千林納涼(3)
★
香奈の脳内で三年前の春の「あの日」が再演される。
まず思い出されるのは、焦げ茶色のキャビネットに内包された、相当古いタイプの液晶テレビ──ワイドショーのインタビューで、ある役者が演技について語っていた。
役作りのつもりが役にのめり込んでしまい、それが人殺しの役だったものだから、夜道でお巡りさんに何度も職務質問されてしまった……スタジオがドッと笑い声に包まれる。
ワンテンポ遅れて、喫茶店の女主人が「すすっ」と息をもらした。
「何度も、は盛りすぎやな。逆にわざとらしゅうて
「相変わらずお笑いに厳しいですね、店長」
「昔は二丁目劇場やらでおっかけしとったさかいな。耳が肥えてもうてん。香奈ちゃんくらいに若い時分は、けっこう名の知れた芸人さんと遊んでたもんやで」
「へえ、すごい」
「〇〇〇やろ、××××やろ。△△△にも天王寺で
「ですよねー」
女主人の話に相槌を打ちつつ、香奈は喫茶店のバックヤードで愛娘がツナサンドイッチをかじる様子を
ユメがオムツを卒業し、一人でトイレに行けるようになった頃、香奈は布施駅前の喫茶店でアルバイトをしていた。
行政の母子家庭支援制度で毎月お金を借りているからには、いずれ返さなければならない日がくる。連帯保証人になってくれた佐奈川先生に迷惑をかけないためにも、ユメをいずれ大学まで送り出すためにも、可能なかぎり稼いでおきたい。いずれWEB制作の仕事に挑戦するからには高性能なパソコンも欲しい。
かといって、アパートに子供を放っておけない──その点で女主人・
(今思えば、ユメがアニメめっちゃ好きなんはあの頃からやな……)
香奈が一通りの料理を覚えたのもこの頃になる。
女主人は面倒見が良いが、とにかく口うるさい人物だった。やれ化粧が地味だとか、人前に出るならもう少しちゃんとした服装をしてこいだとか、常連のおじさんたちに愛想良くしろ、愛嬌を見せろ、その口紅は似合わない、タマネギの切り方が雑、袋に書いてあるとおりにパスタを茹でろ、あのオバハンは面倒くさいから会話の切り上げ方を覚えろ、もっと笑顔を見せろ、疲れた顔するな、その服はエプロンに合わん、ユメちゃんの七五三に今からでもええから行っとけ……注文は数え切れず、下手するとお昼時の注文ラッシュより捌き切るのが大変だった。
常連客の中ではもっとも若いアラサーくらいのサラリーマンがたまに「今の自分があるのはあの時の苦労のおかげ」と部下を励ましていたが、香奈にとっては喫茶店でのバイト時代がそれにあたる。
(あの頃に
その認識は当時からあり、冒頭の役者のインタビューは彼女の胸にじわりと染み込んだ。
このまま浅井香奈を演じ続けたら、本当の自分はどうなってしまうのだろう。
女主人に注文をつけられるたび、自分の普通を変えていくたび、彼女は痛みのような不安を覚えた。
カランコロン。焦げ茶色の扉が開かれる。
香奈がいつものように伝票を携えて出迎えると──そこには例のアラサーのサラリーマンと、どこかで見たことのある仏頂面があった。
「いらっしゃいませー」
「二人。僕はアイスコーヒーで」
「かしこまりましたー。窓際のお好きな席にどうぞー」
にっこり笑顔で応対しつつ、彼女は脳内でアルバムをめくっていく。どこで会ったんやろ。大学やろか。
ちょっと面長でまぶたが若干ぷっくりしてる、首ががっしりしてて耳が小さい。体格は中肉中背……わからん。
「……あの、なんかオレの顔に付いてますか」
「あ、いえいえ。ご注文、お待ちしておりますー」
ついジロジロと見すぎてしまった。背後で女主人が舌打ちしている。後でまた小言を言われてしまいそうで、香奈は気が滅入った。
とはいえ、気になるものは気になるため、ちょいちょい目で追ってしまう。
アラサーのサラリーマンが、仏頂面にメニュー表を手渡していた。
「ほらほら。せっかくやねんから何でも頼みや。大学のOBなんて金ずるや
「いや、さすがに奢っていただくのは」
「ええねんええねん。OB訪問口実に仕事サボれんねんから逆に感謝やわ。うちのハゲカビゴン、トイレ行くだけで怒りよるからなあ。ウチの会社ほんまにクソやから絶対来たらアカンで! もう被害者は出したない! 君は土日休めるところに行きなさい!」
「……では、オレもアイスコーヒーで」
「謙虚やなあ! 野口君は!」
香奈は思わず手を叩いた。気づかないうちに「あっ」と声も出ていた。
ユウイチ。大学の必修科目で同じクラスやった奴や。他の面子と混ざって、たまに飲んだりしてたわ。
何やったっけ。高校までテニスやってたんか。大学でも何かやってたな。アカン。思い出されへん。たかだか二年前やねんけど。
「あの……お姉さん、どないかされました?」
ユウイチに心配される。
お姉さん。その一言に現実に引き戻される。せっかくの再会なのに。本当の自分を知っているはずの相手なのに。
話したいことがいっぱいあるのに。
香奈は悩みに悩んだ末、伝票の片隅にスマホの電話番号を書いて「後で連絡ください」と手渡した。
後にも先にも女主人にお尻を叩かれたのは、この時だけだった。
★
それから色々あって、二人はたまに連絡を取り合うようになった。
ユウイチはなかなか信じてくれなかったが、香奈が大学時代の思い出話をフルコースでご馳走したところ初めて「山田」と呼んでくれた。
(あれは嬉しかった。めちゃめちゃ嬉しかった)
彼女は目を閉じる。
それまで「浅井さん」「香奈さん」「お姉さん」「ママさん」としか呼ばれなかった中で、実の家族さえ認めてくれなかったのに、ユウイチだけが
信じてくれたんや。
香奈はリビングのソファから起き上がる。
テーブルのコップに手を伸ばし、氷の
スマホが震える。家具屋の割引通知だった。
そのままメッセージアプリをぼんやり眺めていると「あーやん」と可愛らしい声が聞こえてくる。
「お腹空いた」
「起きたん。
「えっとなー」
寝癖まみれの頭を悩ませる娘を尻目に、香奈はスマホをテーブルに戻し、空のコップを台所のシンクに入れた。
「サンドイッチ!」
「パンもツナもトマトもないわ」
「チッ」
舌打ち。
せやから、どこで覚えたん、そんなん。
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