味方の正義(1)


     ★     


 なにわ筋の排気ガスを浴びながら、野口雄一のぐちユウイチは時折、ワイシャツの左胸に手を添える。

 地下鉄・西大橋にしおおはし駅の二番出入口付近で立ち止まり、ようやく胸ポケットから取り出したスマホには通知が一件。同僚の村田が『お疲れ!』とスタンプを送ってきたので、ユウイチも似たようなスタンプを送り返す。


 地下鉄の車内は仕事帰りのサラリーマンで溢れていた。彼らのほとんどは次の駅──心斎橋駅で降りてしまうため、ユウイチはいつものように空いた席を確保する。

 再びポケットからスマホを取り出し、以降は蒲生四丁目がもうよんちょうめ駅までディスプレイとが続く。

 通知は来ない。


(今日も『お迎え』なしか)


 ユウイチはため息をついた。このまま横堤よこづつみ駅まで地下鉄に揺られ、コンビニで弁当を仕入れ、社宅のアパートでゲーム実況動画を眺めながら、レンチンした弁当をかっ食らう……いつもの平凡な夜が迫ってくる。

 それはそれで大切な時間かもしれないが、出来ることなら途中下車したい。ユメちゃんを幼稚園まで迎えに行き、浅井家のマンションで香奈の手料理をいただきたい。三人で楽しく食卓を囲みたい。


「……なんであんなことをうてもうたんや、オレは」


 ユウイチは数日前の醜態を反省する。酔いと勢いに任せて、香奈のことを『そういう目』で見ていると白状してしまった。

 あまつさえ、暗に男女の関係を求めてしまった。

 あのアホすぎる告白さえなければ、香奈の「いつでも遊びに来てくれていい」という言葉に甘えられたのに。

 今となっては気まずくて連絡さえ取れない。


 ここ数日、ユウイチは釈明の文面を何度も考えては、メッセージを送信できずに消去ばかり繰り返していた。


(もう何をうても傷つけてまいそうで自分が怖い。もっと自制せんと。あいつは香奈であって山田なんやから)


 ユウイチには感情を表に出さないところがある。それゆえ他人から『無愛想』『仏頂面』と揶揄されることも多い。ただ、海面に浮き出た氷山の一角として、悔しい時には下唇を噛む癖があった。


 ポン。通知の音。


『ごめんユウイチ。ほんまに急で悪いんやけど、ユメのお迎え行ける?』

『かしこまりました』

『なぜ敬語』


 香奈のツッコミに土下座のスタンプを貼りつけ、ユウイチは座席から立ち上がり、今福鶴見駅で反対方向の地下鉄に乗り換える。

 彼にとって西大橋~横堤間の定期券は通勤の友であり、いつでも浅井家に駆けつけられる魔法のチケットでもあった。



――――――――――――――――――――


『あなたのいない日』 作:生気ちまた

 第三話 味方の正義


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 蒲生四丁目駅の出入口は地元民でごった返していた。信号待ちと地下鉄の利用者が入り交じり、歩道が狭すぎるせいで自転車と歩行者がごちゃ混ぜになってしまう『混沌カオスの交差点』を東に抜けると、路地の奥に幼稚園の校舎が見えてくる。


「こんばんは、浅井です」


 ユウイチは浅井香奈の「彼氏」として、鯰江なまずえ幼稚園の吉見先生に挨拶した。ユウイチにとっては借り物の服を褒められるような感覚で、いまいち胸を張れない。恋人扱いを面白がったり、戸惑ったりする回路は随分前に擦り切れてしまった。


「はいはい。ユメちゃん呼んできますね。待っててくださいねえ」


 吉見先生は玄関口から校庭に出ていった。夕焼けの校庭では子供たちが男女入り交じって遊びまわっている。

 音頭取りの女の子がボールを持ってきて、みんなでドッジボールを始めようとしていた。


 ユウイチは直感する。あの比屋根美海みーちゃんに誘われたらユメちゃんは絶対に断らへん。やれやれ、と冷めたような態度を取りながら、なんやかんや試合が終わるまで付き合いよる。たぶんながなる。

 彼の予想通り、吉見先生は「ちょっと待ってあげてもらえますか~」と両手を合わせながら戻ってきた。


「大丈夫ですよ。スマホで漫画でも読んでますから」

「──へえ。今は何を読んでいるのかな、ユウイチ君。やはり『ワンピース』?」


 突如後方から現れた人影に、ユウイチは驚きを隠せない。

 振り返れば、細身の体躯にパンツスーツをばっちり決めた女性。サングラスを外し、長い黒髪を風に棚引たなびかせ、右手の指先で愛車の鍵を振り回している。胸元には向日葵べんごしの記章。何より独特の形容しがたいが可愛らしい声音が、ユウイチの耳を惹く。

 彼はスマホを胸ポケットに戻し、年上の女性に恭しく頭を下げた。


「お世話になっております。佐奈川さながわ先生」

「大仰大仰! もっとフランクに行こうよ。ワタシら、もう友達ダチみたいなものだろう」

なにしにはったんですか」

「ユメちゃんを迎えにはったんですよー……おっと。怖いからにらまないでよね。ワタシの関西弁が下手くそなのはよーくわかっているから」

「いや、ユメちゃんを迎えに来たのはオレなんですが、ほら」

「ワタシにも香奈ちゃんからメッセージが来てるよ?」


 二人はスマホを見せ合う。

 どうやら先に香奈から依頼のメッセージを送られたのは佐奈川で、佐奈川が仕事中に返答できなかったために二の矢としてユウイチにも送られてきたようだ。


 ユウイチはため息をつく。


「あいつ。佐奈川先生に訂正のメッセージくらい送っとけや」

「まあまあ。気遣い屋の香奈ちゃんにだって気が回らない時はあるって。近頃は仕事に集中できなくて、夜中まで忙しいみたいだからねえ」

「そうなんですか」


 知らんかった。ユウイチは下唇を噛む。

 クソが。あいつが集中でけへん理由に心当たりがありすぎるねん。彼は心中で何度も悪態をついた。

 その様子に佐奈川が首を傾げる。


「君たち、何かあったんじゃないの?」

「いえ。先生に話すようなことは」

「話せないようなことはあったんだろう。別に深掘りはしないけど、あの子を傷つけたらワタシの正義が許さないよ」

「肝に銘じておきます」

「具体的には君を粉末にして、たこ焼きの材料にしてやる」

「確実に不味マズなりますよ」

「えー心配するのそっち? さすが関西人だねー」


 佐奈川がケラケラと笑った。程よく焼けた細い首筋に汗が光っている。幼稚園の玄関口にはエアコンが付いていない。ジャケットを着たままでは数分で茹で上がってしまう季節だ。

 ユウイチがチラリと校庭の様子をうかがうと、ちょうど五歳の女児が拙い足取りで近づいてきていた。

 浅井夢あさいゆめ。香奈の娘。終戦を迎えた兵士のような乾いた表情を浮かべている。


「疲れた。あれ。なんでジャスティスおるん?」

「ジャスティスやでー」


 佐奈川はユメを抱き上げようとしたが、ドッジボール仕込みのステップでかわされた。

 逆にユメからお尻をぺしぺしと叩かれてしまう始末。


「ジャス・ティス! ジャス・ティス!」

「やめてやー」


 下手くそな大阪弁と見苦しい姿に、ユウイチは思わず目を逸らす。

 ちなみに佐奈川がジャスティスと呼ばれているのは彼女の自称が『正義の味方』であり、お尻に『正義ジャスティス』とルビ付きの刺青を入れているからだ。本人の弁によれば米国留学中にノリで入れたという。

 もちろんユウイチには彼女の実物を見た経験など一切ないが、ユメのほうは一緒にお風呂に入った時に目に焼きつけてしまったらしい。


「なーなー、なんでジャスティスおるんー?」

「むふふふ。それはねぇ。ユメちゃんとユウイチ君をUSJ《ユニバ》に連れていくためやー!」

「ほんまに!?」


 ユメが目を輝かせる。お尻を叩くのをやめ、両手を合わせて佐奈川のことを拝み始めた。よほど嬉しかったらしい。

 ユニバとはUSJ、ユニコーン・アンド・バーバリアン・スタジオ・ジャパンのことだ。大阪近辺では屈指のテーマパークであり、時に天国と同列で語られ、時に学生たちのデートスポットになり、特にやることがない休日の散策にも用いられる。


 ユウイチは唐突な申し出に困惑する。


「えらい急ですね。先生。香奈にはうてるんですか」

「君はわかってないね。納期ギリギリでヤバヤバな香奈ちゃんを家事から解放してあげるのさ」

「と、いますと?」

「ユメちゃんにはユニバで遊び疲れてもらう。それからユニバの外で夕食を取って、弁天町の温泉で入浴を済ませてしまえば、あとは歯みがきしてお休みなさいするだけ! 完封勝利!」

「それ、オレも付き合うんですか……?」

「もちろん」


 佐奈川は振り回していた愛車の鍵を、巧みなフィニッシュ・ムーブで掌中に収めてみせる。

 近くの駐車場で電子音が鳴った。


 ユウイチは悩む。別に同行したってもええけど、今から行ったところで一時間半くらいしか遊ばれへんからなあ。ハチドリとジェラパに乗れたら御の字や。

 それやったら自宅で『突撃! ファミコンウォーズ』の攻略動画を観てたほうが有意義かもしれへん。お金もかからんし。


「さあ行こう、ユメちゃん、ユウイチ君。今夜はワタシのおごりでユニバだぞ!」

「おごりユニバ!」「おごりなら行きますよ!」


 三人はスキップしながら車に乗り込んだ。

 旧式のポルシェが揺れる。


「よーし。みんなベルトを忘れないでくれよ。ところで君たち、ユニバの年パスは持ってるよね?」

「欲しい!」「オレは持ってないですよ」

「あれっ!? 大阪の若者はみんな持っているんじゃなかったの!?」

「そんなん人によるでしょ」

「うわあ……てっきりだ。ワタシとしては『おごりだよ!』『年パスあるのにおごりってなんやねん!』『ワハハ!』みたいな流れになると思ってたのに。してやられちゃったね……どうしよう、来月まで甘食しか喰えない……」


 弁護士は運転席で項垂うなだれてしまう。

 アホや。ボソッと呟いたユウイチの傍らでは、元気いっぱいの五歳児が「ユニバ! ユニバ!」とチャイルドシートで手を叩いていた。

 この状況で「やっぱり行くの止めとこ」と言い出せるのは、おそらく実の母親かなだけだろう。


 ユウイチは思案の末、ズボンのポケットから財布を取り出した。


「半分出しましょか」

「マジで? うわあ、ありがとうユウイチ君! 今度、絶対にお礼するから! 弁護費用、タダで請け負ってあげようか! もし人を殺しちゃっても良い感じの判決に持ち込んであげるからね!」

「固辞させてもらいますわ」


 佐奈川は満面の笑みを浮かべながら力強くサイドブレーキをキックで外し、シフトレバーをガチャガチャといじくってポルシェを発進させる。

 楽しげに手を叩くユメの隣で、ユウイチはそういやユニバ行くの何年ぶりやろ、と思った。

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