あなたのいない日

生気ちまた

本編

あなたのいない日(1)


     ★     


 浪速交通なにわこうつうのカラフルな中型バスのタラップを幼児たちが登っていく。傍らには先生がついていて、子供が踏み台で転ばないように彼らの足取りをしっかりと見守ってくれている。

 車窓の我が子の姿を捉え、浅井香奈あさいかなは大きく手を振りながら、さて持たせたリュックサックに忘れ物はないだろうか、他の子と遜色ない可愛い衣類を用意できただろうか、と三度目の回想チェックに突入していた。

 彼女には幼少期に苦い記憶があった。年長組の林間学校でバスタオルを忘れてしまい、手拭いで身体を拭くはめになった。同じ班の友人に更衣室で置いてきぼりにされ、死ぬほど恥ずかしかった。忘れられない。


 彼女の娘・ユメのほうは母親に少しだけ手を振り返してからというもの、周りの友達と笑いあうばかりで不安などまるで無さそうだ。

 それはそれで『たくましく育ってくれた』と香奈は好意的に見ている。車窓の子供たちの中には母親との別離を嫌がり、泣きすぎて目を赤くしている男の子もいた。あれはあれで微笑ましい。ちょっと羨ましい。


(いちいちてぇかからんのはありがたいけど、ウチの子もちょっとくらい寂しがってくれてもええのになあ)


 香奈は引率の吉見先生とママ友たちに挨拶を済ませ、伊賀上野の旅館(一泊二日)に向かうバスを見送ってから、ふぅと息をついた。

 今日は久々に呑むかあ。



――――――――――――――――――――


『あなたのいない日』 作:生気ちまた


――――――――――――――――――――



 インターホンが鳴る。

 不鮮明な画面に写った顔を見て、香奈は「開けるわ」とボタンを押してから、お客さんがエレベーターで上がってくる前にジャージの上着を羽織った。

 七月の夕方は街全体がスパゲティーを茹でているかのようだ。とにかく湿気と熱がえげつない。

 それこそ無愛想な客人が靴を脱いで早々に「なんでお前の家、こんなに暑いねん」と愚痴を漏らしたほどだった。


仕方しゃあないやん。エアコン壊れてもうたんやから」

「はよ直せや……お前の大事なユメちゃんが倒れたらどうすんねん」

「泣くわ」

「泣く前に電気屋呼べや。ジョーシン近所にあるやん」

「もう呼んどるわ。明日、んねん。あっこの関西スーパーの上から」


 香奈は窓の向こうを指差しつつ、客人の男性から缶ビールの六本入りケースを受け取った。冷蔵庫の奥に入れる。

 代わりにあらかじめ冷やしていた発泡酒を二本取り出し、とりあえずソファの前のローテーブルに置いた。


「おい、ここのマンション西向きやろ。どう見てもあれOBP《ビジネスパーク》のクリスタルタワーやん。どこが関西スーパーやねん。オフィスやろ」

雄一ユウイチはいちいち細かいなあ」


 香奈は発泡酒を開ける。

 朝に子供を見送ってからユウイチが来るまでずっとガマンしていた。灼熱地獄の夕方にキンキンに冷えた酒は効く。

 客人のほうは冷蔵庫の中を探っていた。


「なんもないぞ」

「わらび餅あったはずや」

「アテにはならんやろ……」


 ユウイチはため息をついてから冷蔵庫の発泡酒を取り出し、プルタブを引いた。シュコッと泡の立つ音がする。

 おかげで香奈は遠慮なく二本目に手をつけられた。


「ああっ。二本目も旨い」

「どうする。なんかオレが買いに行こか。わかってたらツマミくらい持ってきたんやけど」

「どうせやから一緒に晩飯ばんめし仕入れに行こ。ユウイチもまだなんも食べてないやろ」

「せやな」

「あ、今日はお惣菜で勘弁してもらうで。もう呑んでるから」

「別に作ってとはうてないやろ。山田・・も毎日大変なんやから、そこまで甘えるつもりないわ」


 二人は空き缶をビニール袋に入れた。


 先に玄関に向かうユウイチを尻目に、香奈は少しだけ鏡の前に立つ。

 今となっては彼女のことを「山田」と呼ぶ人も少なくなった。おそらくユウイチだけだろう。


 香奈は喉を抑える。今夜はユメがいない。いつもならユウイチにくっついて離れようとしない娘は、今頃伊賀上野でカレーを食べている。

 ヤケドしてへんかな、服汚してへんかな、と心配になってくる一方で、あの子がおらん時にユウイチと遊ぶのは何年ぶりやろ、とも考えてしまう。

 ただの友人同士だが、仮にも男女が二人きり──飲み会だと呼びつけておいて一方的に追い返すわけにもいかないが、洗面所の鏡には二十六歳の香奈じぶんが写っている。


「……呼ばんかったらよかったんか」

「はあ? 呑もうってラインで呼びつけておいて、どうしたんや」

「なんでそこにおるん」

「待たすのはええけど、さすがに遅いわ」


 ユウイチは二本目を開けていた。



     ★



 蒲生四丁目の交差点を西に折れる。

 京阪電車の高架をくぐり抜けた頃にはすっかり空は紫色になっていた。もうすぐ日が暮れる。

 辺りには仕事帰りのおじさんたちが増えてきた。


「あっ。せや。どうせやし、この辺で呑んでいってもええんとちゃうか」

「この辺って焼き鳥?」

「あそこ美味しいやん。山田も好きやろ」

「んー」


 ユウイチの閃きに香奈は黙り込む。

 少ししてから「いや、こんな格好で行けるわけないし」と彼女はツッコミを入れた。

 浅井と刺繍された高校のジャージの下には、紺色のブラキャミしか付けていない。スーパーならともかく居酒屋には行きづらい。化粧だってスッピンに近い。


「別に平気やと思うけどなあ」


 ユウイチの言葉は通りがかった京阪電車の準急・樟葉くずは行によってかき消される。宅飲み決定。


 二人は『ライフ京橋店』で四割引の惣菜類をカゴに詰め込んだ。

 気合十分のユウイチがついでに白ワインやハイボールも仕入れたおかげで、帰り道では両手の筋肉を試されることになった。

 どうせなら自転車を押してくれば良かったわ。

 香奈は脳内で悪態をつきつつも、歩道でママ友とすれ違った時にはしっかりと愛想笑いを浮かべ、挨拶することを忘れない。


「大野ママ、こんばんは~」

「ユメちゃんママ、こんばんは~! 朝ぶりやねえ!」

「こんばんは。ウチの香奈さんがお世話になってます」

「あらまっ! 彼氏さんもおったん! 相変わらず仲ええなあ! うらやましいわぁ!」


 大野さんはユウイチの背中を叩きつつ、息子の不在を活かしてな、今日は激辛のカレーを作ったるつもりやねん、と楽しそうに笑いながら去っていった。

 パワフルなママ友たちにはいつも圧倒される。相手の気迫に気力を削り取られる。


(去年転園してきた新参者じぶんを仲間内で可愛がってもらってるし、もっと良い意味で立ち向かえるようになりたいんやけどな……)


 香奈は両手の荷物が先ほどより重たくなったように感じた。かといってユウイチにはペットボトルや缶を持ってもらっている。なるべく世話になりたくない、という気持ちが彼女にはある。


「あー……ほんまに自転車で来たら良かったわあ……」

「荷物、変えたろか?」

「どう考えてもユウイチのほうが重たいやろ」

「なら持ったるわ」

「別にええから」


 どうせもうすぐマンションが見えてくる。蒲四がもよんの交差点を曲がれば、もうすぐ。


 ふと、香奈は背後から近づいてくる人影に気づいた。

 咄嗟とっさにユウイチの後ろに隠れる──自転車の少年とジョギング中の女性が通り過ぎていった。

 


 見通しの効かない夜だけに、彼女は普段以上に過敏になっていたらしい。


 マンションのエントランスで開閉用の暗証番号を打ち込む時も、彼女は周りを確認してからゆっくりと「8492」を入力する。

 ユウイチは何も言わない。


 エレベーターに乗り込み、香奈は惣菜の袋を床に落として、どさっと壁にもたれかかる。


「はあ。大丈夫やとおもてるんやけど。情けないわ」

「あんなことがあったんやから仕方しゃあないて」

「今はユウイチがおるんやし、安心やねんけどなあ」

「せやな」

「あいつが来ても、あの時みたいにシバいてくれるやろ?」

「五分五分やなあ」

「なんでやねん」


 二人は部屋に戻ってからも一年前の話を続ける。

 あれはまだ香奈が布施の文化住宅アパートに住んでいた頃だった。

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