家族のいない日(4)


     ★


 海に行きませんか。

 知り合いの女子高生から送られてきたメッセージには、月曜日の午後のモヤモヤを全て吹き飛ばすだけの力があった。


 愛海ちゃんと海水浴。砂浜。焼きそば。浮き輪。サンダル。スイカ割り。かつて自分が経験できなかった『青春』を叶えられる。何より、あの子の白い肌と水着が──ユメの水着、新品しんぴん買わなアカンやん!

 香奈は現実に引き戻された。目の前にあった砂浜がリビングの仕事机に変わる。


 パソコンのディスプレイではスイカのビーチボールもとい丸顔の女性弁護士が、スカイプの枠の中で訝しげな表情を浮かべていた。


『香奈ちゃん。海の家がどうしたの?』

「幼稚園指定の水着でもええんですけど、やっぱり女の子にはオシャレさせてやりたいし……悩ましいわあ。佐奈川先生はどう思われます?」

『脈略なさすぎて草なんだけど』

「愛海ちゃんから海水浴に誘われたんですよ」

『えー? おっかしいなあ。ワタシのところにはそんなメッセージ来てないねえ……』


 佐奈川が悲しげに首を傾げる。

 もしかしてグループメッセージじゃなかったんか。香奈はスマホを確認する。なるほど。他人が『はみご』にされて胸が痛むのは大学時代以来やわ。懐かしい。


「オレのとこにも来てへんわ」


 香奈の背後、台所で排水口を洗っていたユウイチが声をかけてくる。ビニール手袋を外してわざわざスマホを見てくれたらしい。

 ということは。香奈はニヤけた口元を両手で抑える。


「海デートやん!」

「デートになるんか? たぶん子供らも一緒やろ?」

「なるわアホ! 羨ましいんやろ、はみご!」

「もう二度とお前んのシンクに手ぇ突っ込まへんぞ」

「ごめんありがとう! いつもお世話になっております!」

「たまには自分でも掃除せえ」

「してるし。ユウイチが潔癖すぎるだけやん」

「お前が雑すぎるやねん。ほんまに」


 舌先ではそう言いつつも、ユウイチは不満そうな顔をしておらず、むしろ不自然なほどに真剣な眼差しで流し台を拭いていた。

 その様子はパソコンのカメラでも見えているらしい。


『本当に君たち仲良いよね。この頃ずっと一緒にいるんじゃないの?』

「今日はユウイチが代休らしくて。ユメのお迎えに行くまで、ウチにおるだけですよ」

『ふうん。まあ、今回みたいに何かあったらワタシに言ってね。いつでも待ってるからさ』


 佐奈川は穏やかな声色で突然の相談を許してくれる。

 ──被害者やまだの遺族がマンションまで来ました。

 香奈がメッセージを送ったら、すぐに仕事用のスカイプに通話が掛かってきた。

 ──また会うことがあったら、念のために会話を録音しておくといいよ。あとは絶対に人目につくところで会うこと。独りでは会わないこと。攻撃的な言動があったら、ワタシにすぐに言うこと。いいね。


 他にも依頼人と案件を抱えたはって、きっと忙しいはずやのに。香奈は改めて佐奈川の存在をありがたく感じる。お尻に正義ジャスティスの刺青を入れてるのは伊達やない。


『そういえば、香奈ちゃんの声を聞いて思い出したことがあってさ』

「わたしの話ですか」

『うん。もう名前も聞きたくないだろうから伏せるけど、あの大男が離婚したらしいよ。これでバツ2だって』


 佐奈川によると、北浜在住の知り合いから「たまたま」あの男の現状を耳にしたらしい。

 またもや離婚調停で揉めたようで、多分何かあったのだろうと。


 香奈は去年の一件と往年の香奈ほんにんが受けてきたという数々の仕打ちを思い出し、天を仰ぐ。


「先生……そもそも、なんでアレが再婚できるんですか……世の中おかしくないですか……」

『ワタシに訊かれてもねえ。きっと口が上手いんでしょ。昔から外面だけは良かったって、香奈ちゃん言ってたじゃない』

「おれは学生時代、恋人の一人も出来へんかったのに!!」

『香奈ちゃんが色々ショックなのはわかるよー。でもマイクに向かって絶叫しないで欲しいな。ワタシの耳が壊れちゃう』

「あ、すみません。つい」


 香奈は顔を赤らめる。背後でユウイチが笑っており、地味に恥ずかしい。


『個人情報だから言わないほうがいいんだけどさ。一応、被害者の香奈ちゃんには注意してほしくてね』

「お気遣いありがとうございます」

『大仰大仰。ワタシは君たちの助けになりたいだけだよ。あ、一応言っておくけど、今の話は仕事の関係で知ったわけじゃないからね。そういうコンプライアンスは、守るほうなんやでー』


 佐奈川の下手くそな大阪弁により会話が途切れ、自然な流れで通話自体がお開きとなる。お互い、そんなに暇というわけでもない。もうすぐお迎えの時間だ。


 香奈は仕事机からソファに向かう。すでに台所の掃除を終えたユウイチが、涼しい顔で缶コーヒーを飲んでいた。彼女はその隣に腰を据える。


「あれはイントネーションの問題やねんなあ。イントネーションのイントネーション自体、ウチらの喋りやと『ネ』で上がるねんけど、先生のイントネーションは平べったいし。無理せんでええのに」

「イントネーションやのうてアクセントやろ」

「さすがユウイチ! 知らんかったわ、すごいなあ! センスあるわあ、そうなんや!」

「合コンの『さしすせそ』やめろや。いきなり何やねん」

「手ぬぐいで缶コーヒーの水滴拭いたるわ」

「キャバクラやないか」

「お兄さん、L〇NEやってる? 今度ウチの誕生日のイベントがあってー」

「キャバクラやないか。なんや、えらいテンション高いな山田」

「だって悩みごと多すぎるやん!」


 妹たちに住所がバレてしまった件。

 あの大男の件。

 愛娘ユメの新しい水着の件(出費)。 

 もっと言えば、ユウイチとの数々の「無かったこと」も彼女の中では未だ処理しきれていない。


 香奈は色々ありすぎて脳がパンクしてしまいそうだった。頭を抱えていないと『マーズ・アタック』よろしく弾け飛んでしまいそうなほどに。


「山田、大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

「あの大男の件は気にすんな。何かあったらオレと先生でしばいたる」

「お、おう」


 香奈は台所の引き出しを一瞥いちべつしてから、佐奈川とユウイチが『新喜劇の薪雑把たたくやつ』で大男を打ちのめす様子を想像し、少し笑ってしまう。


「せやな。もし穂乃花ほのか隼人はやとが仇討ちに乗り込んできても、二人にしばいてもらお」

「あいつらのことは気にせんでええんとちゃうか」

「なんで?」

「ほら、昔の山田に似てて弱そうやん」


 ユウイチにしては珍しい、引きつった笑顔。

 香奈は少しばかり違和感を覚えたものの、それより「細いだけでよわないわ」という反論を優先した。


「あんな細身でも学校の持久走大会とかめっちゃ余裕やったし。今の香奈からだやと百メートルも走られへんけど」

「さすがに鍛えなアカンな」

本当ほんまやわ。デスクワークやと出歩かんしなあ。今度の海でユメの相手してて体力がつやろか。ああ。あの子の水着を買わんと……」

「お前の水着も要るんちゃう?」

「マジやん」


 ユウイチの指摘に香奈は青ざめる。

 彼女が香奈になってから五年間、あまりにも忙しすぎて、海やプールに遊びに行くことなど一度も無かった。当然ながら水着なんて持っているわけがない。かつての香奈が持っていた衣服は、引っ越しの時にほとんど捨ててしまった。

 かくなる上は。香奈は決意を固める。


「おれは私服で行くわ。砂浜で荷物番しとく! ユメの相手は美海ちゃんに任せる!」

「いや、ユメちゃんと一緒に水着、うてくれや」

「なんでやねん」

「オレも海についていくつもりやし」


 ユウイチの台詞に、香奈はしばらく首を傾げた後、彼の背中を思いっきり叩いた。

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