ育った街やから。次に、あの大男やのうて被害者の自分が出ていかなアカンのが納得でけへんから。

 そんでもって何より……本当ほんまのおれを知ってる奴がおるから。

 余所に行ったら多分、おれはおれではいられなくなる。


 実際、ユウイチと再会するまで、おれは……。

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