味方の正義(2)


     ★


 翌日。ユウイチは寝不足で鈍りきった頭を片手で支えながら、終業時刻の午後五時を迎えた。

 ぞろぞろとタイムカードを切りに行く同僚たちを尻目に、彼は机に突っ伏す。

 昨日は遊びすぎた。閉園時間ギリギリまでユニバのアトラクションをハシゴするなんて何年ぶりや。そんで佐奈川先生が「外の店でロブスター食べたい」とか言い出すから割り勘することなって、えらい金かかってもうて……そっから弁天町の温泉行った後、香奈のマンションに向こうたんやな……。


 ユウイチは卓上のスマホを見つめる。通知は来ていない。

 代わりに同期の村田がやってきた。大柄な元ラガーマンだ。声も大きい。


「野口! 頼みがあるんやが!」

「合コンならもう行かんぞ」

「そんなん言わずに助けたってえな! 男子の面子が足らんねん! 六人やとスクラムも組まれへん!」

「女子とスクラム組んでどうすんねん」


 ユウイチの静かなツッコミを、村田は片膝を突いて受け止める。その両手は力強く握られていた。まるで神に祈るかの如く。


「このとおりや。もうお前の他に頼める奴おらん! 助けてください!」

「本音は?」

「彼女持ちを連れていったら競争倍率が下がる!」

「ほんまずっこいな……いや、彼女持ちちゃうぞオレ」

「ほんなら断る理由ないわな! 場所は肥後橋やから!」


 村田はあとでライン送るわ、と言い残して足早に去っていく。

 あの感じやと、あと二・三人かき集めるつもりやな。野球でもするつもりなんやろか。むしろそっちのほうがありがたいわ。


「彼女持ち、か」


 ユウイチはタイムカードを切った。

 いっそ他の誰かと付き合ってしまえば、あいつの警戒心を解けたりせんやろか。


「我ながら最低の発想やな……引くわ……」


 スマホの通知を確認する。合コンの会場は肥後橋・江戸堀のイタリア料理屋らしい。



     ★     



 西大橋の職場から肥後橋まで約二キロほど。歩けない距離ではなかった。のんびりしてても約束の六時半には間に合う。

 ユウイチは眠気覚ましと気分転換を兼ねて、西大橋駅の交差点を北に向かう。なにわ筋の排気ガスを避けて脇道に入れば、個人経営の居酒屋や料理店が開店の準備を始めていた。香ばしい焼き鯖の匂い。無性にお腹が空いてくる。


 イタリア料理やのに和食の気分になってもうたらマズイな。

 ユウイチは自動販売機で緑茶を買い、喉にぐいぐいと呑み流しながら阪神高速の巨大な高架を潜り抜ける。

 吹き抜けるビル風に混じり、自動車の振動と騒音が高架のあちこちから伝わってくる。地上の交差点を行き交う車両が赤信号で止まる。白線の横断歩道を渡る。やがて高架の日陰が途切れ、涼しさが急速に失われていく。


 日中の日差しで温められた空気は湿っぽく、地元の住民が軒先から水を撒き散らしたせいで、余計に蒸されてしまう。

 ユウイチは「地下鉄に乗ればよかった」と今更ながら後悔した。

 だが、目の前に靱公園うつぼこうえんが見えてくると、彼の気分も変わってくる。

 かつて米軍の飛行場だったという一帯には小さな神社があり、テニスコートがあり、広葉樹が並んでいた。

 都会を後背に木々の緑が映える。外縁道路沿いでは喫茶店が南米の国旗を掲げながら、なぜか英国風のアフタヌーンティーを大々的に宣伝していた。

 また近隣のお洒落な洋菓子店では会社帰りの女性たちが列をなしており、ユウイチは過去に上司から分けてもらったお土産の出所を初めて知ることになった。ここの店やったんか。


(ええとこやな、香奈とユメちゃんを連れてきてやりたいわ)


 ユウイチは木漏れ日で光るベンチに座り、緑茶のペットボトルを飲み干した。

 七月の空はまだ明るい。子供の頃なら、きっと帰ろうなんて思いもせんで、多分あの茂みのあたりで遊びまわってたやろな。探偵できそうやし、かくれんぼもできそうや。


 ふと、目の前を親子連れが通っていった。大学生のような年頃のパパがベビーカーを押しており、ママのほうはユメと同い年くらいの女の子と手をつないでいる。

 ベビーカーの赤ん坊と目が合う。

 ユウイチは反射的に面白い顔をしたくなったが、自信がないので止めておいた。


(あの家族、今のオレにとっては、タラバガニより目の毒やな……)


 下手くそな苦笑いを浮かべてから、彼はまた北に向かって歩き始める。


 しばらくして、土佐堀の交差点に辿りついた。ここから先はスマホの地図アプリを頼ることになる。村田が送ってきた店名を打ち込み、東に歩くこと数分。

 やけに古めかしい教会の前を通り、左の路地に入ったところに『ねんがらねんじゅう』という店名入りの黒板が立っていた。

 出入口の傍らの壁にはフライパンが打ちつけられている。目印にはピッタリやのに村田が教えてけえへんかったあたり、あいつも初めて来る店なんやろな。

 ユウイチが玄関の引き戸を開くと、なぜか一度聴いたら忘れられないタイプの甲高い声が出迎えてくれた。


「あれ? ユウイチ君? こんなところで奇遇だね!」

「佐奈川先生……?」


 なんでまた、こんなところで。

 ユウイチはイヤな予感がしてくる。まさか。

 彼の元に近づいてくる女性は、いつもより化粧をしていた。パンツスーツが華やかだ。胸元には向日葵べんごしのバッジ。


「昨日のユニバは賑やかだったね。そういや昨日、あれからどうだった。ちゃんと香奈ちゃんと仲直りできたの?」

「いや、ええと」


 ユウイチは返答に詰まる。

 昨日の夜。あちこちで散々遊びまわった末、帰りの車中でぐっすりと眠り姫になってしまったユメを──佐奈川の提案でユウイチが送り届けることになった。

 マンションの玄関口のインターホンには佐奈川が対応し、香奈が油断(?)したところをサプライズでユウイチが会いに行く。

 遊び過ぎてテンションが高かったこともあり、なぜかユウイチたちは絶対に上手くいくと思い込んでいた。

 きっとビックリして、あははと笑いあって、元通りの空気になれるはず。


 ところが部屋の前で出迎えてくれた香奈は「ええっ」と狼狽えてしまい、ユメだけを強引に受け取って「ありがとう!」と叫んでから、すぐに扉を閉めてしまった。

 何も話せぬまま、釈明さえもできぬまま。マンションの共用廊下に締め出されてしまったユウイチは──あまりにつらすぎて、帰宅してから一睡もできなかった

 悲しい夜だった。


「あー……ちなみに佐奈川先生は、なんでこの店に?」

「ワタシは今から飲み会というか……恥ずかしながら、ウチのバイトの子の付き添いで合コンなんだけどさ」

「別に恥ずかしいことではないと思いますが」

「そうかな!」


 佐奈川はスイッチが入ったようにパアッと明るい笑みを浮かべる。

 なんや白熱灯みたいや。ユウイチもつられて笑ってしまう。


「そういうユウイチ君は?」

「ああ、ええとですね……ちょいと独り呑みするつもりやったんですけど、先生が楽しい会合やとアレですね。もし香奈から呼び出し来た時に誰も急行できませんし、やっぱりオレは帰らせてもらい……」

「どこ行くねん、野口」


 言い訳をつけて逃げ出そうとしたユウイチだったが、寸でのところで同僚の村田に肩を掴まれた。肩甲骨が軋むほどの握力。もう逃げられない。

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