あなたのいない日(2)


     ★


 一年前。五月雨が窓を打ちつけていた。

 香奈は依頼主に納品を済ませたことを確認し、報告のメールを送ってから、両手を伸ばして「ふぅ」と息をつく。

 WEBページのコーディング作業は彼女にとって天職だといえる。向き・不向きの問題ではなく、在宅で子育てしながら安定した収入を得られる手段を彼女は他に知らない。大学時代に趣味で勉強していたおかげでシングルマザーとして社会的に自立できている。愛娘ユメを幼稚園にも入れられた。


 もっとも、時には納期などの問題から、誰かに頼らざるを得ない時もあった。例えば、子供の送り迎えなど。

 トントン、とノックの音がした。

 香奈はパソコンの前から立ち上がり、お気に入りのパーカーを羽織ってから玄関に向かう。


「お帰り。ユウイチいつもありがとうな」

「ユウイチって何者なにもんや。今の彼氏か」


 アパートの廊下に見知らぬ大男が立っていた。

 ふてぶてしい顔つき、口ぶり、ラフな格好からして宅配便の配達員ではないとわかる。と彼女は察した。関わり合いになりたくない相手だった。

 だが、大男のほうは違っていた。


「答えろや。香奈。彼氏か。彼氏おるんか」

「彼氏ではないです……」

「ほんなら部屋に入れろや。わし、立ってるだけでも疲れんねん」

「いや、ちょっと汚いので……片づけるまで待ってもらえますか」

「入れろ言うてるやろ!」

「待ってください!」


 香奈はドアを閉めた。間髪入れずに鍵を掛ける。廊下から罵声が飛んでくる。その中には「お前の旦那やぞ!」という言葉があった。

 衝撃的だった。あれがユメの父親なのだと、香奈にはとても信じられなかった。全く似ていない。


 彼女はテレビの下の戸棚からアルバムを取り出す。ユメが生まれたばかりの頃の写真には、マジックペンで塗りつぶされた「パパ」の姿があった。他は不自然に切り取られた写真が多くて判定には使えそうにない。

 過去のスマホを参照しようにも充電しないと──「片づけ手伝ったろか!」大男の声。香奈は急かされてしまう。 


 不安と焦燥で深く考えられなくなり、とりあえず話し合おう、自分が過去の香奈じぶんを知らないと正直に伝えよう、と鍵を開けてしまったのは、彼女にとって一生の不覚だった。


 岩石のような拳が、香奈のこめかみを打ちつけた。鈍痛。彼女はカーペットに倒れこむ。


 大男は家主の了解も得ずに部屋の中に入り込んでくると、テーブルの前の座布団に座り込み、リモコンでテレビをつけた。

 猛烈な雨音に混じって、大阪弁のアナウンサーの声が香奈の耳まで伝わってくる。

 大男がお茶を出すように暗に求めてきたので、彼女はどうにか立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出す。両手が震えていた。こぼしたら酷い目に遭うと彼女の本能が叫んでいた。必死でテーブルに運んだ。


「氷くらい入れたってくれや。ぬるなるやん」

「すみません」

「なってへんなあ。やっぱ香奈は放ったらかしにしたらダメになるわ。お前の母ちゃんの言うとおりやなあ」

「ごめんなさい」

「で、ユメはどこ行ってん。お前が全然会わせてくれへんから、あいつ、わしのこと忘れてるんとちゃうか」

「もうすぐ……わたしが迎えに行きます」

「そうか。ほんなら行くまで余裕あるよな。せっかくやし久々に『夫婦』やらせてもらおか。ざっと六年分、負債ふさいが溜まっとるしな。ははは。おもろいやろ」


 香奈は手招きされた。立ちすくんでいたら怒鳴られた。強引に手首を握られ、彼女は痛みに顔を歪める。

 大男のほうは打って変わって満面の笑顔だった。香奈の身体を引き寄せ、胸板で抱きしめながら楽しそうに尻を触る。

 香奈が唇を拒むと、相手は彼女の耳元で「なんや!」と怒鳴り散らした。

 耳がキーンとなる。いつのまにか、涙と鼻水が止まらなくなっていた。


「おいおい、ばっちいやんけ! ほんまに出来損ないの女やな!」

「うるさい! 死ね!」

「なんやとお前!!」


 大男が拳を振り上げた時。

 突然、雨音が強くなった。玄関の鍵は開けたままになっていた。レインコート姿のユウイチが土足のまま室内に上がり、傘の先端で大男の顎を突いた。


 香奈は引き離され、ユウイチに背中を押されながら廊下に出る。

 遠方の生駒山に雷が落ちていた。


「えっ……あっ……」

「大丈夫か! 何もされてへんか! 今、お向かいの朝倉あさくらさんがユメちゃん預かってくれてるからな!」

「警察も呼んどいたで~」


 朝倉のおばさんが香奈たちを部屋に入れてくれる。

 部屋の奥ではユメが肉うどんをごちそうになっていた。ネットフリックスでアニメを流してもらっている。その平穏な姿に香奈は脱力してしまい、足元から崩れ落ちる。


 ドアを叩く音。大男の怒鳴り声。鍵とチェーンロックをかけて、声を張り上げ、ものすごい気迫で立ち向かう朝倉のおばさん。

 その様子を呆然と眺めながら、未だ恐怖に震えていた香奈を、ユウイチは抱きしめた。


「ごめんな、山田」

「ユウイチはなんわるない……」

「もうちょい早くユメちゃんを迎えにいけたら良かったわ」

「むしろ、いつもありがとう……ほんまにありがとうな……」


 香奈は不思議と雨音が聴こえなくなる。罵声も。雷も。テレビも。パトカーのサイレンさえも。

 ただ背中をトントンとさすってくれる音だけが、彼女の体内でいつまでも反響していた。



     ★



 思い出話と惣菜がアルコールに呑まれていく。

 ライフ名物の唐揚げ。家庭内暴力の前科。鮮魚コーナーの鮪寿司。裁判所の接近禁止命令。ハーフナー印のフライドポテト。罰金。枝豆。蒲生四丁目への引っ越し。タコのカルパッチョ。幼稚園の転園。焼きそば。


 まだ笑い話にはならないが、二人にとってはいつか笑い話にしたい内容だった。

 その頃には大男の名前も忘れてしまいたい。


 窓の向こうではビル街に夕日が沈んでいた。気温は下がらない。まだまだ熱い夜が続く。

 ユウイチが耐えきれずにエアコンのスイッチを入れたが、送風口が空回りするだけで止まってしまう。


 茹だったままの空気にはアイスクリームが効く、とばかりに香奈は冷凍庫を開けた。

 ひんやりとした空気が彼女の肌に刺さる。ジャージの上着はソファに脱ぎ捨てられていた。


 ユウイチが香奈を咎める。


「なんぼなんでもさむないんか、お前」

「ちょうどええくらいやで。ユウイチもワイシャツ脱いだらええねん」

「勘弁してくれや」

「スーツのままやと酔われへんやろ」

「アホか。会社の同僚と呑みに行ったりするっつうねん」

「ああ、そりゃそうか。そのへんのこと、自分おれにはようわからへんからなあ」


 香奈はしみじみとかき氷アイスを噛みしめる。ユウイチからジャージを手渡されたので、渋々ながら袖を通した。

 チャックを引き上げる時、たぶん目のやりどころに困らせてもうたんやな、と彼女は反省する。彼女のキャミソールは汗でぺったりと肌に張りついていた。


 グラスの氷が揺れる。二人のハイボールは空だ。

 ユウイチはテレビを付けようとテーブルのリモコンに手を伸ばしていたが、途中で気が変わったようだ。

 彼の指先は眉間に向かう。


「たまに思うんやけどな、山田もほんまやったらオレみたいにどっかで働いてたんやろな」

「多分なあ」

「そしたら会社帰りに京橋で呑んだり、先週の合コンにもお前呼んだりできたのにな」


 彼は空っぽのグラスをあおり、空き缶に残っていたなけなしの酒を振り落とす。

 香奈は冷蔵庫から新しい缶を持ってきてやった。


「ほれ」

「おう。ありがとう」

「ユウイチって、合コンなんか行くんやな。なんか意外やわ」

「数合わせに呼ばれただけや」

「おお。なんやドラマの話みたい。リアリティないわ」

「なんぼでもある話や。そういう本来ほんまの未来がな、いや今が全部あかんわけやないけど、もちろんユメちゃんのせいでもないんやけどな、消えてしまったんが、なんか辛い時あるわ」


 黄金色の酒がなみなみと注がれていく。

 彼の右手に空き缶が握りつぶされる。

 一年前の話をしていたのに、今度は五年前の話になってしまった。子供の前ではできない話だ。

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